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7月, 2005の投稿を表示しています

真面目な報道番組で心霊特集?

★一昨日ですか、夕方、日テレの「ニュースプラス1」を見ていたら、「徹底検証!怪奇住宅の謎!」と言うタイトルで、心霊現象の正体を追求する事件検証コーナーをやってました。 まあ僕はこういうのが嫌いではないので、とりあえず見ていたのですが、映像も音も、すごい異常現象が起きてましたよ。 新築の建て売り住宅と言うことらしいのですが、昼夜を問わず大音響のラップ現象が起こり、誰もいない部屋で話し声が聞こえたり、深夜、誰もいないはずのガラス戸越しに人影が動いていたり、仏間で鐘をならす音が聞こえたり・・ 最初は、真面目なニュース番組だし、音響や映像の専門家が解説すると言う設定だったので、心霊現象を科学的に解明して、「なーんだ、けっきょく普通の自然現象か」と言うパターンで終わるのかと思っていたのですが、どうも雲行きがおかしいのです。 その道の権威、専門家が見てもなかなか原因が分からず、謎は深まるばかりで、最終的には、どう解釈しても、「心霊現象はやはり存在する?!」と言うような結論にしか見えないまま終わってしまったのでした。 これには、心霊肯定論者の僕も意表をつかれました。何を意図して放送したのかまったく不明だったからです。 いつぞやも岐阜?だったか、心霊マンション騒ぎがありましたが、その時には、様々なニュース番組で取材され、いずれも心霊現象を否定する形で終わっていたと思います。 が、今回見たのは「心霊は存在する」と言う結論しか伝わって来ず、「え?!、ちゃんと否定しなくていいの?」と、こっちが心配になるくらいでした。 まあ、夏なのでとりあえず怪奇ものを、と言うことだったんでしょうか?。あるいは、これから夏休みに放送するかも知れない「怪奇特番」の前フリ的な意味だったのでしょうか?。 いや、もっと勘ぐった見方をするなら、ひょっとすると、ついにこう言う「超常現象」をまともに取り上げる時代になった?、と言うことなのでしょうか。 もしそうなら、中学のころ不可思議な体験をして以来約 30 年、したり顔の科学者が鼻で笑いながら「幽霊の正体見たり枯れ尾花」などと解説する姿に歯がゆい思いをして来た、我々心霊関係者?にしてみれば、「隔世の感有り」と言うことになるのですがね。 科学が進歩すれば、心霊現象など世の中からかき消されてし

永島慎二さん亡くなる・・・

★ネットニュースにこんな見出しが出ました。 「青年漫画の “ 教祖 ” 、永島慎二さんが死去」 と言っても、それが何者なのかもう知る人は少ないでしょう。「柔道一直線」を描いた漫画家、と言えばいくらか思い出す人がいるでしょうか?。でもあれは梶原一騎氏の原作で、永島慎二氏のオリジナル作品ではないし・・ 彼のオリジナル作品はもちろんたくさんありますが、僕が中学時代に夢中になって読んだものでは「漫画家残酷物語:シリーズ黄色い涙」「フーテン」「若者達」「新・雨月物語」などを思い出します。 それと「心の森に花の咲く」。このタイトルはとても印象に残っていて、ブレード走行記のタイトル「そして富士北麓に雨の降る」は、これをパロディさせてもらったものです。 中学時代の僕にとっては重要な人物でした。彼に憧れて漫画家を目指したようなものなのです。特に「漫画家残酷物語」。永島氏の若い頃で絵はまだ未完成ながら、ストーリーの完成度は非常に高く、僕が思うには、恐らく井伏鱒二氏の短編小説に匹敵するくらいの出来ではないかと思われるのです。 この「漫画家残酷物語」と「若者達」の二作品をベースにして、 NHK の銀河テレビ小説枠で、「黄色い涙」と言うタイトルでドラマ化されました。 当時、漫画をシリアスなドラマにすると言うこと自体が珍しく、しかも出来がすこぶる良くて、名作と言われました。銀河シリーズでは唯一再放送された作品だそうです。脚本は市川森一さん。主題歌が小椋佳さん。出演は、これが出世作となった若き森本レオさん、下条アトムさんなど。 こんなにも永島慎二氏に憧れ、入れ込んだ漫画家への道でしたが、虫プロ発行の漫画専門誌「COM」が廃刊となったこと、それがきっかけで「絶対プロになろう!」と、一緒に漫画を描いて来た友達が漫画を捨ててしまったことがショックで、いっさいがっさいの漫画本を手放し、自分も漫画を捨ててしまったのです。 最後に描いたコマ漫画は、ある少年雑誌の公募で佳作入選したのですが、小さく名前とサムネールが出ただけでした。同じ頃、別の公募で大賞を取った「足立充」と言う 16 歳の少年が現れたのです(僕は 14 歳)。 「この少年は 10 年に一人の天才である。あえて欠点を上げれば、作品の完成度が高すぎること」との寸評は今でも忘れるこ

物事の由来?(オタクの起源)

★ネットニュースで下記のような記事を見つけました。「オタク検定」だそうです。 「オタク検定、 8 月に第 1 回試験開催」 (記事そのものは削除されてます) いつも思ってるんですが、物事や言葉って、時間と共にどんどんその意味が変容していくと言うか、拡大解釈されていくと言うか、そう言う現象がしばしば起こるような気がします。 そもそも「オタク」って言葉、もとは「コンピュータ・エンジニア」たちのことを指していたっていう事実、今どれだけの人が知っているでしょうかね。彼らが使っていた、独特の言葉使いが由来となっていたのです。 彼らは、お互いを呼び合う言葉として「キミ」とか「アンタ」ではなく、「オタク」を使っていたんです。「オタク、これやっておいて」てな感じです。奥さん達が相手を呼ぶ言葉、「お宅さあ、今晩のおかず何にする?」なんて時の「お宅」と一緒です。 彼らのこの「オタク」と言う呼び方が、やがて「オタク文化」を象徴する言葉となって行くのです。 20 年以上前、まだパソコンなんて無いころ、コピュータ・エンジニア達は、少数派の特種技能者で、そのため日常生活で我々が接する機会はほとんどありませんでした。その彼らと僕が初めて接したのは、 JCGL と言う日本初の CG 映像会社に入社したときでした。 「オタクさあ、ちょっと来てくれる?」。出社するようになったある日のこと、僕は、技術部部長のシムテム・エンジニア氏にそう呼ばれました。「はい」と返事しながらも、心の中では「変なヤツ」と思ったりしていました。 その後も彼らからは「オタクさあ」と呼ばれましたが、そんなことにいつの間にか慣れてしまったある日のこと。彼らのようにコンピュータに詳しく、風変わりで独特な若者文化を持つ人たちをひっくるめて、「オタク族」と呼び、雑誌に紹介されるようになったのです。 このようにして、「オタク」は世間的にも知られるようになって行ったのですが、さらにもう一つの特徴として、彼らの多くが熱心な「アニメマニア」であったことが挙げられます。僕も何度も、彼らが休憩時間に集まっては、アニメついて熱く語り合っている姿を見かけたものでした。 このことを今になって思い起こしてみると、秋葉原が「オタクの聖地」となって行った理由が見えて来るのです。 コ