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クリスマスイヴの配達人

ショート・ストーリー「クリスマスイヴの配達人」
今から40年以上前、お中元・お歳暮が全盛期の頃のお話しです・・


「ムラオカさーん!、日付指定の荷物、ありまーす」
アオタニ君が、配送所の事務室の扉を開け、荷物を積み終え倉庫にいたムラオカさんに向かって、大声を出した。

「はいはーい、えーっと、花っ? 花ですか・・」
「ハイッ、そのようです」

ムラオカさんは自称三十歳の自由人。勤めはせず、今日もアルバイトに精を出す。今で言うフリーターであるが、ただし女房持ち。毎日助手席に愛妻弁当を積んでいる。その定職を持たない大人の姿は、当時二十歳の学生だった僕にとって、それはそれは不思議な人物に見えた。

彼は荷物の花を受け取り、赤いマジックで日付の書かれた伝票をじっと読んでいた。「クリスマス・イブに、花の贈り物?。贈り主は男で、受取人は女か・・。まいりましたね、こりゃあ、大役だ・・」

「ハイッ!」
アオタニ君が嬉しそうに返事をする。

ムラオカさんは、透明なセロファンで包まれた花を覗き込み、中に添えられた手紙を見つけた。「・・わかりました。こんな大切な荷物を、私のようなヤボな男が届けるのはやや気がひけるが、手渡すときには心を込めて、“メリー・クリスマス”とでも言ってやりましょう」

「ハイッ!。お願いします!」
アオタニ君はそう言って、ムラオカさんを送り出した。それから彼は、事務室に置かれた会議用テーブルに向かって座り直し、紛失した伝票の再発行作業の続きを始めた。

周囲では、これから配達に向かおうとしているアルバイト達が、慌ただしく動き回っていた。彼らが事務室の扉を開けるたびに、倉庫の方から、冬の朝の冷たい空気が流れ込んで来た。

さて、そろそろ僕にも出発の時刻が迫っている・・と想ったとき、アオタニ君が急に手を止め、顔を上げて、伝票チェックをしていた僕の顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。僕がその妙な様子に気づいて、んっ?と言う具合にアオタニ君を見返すと、彼はその瞬間を待っていたかのように、口を開いた。

「この仕事が終わったら、タカハシさんち、遊びに行ってもいいですか?」
いきなりだったが、さわやかな笑顔が違和感を感じさせなかった。
「どんな絵を描くのか、見てみたいんですよ」
ためらう理由は無かった。
「いいよ」

すると彼は、答えを聞くなり振り向いて、隣で伝票整理をしていた女の子に言った。「キムラさん、いっしょに行ってみませんか。“ヨックモック”持って・・」

彼女はヨックモックと言う言葉にひとしきり笑ってから、快く頷いた。そして何故か、そのまま視線を下にやってしまうのだった。僕も、なるほど、と笑って、「いつでもどうぞ。“ヨックモック”を忘れないように」と付け加えた。


その日は朝から小雪がちらついていた。

僕は11月の末ごろから大学を休んで、お歳暮配達のアルバイトを始めていた。一カ月で軽く三十万を越えるこの仕事は、多少きついけれど貴重な資金源であった。しかしそれも今日で終わることになっていた。12月24日、疲労がピークに達していた。

家から車に乗り、配送所に着くと、内勤の女の子達が空を見上げて騒いでいた。僕は、雪ぐらい珍しくも無いぞ、と言うそぶりで配送所の入り口へ向かったが、彼女達はどうやら、雪が積もってホワイト・クリスマスになるかも知れない、と言うことに興奮しているらしかった。

「そっか、クリスマス・イブなんだよ今日は。でも、関係ないね」
それよりも、この仕事を早く終わらせてゆっくり絵を描きたい。僕は、そのことで頭が一杯だった。それくらい体は疲れていたし、精神的な余裕も無くなっていた。

この仕事は、お歳暮の小包を軽四輪で配達すると言うものだが、たとえば僕の場合、一日に150個ほど運ぶから、朝9時ぐらいから始めて夕方6時辺りを制限時間とすると、1時間に約16個から17個、つまり休み無しで配達しても、1分間に3個から4個づつさばかなければ終わらない。だから、力仕事ではないのに、この時間に追われるプレッシャーに疲れ果てて来るのである。

アオタニ君は配達員ではなく、内勤だった。几帳面で責任感が強く、明るくさわやか。所長からも気に入られて、いつの間にか内勤の班長のようになっていた。じつは、彼と僕とは、ちょっとした縁でつながっていた。彼の兄が偶然にも、僕の高校時代の級友だったのである。

アルバイトを始めて間もなく、彼が級友のアオタニ兄にあまりに似ており、声もそっくり、名字も“アオタニ”だったので、もしやと思い確かめて見たのだ。すると彼は、「えっ!? あなたがタカハシさんなんですか。そうですか、驚きました。うわさは兄からいつも聞いてます!」と僕以上に驚いて見せたのである。

僕も兄貴のアオタニから、弟のアオタニ君のことは良く聞かされていた。兄と違って、真面目で勤勉、さらに絵心が有り、デザイナーを目指しているしっかり者、と聞いていた。正にその通りの人物だった。

それはよいのだが、「お兄さん、どうしてる?」と僕が尋ねて、「兄貴は、駅前の写真館で、カメラマンのアシスタントをしています」

・・と言う答えを聞いたその翌日、配達の途中たまたま、駅から何キロも離れた商店街の「立ち食いそば屋」に入って見ると、なんとそこに、白衣を着てそばを茹でているアオタニ兄を発見したのである。実に、三年振りの再会であった。

人生とはこんなものだ。会う時には不自然なくらいバタバタと会う。

そのアオタニ兄から、立ち食いそば屋は、写真館が副業でやっている店であり、新人はここで半年間の修行をしなければ一人前にはなれないと言う、奇抜な話を聞かされた。ひとしきり再会の挨拶をかわし、僕はタヌキそばの玉子入りを頼んだ。彼は手際良くそばを僕の前に置き、笑った。エビ天が一つ、おまけに付いていた。

他の客も数人待っていたので、それ以上の深い会話にはならなかった。僕も、名残り惜しそうにするのは少し気恥ずかしい気がして、「それじゃ、また」と、わざとあっさり店を出ることにした。結局それきりだった。以来二十数年、彼とは会ってはいない。

配送所へ戻って、兄貴と会った話しをすると、アオタニ君は驚いて、「えーっ?、ウワサをすればってやつですか!。そんな所にいたとは・・。ボクも兄貴には一年ぐらい会ってないんですよ。ホント、偶然って怖いなあ。・・じつはですねえ、もう一人、偶然が現れたんですよ」

と言って、奥で伝票の区分けをしていた男を指さした。「今まで気がつかなかったけど、オオノさんって、兄貴の中学時代のクラスメートだったそうです」

その声が聞こえたらしく、オオノと言う男は僕達の方を振り向いた。そして、「どうも、奇遇です。」と笑い、「アオタニと高校の同級なんだって?。弟に聞いたよ」とあきれる格好をした。やっぱり、今日はバタバタとしている。

「高校は確か、錦城高校だったよな?」
「そう、錦城」
「芸大なんだって?。凄いね、錦城から国立って、凄いよ」
少し馬鹿にしたような口ぶりだ。

「だろうな。創立以来、国立に入ったのオレが初めてらしい。校長からじきじきにお祝いの電話がかかって来たくらいだ」

その当時錦城高校と言うのは、どうしようもない落ちこぼれ高校で、いわゆる『滑り止め』と言われていた学校である。僕はまさに、辛うじてその滑り止めに引っ掛かったのであった。(ちなみに所ジョージさんはこの高校の先輩で、B’zの松本孝弘氏は後輩に当たります。そして現在は大変優秀な高校に変貌しています)

「弟の方はデザイナーを目指してるんだってな」
オオノは、アオタニ弟を見て言った。
「そうです。デザイン会社を作るつもりなんです」
アオタニ君はよどみなく言うのだった。
「頼もしい!。行き当たりばったりの兄貴とはエライ違いである」
「まったく!」その意見に僕も賛同した。

高校時代、アオタニ兄は学校にいる間ずっと寝ていたような気がする、そんな記憶しか無い。そして想い出したように目を覚ましては、「あのなあタカハシ、オレは、自分の子供が女の子だったら、*トルコって名前にしようと思う。アオタニ・トルコ、どうだ?」(注*トルコ=ソープランドの旧称)

・・と言ったような、どうしようもないことを言ったかと想うと、またいきなり机に伏せると言う日常を繰り返していた。そして、休み時間が来るとむっくり起き上がっては姿を消し、やがて煙草臭くなって帰って来る、それが日課であった。

ふつう、長男と次男って、この逆がホントなんじゃないかなあと、僕は何組かの兄弟を想い出しては、頭の中で比べていた。

「でもタカハシさん、24日で終わりなんですよね」
アオタニ君が残念そうに言った。
「あっ、ギリギリまでやらないの?」
オオノ君も少し驚いて見せた。

「一度、大学へ行かないと。おいて来た荷物があるんだ」
「そうか、ゆっくり酒でも飲みたいところだが、まだまだ仕事は続くもんで」
「ああ、気にしないでくれよ」
気がつくと、キムラさんがすぐ隣で話しを聞いていた。小柄な彼女が、また明るい笑顔を見せていた。

・・そう言えば、僕達は、彼女のこの笑顔にずいぶん救われたような気がする。配達が終わり、疲れ果てて配送所の扉を開けたとき、明るい彼女の姿がそこにある。“あの人がいるから、またそこへ行きたくなる”と想わせる人物は素敵だ。彼女はまさにそう言う女性だった。

だが、彼女がどんな素性の人だったのか、詳しく聞いたことはなかった。年は幾つなのか、学生なのか、何も解らないままだった。このアルバイトは約一ケ月ぐらいの短期で、顔見知りになる頃に別れが来る。しかも僕達配達員は一日中外に出ているから、ほとんど内勤の人と話しをする機会は無いのである。

それでも、その彼女と初めて口を聞くようになったのは、僕が荷物の仕分けをしているときのことだった。手伝ってくれていた彼女が、ずっと無言のまま、つまらなそうだったので、何かしら話しかけようかと想っていた。そこへ、荷物の一つに“ミルクパン”と言うのを見つけたのだ。

「お歳暮にわざわざ三越から“パン”なんて贈るかよ!。パンはパン屋で買えよなあ!」と、わりと真面目に批判して見せた。彼女は最初キョトンとしていたが、急に吹き出したかと想うと、そのまま笑い転げてしまったのである。

「あれっ、ウケた?」
と想ったが、何がウケたのか解らず、今度はこちらがキョトンとして、
「どうしたの?」
と尋ねると、彼女はついに腹を抱えてしゃがみこんでしまったのである。

「これ・・、ミルクを沸かす・・、お鍋のことです・・」
笑いながら、やっと答えた。
「ええっ!?。ミルクたっぷりの、とてもクリーミーなパンのことじゃないの・・?」

そうか、食べ物の“パン”って言うのは、確かポルトガル語だったなよあと思い出し、かなり恥ずかしかったが、まあ、とにかくウケたので、これはこれでヨシとすることにした。それに、そのことを切っ掛けにして、彼女とも気楽に話せるようになったし。

十二月も半ばに来るころ、彼女は荷物のことは何でも解るようになっていた。そこで僕は、随分前から気になっていた品物について、尋ねてみることにした。

「キムラさん、これ、ヨックモックって何んですか?」
あるとき配達順に伝票を並べながら僕は、“ヨックモック”と言う品物の正体が知りたくなったのだ。

「ええっ!、知らないんですかあ?」
彼女は意外なほど驚いた。しまった、オレはまた田舎者を暴露してしまったのか。
「えっ?、ああ・・、うん、知らないんだ。ハンモック、とは、違うよなあ」
キムラさんは顔を崩してもう笑い初めている。とにかくよく笑う。

「ひとつひとつ袋に入っている、ビスケットみたいなものです。わたしはチョコでくるんであるのが好きです」。そう言って彼女は、隣に座っているアオタニ君に補足説明を求めるように振り返った。

「タカハシさん、木炭の入れ物によく使われている缶、知りませんか。木炭デッサンのときの」アオタニ君は真顔で言った。
「ああ? あの四角い、シマウマ模様の缶のことか?」
「ええ、そうです、あの缶に入ってるのが、ヨックモックなんですよ」
「なにい?、そうだったのかあ?!」
「そうです。わかりましたか」

不覚であった。いつも目の当たりにしていながら正体も解らず、横目で見ていたあの缶。そしてその缶欲しさに、さ迷い歩いたあの日々・・

僕達画学生は、デッサン用の木炭や鉛筆を持ち歩くために、おのおの空き箱や空き缶を筆箱代わりに用意していた。中でもそのシマウマ模様のそれは、大きさといいデザインといい、まさに理想的な空き缶で、僕もなんとかして手に入れたいと想っていた。その憧れの木炭入れの缶、その中に入っていた物が、このヨックモックと呼ばれているお菓子だったとは・・

「お中元やお歳暮としては、カルピス、サラダ油と並ぶ定番ですよ」
確かに、オレんちに来る物と言えば、樽酒とか荒巻きじゃけとか、野蛮なものばかりだった。だからついにヨックモックと巡り会うチャンスは来なかったのだ。おそらくこれはオレ達とは縁遠い、ハイソサエティな人々が贈りあう、かなり繊細で高級な御菓子に違いない。

「そうか、そうだったのか。・・オレは、一度でいいから、ヨックモックを食べてみたいなあ」と僕は、冗談っぽくため息をついたつもりだったが、キムラさんは本気で気の毒に想ったらしく、「こんど、買って来てあげましょうか?」と慰めるように言うのだった。

あまり真面目に言われたので、ほんとに情けなくなって来たが、
「チョコでくるんであるやつ」とお願いしてしまった。
そのやりとりを聞いていたアオタニ君が、閃いたようだった。

「そうだ!。今度、仕事が終わったあと、コーヒーを入れて、みんなで食べませんか」。アオタニ君はそう提案して、キムラさんに合図した。すると彼女もニコっとした。

僕はニヤリと二人の様子をうかがった。この二人は近ごろ怪しいのだ。気がつくといつも隣りどうしで座っているし、仕事をしながらも、何かしら世間話しをして良く笑い、楽しそうである。

僕達が外で配達中に、配送所で何が起こっているのか解らないが、彼女がアオタニ君に惹かれたとしても、それは不思議ではない。それほど彼は魅力ある人物だった。たとえば、どんな無理な仕事でも、彼の頼みなら何とかしなければと想ってしまうような、そう言う雰囲気を持った男だった。

しかし残念ながら、あまりの忙しさのため、ついにそのヨックモック・パーティーは実現されないまま、僕は先に最終日を迎えることになった。生真面目なアオタニ君の性格から察すれば、そのことをけっこう気にかけていたのかも知れない。そして同時に、自分に残された時間があと僅かになっていることにも、気がついていたはずなのだ。

「この仕事が終わったら、タカハシさんち、遊びに行ってもいいですか?」
アオタニ君はさわやかな笑顔で言った。
「どんな絵を描くのか、見てみたいんですよ」

この仕事が終わり年が明けたら、彼女も含め、改めて三人でヨックモック・パーティーをやろうと言う。僕はふと、これは彼の作戦なのだと気づいた。“絵を見に行く”ことと、果たせなかった“ヨックモック・パーティー”と言う口実。切っ掛けを作るには好都合だ。

「そっか・・」
僕は自分がいいように使われたような気もしたが、しかし、相手はアオタニ君である。こう言う役もまたいいだろう。
「“ヨックモック”を忘れないように・・」
僕は彼女に向かって、念を押した。


ムラオカさんが配達から帰って来たのは、すっかり日が落ちた六時半頃のことだった。僕は先に戻って、持ち戻った荷物を倉庫の棚に戻したあと、終了した伝票に配達員のサインをしていた。

「うけとり、じたーい!」
ムラオカさんは、白い息と共に、のそりと事務室の入り口に立っていた。そして、わりと大きな声でこう言った。
「受け取り辞退でーす!」

そう言って、周囲の注目を浴びながら、出発のときと同じ格好で、セロファンを被せた花の植木鉢を抱え、所長の机の上に置いた。

「おーっと、大変だよ、これは・・」
所長はそう言って、持ち上げて伝票を確認したあと、その花を返品の棚に戻した。

「どうだったんですか?」
アオタニ君がムラオカさんに聞いた。
「贈り主の名前を見るなり、“これは受け取れません”と言うことでした」
「だめだったんですか・・」

事情を知っている数人の者が、「おー」とか「あーあ」とか言ってニヤニヤし、知らない者に説明を始めた。

「なんだか、こっちが落ち込んでしまって・・」
ムラオカさんは椅子に腰掛けながら、ため息をついた。
「まるで自分がフラれたような気分ですよ」
「そんな・・」
アオタニ君が苦笑しながら言った。

「どんな女だった?」
オオノが興味深々の口調で尋ねた。
「二十五、六ぐらいかな、なかなか奇麗な人でしたよ」

「性格、悪そうだった?」
「そんなことは無いでしょう。だいたい、そんなことまで解りませんよ」
「ふーん。でも、大したもんだ」
ムラオカさんは、それには黙っていた。

「このお花は、どうするんですか?」
キムラさんが立ち上がって所長に近づき、尋ねた。
「差出人に戻すんだよ」
まだ三十代前半の、若い所長が椅子に座り直しながら、口元に笑みを浮かべて答えた。

「もったいないです」
「ん?。そうだねえ」
「今から戻したら、しおれちゃいますよ」
「ん?・・うん」。所長は仕事を続けながら生返事である。
周囲の者たちは、彼女の姿を見てニヤニヤざわついていた。

「お水、あげてもいいですか?」
キムラさんがみんなの冷やかしを遮るように、キゼンとした声で言った。それを聞くと、所長も上目使いで彼女の顔を見、黙ったまま小さく何度も頷いた。

室内が静かになっていた。さっきまで冷やかし笑いをしていた者も、机に向かって真顔で仕事を続けていた。ガスストーブの燃える音だけが聞こえていた。

「・・嘆くな、少女よ」
ムラオカさんが見かねて、ふざけた調子で言った。
「こう言うことも、ある」

それでも、キムラさんは憮然としていた。
「でも、受け取るだけ受け取っても、いいと想いませんか?」
すると、う~ん、と唸ってムラオカさんは考え込んでしまった。

「きっと、性格、悪い人なんです。想いやりの無い人なんです」
「これこれ少女よ、会ったことも無い人の悪口を言うのはやめなさい」
「だけど・・、すっごく、嫌な気分!」

「こう言うこともあるさ」
「そんなあ・・」

ムラオカさんは彼女の顔を、困った子だ、と言うように眺め、「あのねえ、たとえばフラれるより、フッた方が何倍も傷つく、ってことだってあるんだよ」と諭すように言った。

「でも・・、じゃあ、その女の人は傷ついてるんですか?」
「それは・・、だからね、解らないんですよ。人の心の中のことは誰にも解らないの。うわべだけ見て、あの人が悪いとか、いい気になってるとか、簡単に決めつけちゃいけないんですよ」

ムラオカさんは、キムラさんが執拗に食い下がるので、少しムキになっていた。しかしひと呼吸置いて、いつもの穏やかな笑顔に戻ると、
「少女よ、そのうち、解るようになる」
と静かに話した。

それでもなお、彼女は納得が行かない様子であったが、ずっと、二人のやりとりを見ていた所長が、「キムラさん、集計、お願い」と声をかけたことで、この話しはようやく終わりを迎えることになった。

その声に、僕も帰るきっかけを見つけた。
「それじゃあ、そろそろ、お先に失礼します」
そう言って、二度三度、誰にともなくお辞儀を済ませると、上着を着て、表に出た。

空からは大きな牡丹雪が降っていた。昼間は一度やんでいたのだが、夜になってまた降り始めたらしい。扉のすぐ横で、アルバイトの女子高校生二人が、両手をコーヒーカップで暖めながら空を見上げていた。

「寒くないの?」
と僕が尋ねると、彼女達は笑って、
「雪だから・・」
と答えた。僕は「それじゃ、お先に・・」と言って車に乗り込んだ。

車を走らせながら、僕は先程までの二人のやりとりを想い出していた。そして、やがて差し戻されるであろう花を手にする、男の姿を想像した。

「その男は、いったいどんな夜を迎えるのだろう」
いつの間にか、心に、かすかな悲しみがまとわりついているのに気づいた。
「まいったな。どうしてこう、簡単に人の気持ちがのり移ってしまうんだ」
だが、どうすることも出来なかった。

雪がフロント・ガラスに吹き付け、ワイパーの形に削られていた。しばらく走って、幾つかの交差点を過ぎると、なだらかな坂を登り、わりと見晴しの良い丘の上に出る。すると、そこから下の住宅街の真ん中には、小さな教会が見えるのだ。

ささやかにライト・アップされた十字架と共に、今夜はクリマス・ツリーの明かりが点滅を繰り返していた。あの教会では、毎年クリスマス・イブの夜、子供達が集まって“きよしこの夜”を歌い、ケーキとプレゼント交換のパーティーをして過ごすのだと言う。小学生の頃、隣の席の女の子が何度もそう教えてくれた。

「まてよ?、あの子は、僕を教会に誘いたくて、わざとあの話しをしたのか?」
なぜか突然そんな気がした。もし、そうだとしたら・・、そんな大昔の記憶が、今頃になって僕の胸をチクチクと痛めつける。

「そんなこと、思ってもみなかったよ・・」
でも、すべての期待に応えることは出来ないんだ。たとえ、どんなに広い心を持っていたとしても・・

ラジオからは、幾つものクリスマスの曲が流れ続けていた。歌っているのはハリー・ニルソンだった。「この人、クリスマスアルバムも出してたんだな」と思う。

ニルソンだと分かったら、何だか映画の「真夜中のカウボーイ」に使われていたあの曲が聴きたくなった。タイトルは忘れたけど、ニルソンが歌ってたやつ、あの曲・・。そうすれば、少し心の曇りが晴れるような気がする。

雪が、家々の屋根や木の葉を白くしていた。ふだんは見えない街中の暗闇が、うっすらと雪明かりで浮かび上がっている。そうして、ほんのいっときだけ、世界を広く優しくしていた。・・だが、予報によれば、この雪は積もらず夜の内に溶けてしまうらしい。

一度、警察の検問に車を止められた。免許証を抜いて、警官に差し出す。窓から中を覗く警官は、検問にしては見るからに人の善さそうなオヤジさんで、軍手をしていた僕の手元を見つけるなり、「ああ、お仕事帰りですか?。はあ、気をつけて下さい。今夜は酔っ払いがたくさんおりますので」と言って、笑顔で、雪が降り積もった帽子のツバに手を当て、敬礼の格好を作った。その人当たりの良さが、心の奥に暖かいものとなって残った。

そうだ。だいじょうぶなんだ・・
年が明けたら、アオタニ君とキムラさんが遊びに来るから。

いつの間にか雪が小降りになっていた。しばらく走った先の信号待ちで、窓を開け空を見ると、まだらなになった雲間に、月明かりが透けて見えていた。

「そうだよ。明日はイエス・キリストの誕生日なんだ」
だからもう、だいじょうぶ・・

年が明けたら、あの二人が遊びに来る・・。都合の良い日を、こちらから連絡することになっていた。年が明けて、一週間じゃちょっと早い。二週間過ぎたら間が抜けてしまうし、そう、ちょうど十日目ぐらいに連絡することにしよう。

まずアオタニ君に電話をして、それからキムラさんにも・・、気が変わらないようにね。僕がわざわざ彼女にも電話するのは、もちろん・・

「“ヨックモック”を忘れないように」
念には念を、ただそれだけの理由だ。



<おしまい>
  

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前回までのお話し →  4「ついに墓地に辿り着く。ところが・・」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2022年、2月17日。鎌倉の寿福寺を訪れ、37年前に若くして亡くなった女性の墓参りをしようとしたものの、すでにお墓は無くなっていました。東京に転居した母親の手によって、何処かの墓地に改葬されたと言うのです。 そのおり寿福寺で、母親の転居先が東京の「日の出町」だと教えられた僕は、まず「Googleマップ」で場所を確認してみることにしました。すると、ストリートビューには綺麗な白い家が現れました。さらに門の部分を拡大して見ると、確かに表札には○○との苗字が見えました。 車庫には乗用車が停まっていました。80歳を越えていると言うお母様が運転するとは思えず、もしかすると、どなたか親族の方と同居しているのかも知れないと想像しました。 ただし、ストリートビューの写真は「2019年」のまま更新されておらず、それを見た僕はふっと思ったのです。 「この2年ほどの間に、何も起こっていなければいいが」と・・ まず、母親宛に手紙を書いてみようと思いました。ありのままを正直に・・、2021年、何度も見るようになったご息女の夢の話しから、芸大時代のローラー・スケートの話し、鎌倉寿福寺での出来事、そしてこの住所に辿り着いたいきさつを・・ とにかく怪しまれぬよう、失礼にならぬよう、慎重に何度も読み返しては書き直し、出来あがるまで結局二週間もかかってしまいました。そして最後に身分証明として、東京芸大の卒業証書 のコピーも同封しました。 返事はなかなか来ませんでした。3月3日に投函して、一週間過ぎてもまだ来ません。最近は土日に配達しないそうなので、その分だけ遅れているのだと自分に言い聞かせましたが・・。いや違う、母堂を不快な気持ちにさせてしまい、破り捨てられたのだ?・・などなど、様々な想いが去来しました。 ・・それでも中々来ることはなく、 「頑張ってはみたけど・・、どうやらここまでかなあ」 と、少しずつあきらめの気持ちになって行った3月12日、土曜の夕方、スマホに着信があったのです。 見知らぬ番号でしたが、出てみました。 「私、◯◯様から遺言執行人を依頼されました、弁護士の◯◯と申しますが・・。高橋様からのお手紙を転送先で受け取りまして、お電話差し上げました」 と言うの...

水曜どうでしょう 2011新作&・・・

★今月3.11、東北の大震災から1年が過ぎ、いろいろな新事実が分かって来ました。 ・・で、あの「管降ろしの謎」を書いた手前、「その後」を書こうと想って、ごちょごちょ文章を練っていたのですが、同じ日に始まった「水曜どうでしょう2011年新作」を見ている内に、なんかどうでも良くなってしまい、日にちが経ってしまいました。 ◎ 水曜どうでしょう新作情報 「水曜どうでしょう」と言うのは、HTV(北海道テレビ放送)が制作した番組で、いろいろなバカバカしい企画を立てては旅をすると言うローカル番組です。 出演者は大泉洋氏と事務所の社長でもある鈴井貴之氏ですが、これに番組のディレクター二人もからんで来ると言うような展開で進みます。タイトルは水野晴郎さん解説の「水曜ロードショー」のパロディと言うことでしょう。 今や、様々なドラマや映画で主演級の働きをし、賞にも選ばれ大活躍の大泉氏ですが、この番組が始まった当時は大学生だったそうです。私が彼の存在を知ったのは、パフィが好きで当時よく見ていた「ぱぱぱぱパフィ」でのことでした。そこにたびたびゲストとして出ていた姿を見たのが始まりでした。 その時は「誰だコイツ?」なんてまったく素性が分からなかったのですが、その後、関東圏のローカル放送(UHF)で「水曜どうでしょう」が放送されると、「あっ、ぱぱぱぱパフィで見た奴だ!」と気づき、それが面白くて彼のファンになりました。 ただし、残念ながらアナログ時代のUHFでは画質が悪く、ゴーストまみれの画面でガマンしなければなりませんでした。ですが、それから数年がたち地デジ放送が始まると、ちょうど「水曜どうでしょう classic 」として再放送されていた同番組を、ゴースト無しのまともな映像で見ることが出来るようになり、再び欠かさず見るようになったのです。(今度は録画もして楽しんでます) そうして、こないだの3.11から、関東圏でも新作「2011原付日本列島制覇3」と言うのが始まりました。東京羽田から高知の桂浜まで、そば屋が使うような非力なスーパーカブで過酷な旅をする、と言うものです。今度はもちろんハイビジョン撮影の鮮明な映像です。 しかしながら、無名だったローカルタレント時代と違い、有名人となってしまった今、昔のように、人だかりを避けての、無鉄砲...

iPhone7に対応? Bluetoothレシーバーを持っている

★「iPhone7」が発表されまして、ずっとiPhoneだった筆者としては大いに気になるところですが、今回からついに?「イヤホンジャック廃止」と言うことになりました。 ウワサでは聞いていたのですが、ホントに無くなるとは・・、さすがAppleですね。どんどんユーザーを置いてきぼりにして行きます。 ところが何と、筆者はそれを見越していたのですよ・・、と言うわけでは無いのですが、じつは、すでにもうイヤフォンジャックは使用せず、「Bluetoothレシーバー」に頼りっぱなしなのであります。あんまり便利なので、今は計3個も持って使い分けてます。 なんで3個も?なのかと言うと、これらも充電式なので、電池が切れたらすぐに次のに切り替えられるよう、用意しておくためです。充電するのにやはり数時間かかりますからね。それに、バッテリー交換ができません。バッテリーの寿命がレシーバーの寿命ということになるので、安い内に何個か予備を買っておこうと言うわけです。 3個ともエレコムの製品です。「エレコムわけありショップ」と言って、型落ちやパッケージ崩れを格安で買えるネットショップがあるのですが、そこでたまたま見つけ購入しました。なので、3〜4千円を千円くらいで購入しました。 「最大出力40mW+40mWの高音質ヘッドホンアンプを搭載。ワンタッチ設定のNFCペアリング対応。連続再生9時間の長時間再生、高音質低遅延のaptXコーデック採用モデル」 以上が、その時の宣伝モンクです。これが有ったので、そこそこいい音がするのでは?と思って聴いてみたら、まあまあ、直接ジャックにつなげた時と大差無かったので、良かったと思います。 一番の利点は、当たり前ですが、イヤホンをiPhone本体から離して聴くことが出来ると言うことですね。ケーブルの取り回しが楽になり、行動し易くなるのです。極端な例では、防水ケースにiPhoneを入れ風呂場の壁にかけ、音楽を聴きながら風呂掃除をする、なんて離れ業?ができます。マイクが付いているので突然の電話にも対応可能です。 電車に乗るときでも、ケーブルを短くまとめれば、iPhoneはバッグに入れたまま、レシーバーを胸ポケットに挟めばいいので、ケーブルがブラブラするなんてことも無くなります。特に充電しながらの時など、バッテリーだけバッグの中でつなげばいいので、見た目はもうスッキリしたもんで...

「Keep Trying'」と「時効警察」と「蟲師」と・・

★僕もけっこうな歳になったので、その分、数え切れないほどの映画やドラマ、小説などを鑑賞して来ています。なので、たいがいのモノはプロローグや予告編を見ただけで、ほぼストーリー展開が分かってしまうようになってしまいました。そうなると、残念なことにだんだんと面白く感じる作品が少なくなるわけです。 もっとも、じつは「物語のすべてのパターン」は、シェークスピアがすでに書き尽くしていて、後世の作家は、それらを元に手を変え品を変え、焼き直ししているに過ぎないと言う説もありますが・・・ まあどちらにしろ、歳を取れば取るほどに、あらゆるタイプの作品を見て来ているわけで、次第に 新鮮味のある作品に出会える機会が減ると言うことだけは確かなのです。 それゆえの苦肉の策と言うことなんでしょうか?、最近のハリウッド映画は、公開前に一般人をモニターにして、事前に用意したいくつかの結末の中から、好きなものを選ばせると言う手法を取っているのだそうです。 一般人をバカにするワケではないですが、最大公約数的選択をすると、どうしても予定調和?「水戸黄門的」になり易いので、かえって失敗作を生んでしまう恐れがあります。 デザインでも何でもそうなんですが、色んな人の意見を聞いちゃダメなんです。むしろ独断で、普通の人が「え〜?!」と首を傾げるくらいのアイデアでないと、新しいモノを生み出すことは出来ません。 一般人と言うのは、「むかし何処かで見たことがあるモノ」を、良し悪しの基準にしているので、彼らが良いと思うものは、すでに存在しているもの、誰かが発案した古いアイデアがほとんどなのです。これでは新しい作品は作れません。下手すると無意識にパクリをしちゃう場合も有るので要注意です。 音楽についても同じようなことが言えます。若い人をコケにする(表現古い?)つもりは無いんですが、若い人の作るメロディーは、どうしても何処かで聴いたようなのが多いんです。もちろん「パクリ」って意味じゃなくて、若い人ほど聴いた音楽の数が少ないわけで、すでに使い古されたメロディーでも、自分が初めて創り出したような錯覚に陥ったり、聴く方も新鮮に感じてしまうって事があるのです。 音楽全体をコンピュータで解析してみると、すでにあらゆるドレミの組み合わせは使い古されており、完全に新しいメロディを作り出すことは不可能なんだそう...

4「ついに墓地に辿り着く。ところが・・」

前回までのお話し →  3「今ごろ?”facebook”を初めてみた」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2022年2月17日、午前8時半ごろ。僕は鎌倉にあるお寺「寿福寺」の参道を歩いていました。久しぶりに第三京浜から横浜横須賀道路へと車を走らせ、下に降りてから数キロの山道を越えやって来たのです。 2021年の春ごろから、僕は、37年前に若くして亡くなった、大学同期の女性の夢を何度も見るようになりました。そして、その彼女の墓参りに行きたい衝動にかられるのです。 そこで、手がかりを探してネット検索すると、偶然、やはり同期の女性NさんのWebサイトが見つかります。 Nさんは、彼女の訃報を知らせてくれた人でした。もしかして?との思いからメールで連絡を取り、理由を伏せたまま、こ ちらも2021年12月、37年ぶりの再会を果たすのですが・・ しかしながら、本来の目的だった「夢の事情」をNさんに打ち明けるのは、再会してからさらに二ヶ月が過ぎたころでした。 始めたばかりの「facebook」を見ていたところ、 年が明けた 2022年2月、Nさんがまた別の展示をすると言う告知がアップされていたのです。 天気予報では、その展示の二日目あたりに「東京が大雪の恐れ」との話しだったので、晴天間違い無しの初日にそこへ向かうことにしました。 その会場で二度目に会 ったとき、ついに堪えきれなくなり、笑われるのを覚悟で、恐る恐る「夢の事情」を説明してみたのです。すると笑われるどころか、むしろNさんは少し驚いて、 「それならそうと早く言ってよ!  あなた、あの子に呼ばれてるのかも知れないよ!」 と、強く叱咤するのでした。 Nさんから「Facebook」を勧められたとき、「もしや、何かがシンクロしているのでは?」と感じた通り、Nさんはやはり 僕が探していた、 ''お墓の場所を知っている人'' でした。 それどころか、当時何年もお墓参りに通 っていた人物、と言うことが判明するのです。 もし「Facebook」を始めていなければ?、Nさんとの再会もその場限りで、二度目に会って「夢の事情」を語るチャンスは無かったかも知れません。 「お墓は、鎌倉、寿福寺の墓地だよ。すぐに行ってあげて!」 と、半ば尻を叩かれる形で、墓参りを決意をすることになりました。そ...

デザインコンセプト

★新ユニフォームのデザインがほぼ決定し、発注済みでは有りますが、ここで、どんな成り立ちで今回のデザインが決定して行ったのか、その経過を書きとめておきます。 メンバーの中には直感的に「ここはこの色の方がいいのに」と思う人や「何故こう決まったのか分からない」と言う人もいると思いますので、それらを分かりやすく箇条書きにしました。 これを読んでもらえれば、デザインとは思いつきではなく、コンセプトに基づいて、時間をかけひとつひとつ決まって行くものだと言うことが伝わることと思います。 【グレーシャツ】 グレーパンツが「汚れが目立たなくて良い」「洗濯が楽」など好評のため、グレーパンツを残すことにしました。 そしてシャツもグレーに。現行ブラックシャツは、制作した1999年当時は珍しかったのですが、その後、濃い色のシャツがどんどん増え、似たり寄ったりのチームが増えて来ました。それに比べ、グレーシャツの絶対数は少なく、オリジナリティを発揮しやすいと考えました。 【ホワイトのアクセント】 しかし、全身グレーのユニフォームは、反面「ビジターっぽい」「雰囲気が暗い」などのデメリットが有りました。(左イラストを参照)その雰囲気を払拭するために、何処かに「ホワイト」を入れるのが効果的だと考えました。 そこで、いま流行りの「ツートンカラー(切り替えカラー?)」を活用し、脇腹をホワイトにし、少しでも「明るさ・軽さ」が出るようにしました。 【エンジに黒の縁取りロゴ】 さらに、グレー(無彩色)の寒々とした感じを無くすために、ロゴマーク・背番号を、イメージカラーであるエンジを残し、生かすことにしました。 そしてグレーとエンジの響き合いを良くするため、縁取りはブラックに。背ネーム希望の場合は、ブラック一色の文字で入れることにしました。(背番号文字はイラストとは違います) 【「SINCE 1988」をホワイトで刺繍】 脇腹のホワイトに呼応するホワイトが欲しいため、ロゴ下にバットを模したシルエットを作り、そこに「SINCE 1988」を「ホワイトの刺繍」で施すことにしました。黒字に白い刺繍をすることで、コントラストを強くし、印象的になると考えました。 【エンジのネックライン、袖ラインを入れる】 ロゴ・背番号のエンジに呼応するエンジが欲しいため、ネックライン、袖ラインをエンジにしました。アンダーシャツを着ない場...

2011年、山下達郎、ニューアルバムリリース

★先日、山下達郎氏の6年ぶりのアルバム「Ray Of Hope」が出ました。ホントは昨年の9月ごろ「WooHoo」と言うタイトルで出るはずだったんですが、発売延期のため、約1年遅れでのリリースとなったのです。 凝り性のタツロウ氏のことなので発売延期は珍しくないのですが、かつて「湯水のように金を使い、想い通りのコンセプトでアムバルを作りたい」と熱く語っていた同氏にしては、ずいぶん作り方が簡単と言うか、14曲中9曲がタイアップで、その他数曲ををまとめただけのモノになってる気がします。 まあ、アルバム(album)とは「閉じたもの、幾つかのものをまとめたもの」と言うことなので、本来の姿と言えなくもないのですが。 NEVER GROW OLD (アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」CMソング) 希望という名の光 (映画「てぃだかんかん-海とサンゴと小さな奇跡-」主題歌) 街物語 (ドラマ「新参者」主題歌) 僕らの夏の夢 (アニメ映画「サマーウォーズ」主題歌 ) ずっと一緒さ (ドラマ「薔薇のない花屋」主題歌 ) HAPPY GATHERING DAY (「ケンタッキー・フライド・チキン」CMソング ) MY MORNING PRAYER (NTV系「ZIP!」テーマ・ソング ) 愛してるって言えなくたって (ドラマ「冬のサクラ」主題歌 ) バラ色の人生~ラヴィアンローズ (TBS「ブロードキャスター」テーマ・ソング ) こう並べてみると、メロディ的にはかつての面影は少なく、むしろ「新しいタイプの歌謡曲」と言えなくも有りません。なので、昔からのマニアックなファンにしてみれば、「タツロウは終わった」なんて痛烈な批判も出そうですが、私は、これはこれでいいんじゃないかと想ってます。 と言うのも、以前タツロウ氏がFMラジオで、「40歳過ぎても音楽の仕事が出来るとは想ってなかった。それでも仕事をくださるクライアント様には感謝しかない」と語っていたのを聴いていたからです。 ある年齢を過ぎてからは、仕事を選ばず依頼されたことに全力で取り組む、そう言う姿を貫いているのだと想います。「ARTIST」ではなく、まさに「音の職人:ARTISAN」と言ったところでしょうか。 たとえばドラマや映画のテーマ曲なんかでも、既成の曲をあてがうと言うのはまず無いのです。ス...