2011年12月28日水曜日

M78星雲の彼方に・・「市川森一さん亡くなる」

★先日、脚本家の「市川森一さん」が亡くなりました。

子供の頃に見た「怪獣ブースカ」「ウルトラセブン」「新・坊ちゃん」「傷だらけの天使」「銀河テレビ小説:黄色い涙」などなど、その名を知らずに引き込まれていた作品は数知れません。その後、何かのおり、自分が好きなドラマ(あるいは好きな回)の多くが、市川森一脚本によるものだ、と言う事実が判明して驚愕してしまうのです。

昭和のテレビ全盛時代、代表的な脚本家としては「倉本聰氏」「山田太一氏」がまず上げられますが、私にとってのナンバーワンは、なんと言っても「市川森一氏」だったと思います。

そんな数多くの作品の中でも、特におススメしたいのは下記の二本なんです。と言っても、今となっては観ること自体が困難ですが・・(追悼番組として再放送を望む)

◎「面影橋・夢いちりん(ギャラクシー月間賞受賞)」
エリートとして出世した四人の男が、学生時代に入り浸った喫茶店を通して再会し、その中の一人が殺人事件を犯していたことから運命が急展開、やがて、それぞれが純朴だった学生時代を思い起こす物語り。全4回の短いドラマですが、心に残るラストが秀逸でした。「あの頃の忘れ物を取りに行く」というフレーズは、今では定番の言い回しとなってますが、あれはこのドラマのラストシーンのセリフが始まりです。

◎「私が愛したウルトラセブン(放送文化基金賞受賞・第19回ドラマ番組部門奨励賞」
ウルトラセブンと言う夢作りの現場を舞台に、フィクションとノンフィクションを巧みに織り交ぜた物語り。「夢見る力」という流行語はこのドラマのサブタイトルがきっかけです(DVD販売有り)

★ 追伸:「私が愛したウルトラセブン」は、NHKBSプレミアムにて再放送されることになりました。この機会にぜひ見てみてください。
前編「夢で逢った人々」12月31日(土)14:40~16:10
後編「夢見る力」1月7日(土)17:00~18:30
(終了しました)

で、以前「私が愛したウルトラセブン」について書いた文章が有りましたので、今回追悼の意味を込めて、再録させていただきます。


   
   
M78星雲の彼方に・・

「西の空に、明けの明星が輝くころ、ひとつの光りが宇宙へ飛んでいく。
 ・・それがボクなんだ」

これが、彼が残していった最後の言葉です。その後、いろいろなウルトラの兄弟たちが地球に降り立ちましたが、ついに、彼が戻って来ることはありませんでした。

ウルトラセブン・・
ベトナム戦争の末期、沖縄がまだアメリカの施政権下に有った時代の日本に彼はやって来ました。普段は「諸星ダン」と言う青年の姿を借り、地球人(ウルトラ警備隊員)として暮らしていますが、警備隊の手におえない宇宙からの侵略者や怪獣が現れた時には、急きょウルトラセブンに変身して倒してくれるのです。

そのセブンに疲れが見え始めたのは、いつの頃からだったでしょうか?。彼の戦いぶりに精彩が無くなり、勝利を納めても、かつてのような喜びを見せなくなって来たのです。

人々は口々にささやきました。
「セブンも、ベトナム戦争にかり出されるアメリカ兵のように、自分の正義感に自信が持てなくなったんじゃないのか?」
「敵の気持ちが分かりすぎるんだよなあ、このごろのセブンは・・」

いったいセブンに何が有ったと言うのでしょうか? じつはこの時期、彼はこんなことを考えていたらしいのです。
「宇宙人は決して地球人にはなれない。他人の眼はごまかせても、自分はだませない」
セブンは、自分を偽って生きることに疲れてしまったのです。

時を同じくして世田谷の円谷プロダクションでは、ひとりのシナリオライターが旅支度を始めていました。彼の名は「金城哲生」。円谷プロ、脚本部のチーフです。彼は、ウルトラセブンの最終回「史上最大の侵略」を書き終えると、それを結核で療養中の同僚「上原正三」に読ませ、それから雨の街へと歩き始めました。

上原は、シナリオを読み終えてこう言うのです。
「まるで、セブンの遺書みたいなものだね」

金城の向かった先は「沖縄」。その小さな島は、金城哲生と上原正三にとって、かけがえの無い故郷でした。二人は、むかし薩摩藩に侵略され、力づくで日本人にさせられた琉球人の末裔だったのです。

「琉球人は決して大和人にはなれない。
 失われたはずの王国の血が、まだ身体の中で脈打ってるんだ」
それが彼らの気持ちでした。

旅立ちのとき、金城は「おやじさん」、つまり「円谷英二」とすれ違いました。
「沖縄へ行って来ます」
と告げると、おやじさんはこう声をかけたのです。
「俺は、いつだって、お前さんを息子のように想ってるよ。頼りにもしてる。
・・また、次ぎをやろう。だから早く戻って来ておくれ」

そのおやじさんの後ろ姿を見ながら、金城は小さく呟きました。
「もどって来ます。・・いつか、また」

やがて最終回の撮影が始まります。

「アンヌ。僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」
一瞬、言葉を失うアンヌ隊員。
「驚いたかい?」
「・・いいえ、人間であろうと、宇宙人であろうと、ダンはダンに変わりないじゃない。たとえウルトラセブンであっても」
「ありがとう。アンヌ」
見つめあう、ダンとアンヌ。
そして、意を決したように口を開くダン。
「いま話したとおり、ボクはM78星雲に帰らなければならないんだ」
アンヌに背を向け、夜空を見上げるダン。
「西の空に、明けの明星が輝くころ、ひとつの光りが宇宙へ飛んでいく。
 ・・それがボクなんだ」


・・これは、1993年にNHKで放送されたドラマ「私が愛したウルトラセブン」の一部です。脚本は、当時セブンのシナリオも手掛けた市川森一氏。本人の若いころも「石川森一」と言うボケ役で登場させています。

ドラマは、フィクションとノンフィクションを巧みに織りまぜながら進んで行きます。「ここまではホント? ここからは作り物かな?」と、見ている側を不思議な迷路の中に引き込んで行くのです。

しかし、このドラマで重要なのは「沖縄」と言うキーワードです。セブンのメイン・シナリオライター二人が共に沖縄出身であり、自分たちの姿を、少なからずセブンに投影していたのではないか?と言うことが、全編を通してのテーマの一つとなっているようです。

こんなシーンが有ります。ウルトラセブンの第42話「ノンマルトの使者」。

諸星ダンはある謎の少年から「ずっと大昔、地球にはノンマルトと呼ばれる本当の地球人がいた。でも後からやって来た人間によって海底に追いやられてしまったんだ。人間は侵略者なんだ!」という話しを聞くのです。悩むダン。しかし「ぼくは戦わなければならないんだ」と、ウルトラセブンに変身するダン・・

こんなエピソードを挿入したのも、かつて独立した国家であった「琉球国」が、侵略を受けて日本に併合され、第二次世界大戦ではアメリカ軍に占領されると言う、悲しい運命を背負った故郷として心に強く焼き付けられていたから、とも言えなくは有りません。

なので、ややこじつけ気味ではありますが、セブンの故郷「M78星雲」とは、M(ミナミ)の78(ナハ)、つまり沖縄の県庁所在地である那覇市を意味していたのではないか、と言う伝説も生まれているのです。

まあ、その後、それらのエピソードについて尋ねられた上原正三氏は、「それほど沖縄を意識したことはなかった」と語ってはいるのですが、金城氏に関して言えば、「私が愛したウルトラセブン」の展開と同様、ウルトラセブン放送終了後、ひとり沖縄へ帰ってしまう、という行動をとったことは確かなのです。

そんな金城氏の行動は、すぐ近くで見ていた「脚本家、市川森一」の目には、やはり興味深い姿として映っていたに違い有りません。いろいろな社会の激動を見ながら、脚本家が、ドラマに何かを託そうとしていた時代でもあったからです。

たとえば、ウルトラセブン全49話の中には、放送されることなく封印された幻の12話、「遊星より愛をこめて」と言う回が存在します。脚本を担当したのは佐々木守氏。原爆反対を訴えたつもりの内容が、「被爆者を差別している」として反対運動が起こったため、円谷プロが自主的に封印してしまったと言う作品です。

ですが、真実は、ウルトラセブンを特集した少年雑誌の頭の悪い編集者が、放送予定の12話の紹介で、「スペル星人」を、勝手に「ひばく星人」と書き違えてしまったことで生じた誤解だったのです。

当時の熱気あふれる現場。「ウルトラQ」「ウルトラマン」と続いたヒットシリーズの3作目。スタッフもノリにノッています。ライターたちはまだ若く、1作ごとに熱いメッセージを込めて書き上げていたのでしょう。ベトナム戦争、安保闘争、沖縄返還問題、そして相次ぐ大国の原水爆実験など・・。ライターたちは、「悪い侵略者をやっつけろ!」と、正義を信じる子供たちにこそ本当のことを伝えたい、そう想ったのかも知れません。

「血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」

これは、より破壊力のある兵器開発に血まなこになる地球防衛軍の姿を、諸星ダンが怒りとともに批判した名セリフです。批判したダンが、「おまえの考えは間違っている!」と、仲間であるはずの他の隊員たちから責めたてられるシーンがあるのですが、子供心にもダンが可哀想で、悔しくて目頭が熱くなった記憶があります。

『忘れるなダン、地球は狙われているんだ。今の我々の力では守りきれないような強大な侵略者がきっと現れる。その時のために・・』 
『超兵器が必要なんですね』
『決まっているじゃないか!』
『侵略者は、超兵器に対抗してもっと強烈な破壊兵器を作りますよ!』
『我々は、それよりも強力な兵器をまた作ればいいじゃないか!』
『・・それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ』
*ウルトラセブン26話「超兵器R1号」より

その後マニアの間では、「ウルトラセブン」が、シリーズ最高傑作だったのではないか、とウワサされるようになりました。確かに、でなければ「初代ウルトラマン」以外の数有るウルトラシリーズの中で、わざわざセブンの制作現場を選んでドラマ化、なんてことは無かったかも知れません。・・そして同時に、そう言うシリーズを、リアルタイムで見ることが出来た自分たちに対しても、何か誇らしいものを感じるのです。

ところで、沖縄へ帰ってしまった金城哲生さんは、その後どうなったのでしょう。どうも私には、戻って来なかったように想えてなりません。と言うのも、セブンのあとに放送されたウルトラシリーズは、どれも私の心を揺さぶってはくれなかったからです。

・・それとも、単純に、私の子供時代が終わりを告げたと言うことだったのでしょうか?

  

◆「私が愛したウルトラセブン」◆
  前編「夢で遇った人々」
  後編「夢見る力」   
   
 作   :市川森一  
 演出  :佐藤幹夫   
 音楽  :宮川彬良   
 演奏  :ウルトラ楽団 

◆主な配役◆   
 アンヌ :田村英里子  
 ダン  :松村雄基   
 金城哲生:佐野史郎   
 上原正三:仲村トオル  
 円谷英二:鈴木清順   


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2011年12月14日水曜日

iPhone4Sが届いた

★先月予約しておいた「iPhone4S」がやっと届きました。写真の右側が「iPhone4S」で、左がそれまで使用していた「iPhone3GS」です。

注文から納品まで半月くらいでしょうか、今までで一番時間がかかりました。(壁紙は自作です)

電話機能を切り替えているので、「iPhone3GS」はすでに圏外になってますが、Wi-Fiは生きていおり、そのまま「iPod touch」として?使えることになります。まあ自分としては、カーオーディオ専用の音源として使えるので便利かなと言う気がします。

いつもなら新しい携帯電話が届くと、マニュアルを見ながら新機能など試したりして、けっこう時間を忘れて楽しいものですが、今回はデータをそっくり移し替えるだけで終わってしまったので、案外感激は無かったです。

ただやはり、アプリの起動が数段早くなっているのには気がつきました。そのため、3GSでは重くて削除してしまおうかと想っていたアプリが、メインアプリになったりするなどの変化も起こりました。

速度と言えば、今回は「au」からも発売されて、「SoftBank 対 au 対決」なんて記事も盛んに出てましたね。発売前の評判では、ほとんどが「au」に乗り換えるのでは?という予測が多かったようですが、結果的には、先輩の「SoftBank」の勝利だったようです。「au版」は、現時点では、通話とデータ通信が同時に出来ないそうで、それが大きかったような気がします。

データ通信速度と言う点では、都心部での日常の実測値では「au」が圧倒的に勝ったとのことですが、しかしタネ明かしをすれば、「SoftBank」に比べ「au」はスマートフォン・ユーザーが圧倒的に数少なく、その分回線が空いていただけも話しで、「な〜んだ」ってなわけです。これから「iPhone効果」でユーザーが大幅に増えた後はどうなるか分かりません。(実際、通信混雑時を避けた単純計測ではSoftBankがわずかに速かったそうですな)

あと「つながりにくい」という点では「SoftBank」もそこそこ努力してるんじゃないかと想います。最近よく使用する画廊のある「中野ブロードウェイ」では、全然つながらず画廊のオーナーも「SoftBankだけ圏外で困ってる人がいる」と言っていたので、試しに「SoftBank」の「電波改善要望フォーム」からメールを出してみました。

あんな人出の多いところで圏外なんて手落ちもいいところなんですが、間もなく「SoftBank」から返信が来まして、「電波改善の計画に入りました」とありました。

それから約半年後くらいに行ってみたら完璧に通じるようになっていましたよ。まあ要望を出したのは自分一人だけでは無いと想いますが、こんな風に意見が確実に反映されると、なかなか心地いいもんです。

それから、住信基礎研究所主席研究員(長い!)の伊東洋一さんが、ラジオで「auからiPhoneが出たら乗り換える。SoftBankは地下鉄なんかで全然繋がらないから」と言ってたので、その後、地下鉄を利用した時、主要な駅で調べてみました。

ですが、電車が動いている時はともかく、ホームや改札ではアンテナ5本立ちで問題無しでした。これはどう言うことなんでしょうかね。(全部の駅を回ることは不可能なので、中には圏外の駅が有るのかも?)

あと、今年ある用事で、車で山梨県の甲府から韮崎の山の中へ行ったのですが(損保ジャパンの研修所が有るあたり)、ここもクリアに?通話できました。問題無しです。「SoftBankは繋がらない」という批判を良く聞くのですが、自分では、圏外で困ったと言う経験がほとんど無く、何か電波を寄せ付けるような特殊な体質にでもなっているんじゃないか、そんな妄想さえ働くのです。(かつて東京デジタルホン ~ Jフォン時代にはちょくちょく有ったが‥‥)

ずいぶんSoftBankの肩を持つと想われるかも知れませんが、巨大勢力に何かを独占させてしまうことがどんな悲劇を生むか、アンチ巨人派?にはハッキリと目に見えてしまうからなのですよ。今年の3.11大震災での、東京電力の失態をはじめ、各電力会社と原発の関係でもそうです。あの一部始終を見れば一目瞭然でしょう。

最近になって、「ドコモにもiPhone供給」とのウワサも出て来ており、それはまあ時間の問題かと想いますが、一番儲かるはずの最大手を最後に回すというAppleのやり方は、ある意味なかなか考えている気がします。(これもアンチ巨人的発想かな?)

最後に、左の写真は100円ショップの「ダイソー」で売られている液晶保護フィルムです。もちろん一枚100円です。

上の写真のiPhoneにもすでに貼ってありますが、非情にキレイに貼れて長持ちします。(気泡がまったく入ってないでしょ?)

3GSも購入後すぐに貼ってそのままなので、約2年間貼りっぱなしです。とても品質がいいので、他のデジカメなどにもカットして利用しています。つや消しが好みなら絶対お勧めですよ。



★追伸:こないだネットで「iPhoneに機種交換すると、携帯電話で使っていたメールアドレスが使えなくなり、それがネックとなって二の足を踏んでいる人も多い」と言う記事を見ました。

・・これ、申し訳ないけど、少なくとも2年以上前の話しですね。私は「SoftBank iPhone」のことしか知りませんが、2年前、iPhoneにした時点でアドレス変更の必要は有りませんでした。ずっと継続して使えてます。それどころか、しばらくの間ボーダフォンのアドレスのまま使ってたくらいです(プラスiPhone専用のアドレスも貰えます)。

これらのことから、「SoftBank」や「iPhone」の最新のことを正確に知っている人って案外少ないのではないかと言う気がするのです。何しろネットニュースのライターでさえ知らないんですから・・

・・あと、アドレス変更を嫌がる人って多いですが、私が「ボーダフォン」から「SoftBank」ドメインのアドレスに変えたとき、「アドレス変りました」の通知メールを出すことで、ご無沙汰だった人とも再び頻繁に連絡を取り合うようになるなど、メリットも多かったような気がします。






  

2011年9月23日金曜日

展覧会三つ


★「芸術の秋」と言うことで、展覧会を三つ紹介しておきます。一つは自分のグループ展、他の二つは知り合いの個展です。画像はクリックして拡大することが出来ます。(いずれも終了)



「元気なアート展」
 2011/9/22(木)~ 10/4(火)
 中野画廊アベニュー 12:00 ~ 19:00
(9/28休廊。最終日は17:00まで)

◎中野画廊アベニュー
 中野区中野5-52-15 中野ブロードウェイ2F
 8名の作家による小品展。私(高橋)も二点、CGペイントの作品を出品しています。




「加藤栄吾展」
 2011/9/23(金)~ 10/4(火)
 わたなべ画廊 11:00 ~ 18:00
(9/28.29休廊)

 ◎わたなべ画廊
 埼玉県飯能市東町9-12

大学の同期の作家です。独特の世界観をどうぞ。








「山崎克己 紙刻繪展」
 2011/9/26(月)~ 10/1(土)
 スパンアートギャラリー 11:00 ~ 19:00
(最終日17:00まで)

 ◎スパンアートギャラリー
 中央区銀座2-2-18 西欧ビル1F


絵本作家、イラストレーターとしても活躍中。実物を見たら覗き込みたくなります。








  

2011年8月20日土曜日

2011年、山下達郎、ニューアルバムリリース

★先日、山下達郎氏の6年ぶりのアルバム「Ray Of Hope」が出ました。ホントは昨年の9月ごろ「WooHoo」と言うタイトルで出るはずだったんですが、発売延期のため、約1年遅れでのリリースとなったのです。

凝り性のタツロウ氏のことなので発売延期は珍しくないのですが、かつて「湯水のように金を使い、想い通りのコンセプトでアムバルを作りたい」と熱く語っていた同氏にしては、ずいぶん作り方が簡単と言うか、14曲中9曲がタイアップで、その他数曲ををまとめただけのモノになってる気がします。

まあ、アルバム(album)とは「閉じたもの、幾つかのものをまとめたもの」と言うことなので、本来の姿と言えなくもないのですが。

NEVER GROW OLD
(アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」CMソング)
希望という名の光
(映画「てぃだかんかん-海とサンゴと小さな奇跡-」主題歌) 
街物語
(ドラマ「新参者」主題歌) 
僕らの夏の夢
(アニメ映画「サマーウォーズ」主題歌 )
ずっと一緒さ
(ドラマ「薔薇のない花屋」主題歌 )
HAPPY GATHERING DAY
(「ケンタッキー・フライド・チキン」CMソング )
MY MORNING PRAYER
(NTV系「ZIP!」テーマ・ソング )
愛してるって言えなくたって
(ドラマ「冬のサクラ」主題歌 )
バラ色の人生~ラヴィアンローズ
(TBS「ブロードキャスター」テーマ・ソング )

こう並べてみると、メロディ的にはかつての面影は少なく、むしろ「新しいタイプの歌謡曲」と言えなくも有りません。なので、昔からのマニアックなファンにしてみれば、「タツロウは終わった」なんて痛烈な批判も出そうですが、私は、これはこれでいいんじゃないかと想ってます。

と言うのも、以前タツロウ氏がFMラジオで、「40歳過ぎても音楽の仕事が出来るとは想ってなかった。それでも仕事をくださるクライアント様には感謝しかない」と語っていたのを聴いていたからです。

ある年齢を過ぎてからは、仕事を選ばず依頼されたことに全力で取り組む、そう言う姿を貫いているのだと想います。「ARTIST」ではなく、まさに「音の職人:ARTISAN」と言ったところでしょうか。

たとえばドラマや映画のテーマ曲なんかでも、既成の曲をあてがうと言うのはまず無いのです。ストーリーを良く読み込んで、内容に合わせて書き下ろす曲ばかりで、そう言うところに「職人」の意気を感じます。

アニメ映画「サマーウォーズ」なんかもそうでした。これはネットでも評判がよく、「あの歌は物語にすごく合ってる」とか「聴くと、涙が出そうになる」なんてレビューがけっこう有りました。ストーリーに沿っているからこそ感動が倍増されるのでしょう。

そのせいか、アニメにツラれて、初めてタツロウ氏のコンサートに行った人もいたらしいです。が、行ってみると「タツロウって、すげえオッサンじゃん!」なんてビックリするらしいです。そりゃあそうでしょう。タツロウ本人も57歳を過ぎており、メインターゲットは50代の中年層ですからね。

とは言え、57歳のミューシャンが未だ現役で、作った曲が若いアニメファンを感動させるなんて、ちょっと気分がいいじゃないですか。まあ、長年支持して来た古いタツロウファンとしては「そら見たことか。オレの眼に狂いは無かったね!」なんて自慢したくもなります。

・・って、得意げに言ってますが、本当は私も、自分で「山下達郎」を発掘したわけでは無いんですよ。遠い昔、ある女性から、彼の存在を教えられた一人だったんです。

今からもう30年くらい前のことになりますか。当時、美術大学の学生だった私は、同期の友人たちと「ロックバンドをやろう!」と盛り上がったことが有ったのです。が、どちらかと言えば「ガロ」とか「オフコース」みたいな、ハモリを得意とするフォークソング派だったもので、ハードロックにはほとんど馴染みが無かったんです。

で、「オレ、ロックは分らんな」なんて弱気な発言をしていたら、傍らで聞いていたある女の子が、翌日、十数枚のロックやブルースのLPレコードを持って来て、「全部あげるから、これ聴いて勉強しなよ」と手渡してくれたのです。見ると「ジミ・ヘンドリックス」や「エアロスミス」、「ジャニス・ジョップリン」などの名盤がそろっていました。(今も手元に有ります)

ところが、そんなギンギンロック少女の彼女なんですが、一番力説していたのが、なんと、まだ世間的には無名だった「山下達郎」だったのです。そして「タツロウのレコードは手放せないから」と、「GO AHEAD!」と「MOONGLOW 」をダビングしたカセットテープを渡されました。それが「山下達郎」を知った最初でした。

なので、私は最初からのファンと言うわけではないのです。言わば後からやって来た「よそ者?」ってところでしょうか。何しろ、シュガーベイブ時代からライブに通ってたくらいでないと、ディープなタツロウファンとは言えないらしいので。

とは言え、サウンドそのものには非情にショックを受けまして、一気にのめり込んで行きました。そうなってみると、それまで見過ごして来た多くの中に「山下達郎」の足跡を見つけることが出来たのです。たとえば、いろんなミュージシャンのアルバムクレジットに、「コーラスアレンジ = 山下達郎」と言うのを見つけたり、何気なく聴いたユーミンの「12月の雨」のバックコーラスから、タツロウの声が聞こえて来るのに気づいたりなど‥‥

何より驚いたのは、コーラス好きの私なんですが、その時すごく気に入っていた「コカコーラ」のアカペラCMソングを歌ってたのが「山下達郎」だと知った時です。「これもタツロウだったのか?!」と、ホントにビックリしました。(ア・カペラなんて言い方すら知らない時代ですけど)

出世作「RIDE ON TIME」が大ヒットするのは、それから約一年後の1980年のことです。ある評論家をして、「それまで日本に存在しなかった音楽」とまで言わしめたほどの傑作でした。キムタクのドラマ「GOOD LUCK!!」でしか知らない人からすれば、「べつに?、普通の曲じゃん」と、ピンと来ないかも知れませんが、30年前の当時としては、日本の音楽シーンを揺るがすほどの意味を持った曲だったんです。

同時に「後から来たよそ者」としては、彼女の目利きの確かさも認めなくてはなりませんでした。彼女にタツロウを教えられてから「RIDE ON TIME」がヒットするまで、あっと言う間の出来事で、何か、劇的な感じさえ覚えました。

彼女とは、それまで挨拶ていどの付き合いだったんですが、それを機会にじっくり話をしてみると、互いに「ローラースケート好き」だと言うことも分かって来ました。で、その盛り上がりの勢いで、そのころ流行のエラストマー・サス付きローラースケート(インラインスケートはさらに10年後)を、アメ横の「ムラサキスポーツ」まで買いに行き、その年の一夏、二人で滑って過ごしました。時には、人々が寝静まった真夜中、渋谷の住宅街を二人であちこち滑り回るなど、まあ「若さ」と言うんでしょうか、好き放題やってましたね。

・・なんて書くと、二人の距離が急接近しているかのように見えますが、じつはこのあと間もなく、なんと、彼女がすでに婚約している身であることを告白されてしまうのです。まるで、韓国ドラマのような?展開です。

そうして物語は一巻の終わりかと思いきや、ドンデン返しはまだ続きます。けっきょくのところ、彼女は婚約解消することになるのですが、それもつかの間、数年後の10月、なんと病に倒れ、突然この世を去ってしまうのです。23歳という若さでした。

そうして、あれから30年・・ 彼女が亡くなってからも私はタツロウを聴き続け、今回もまた新しいアルバムを手に入れたと言うわけです。けっきょく、彼女がタツロウを聴いた何倍もの長い年月を聴き、彼女の知らないたくさんの曲を知ることになりました。それを彼女は羨ましく想うのか、それとも「歌謡曲っぽいタツロウなんてガッカリ!」と言い放つのか・・・

23歳で亡くなる無念さは推し量ることも出来ませんが、反面、救いが無いわけでは有りません。3.11大震災の絶望的な光景も、原発の爆発と言う底知れぬ恐怖も知らずに済んだのですから。

そうして、猛暑、酷暑なんて無かった時代の、心地よくて、でも少し切ない、あの夏の記憶のまま去って行けたのだなあ、と言う想いも少しだけ沸き上がるのです。

長く生き続けると言うことは、出会わなくていい多くの悲しみに出会うことでもあるようです。それは有名なミュージシャンとて同じことで、アルバムのタイトルが「WooHoo」から「Ray Of Hope」に、つまり「希望という名の光」に変更されたことからも分かります。あからさまなチャリティーとかを好まないタツロウ氏ですが、このタイトルからは、被災地へのさりげない心遣いが感じられるのです。

恐らく、震災で亡くなった人たちの中にも、山下達郎のニューアルバムを心待ちにしていた人たちが大勢いたことでしょう。彼らに比べたら、我々は幸運としか言いようが有りませんが、同時に、生き残った者として、何か重い荷物を背負ったような、そんな気もしないでは無いのです。

・・と、いろいろな想いが過りますが、ともかく、その人たちの分も、そしてあの彼女の分も、心して?、じっくりとこのアルバムを聴かせていただくことにします。


山下達郎
「Ray Of Hope」
2011/8/10リリース


それでも音楽は続いていく。











  

2011年8月6日土曜日

暑い夏には、チープな?カレーを作ろう!

★一時、カレー作りに凝っていました。

男が料理に懲り出すと、やたらウンチクを並べ立て周囲のひんしゅくをかうなんてことが多いですが、しかし、この時凝ったのは「ラーメン屋さんのカレー」あるいは「おそば屋さんのカレー」に相当する、非常にチープな味の追求でした。

「チープ」とは言っても、昔々、日本の家庭のカレーライス、いや「ライスカレー」と呼ばれていたカレーは、だいたいこの味だったと言ってよいのです。特にウチの場合には、亡くなった祖母が、時折り作ってくれるカレーがこの味だったので、私にとってはとても懐かしいメニューなのです。

ところで「ラーメン屋さんのカレー」と「おそば屋さんのカレー」ですが、この2種類は同じようでいて微妙な違いがあります。

まず「ラーメン屋さんのカレー」ですが、多めの油で小麦粉とカレー粉を炒めてルーを作り、ダシは鶏ガラ、味付けは塩と砂糖のみと言うものです。小麦粉の中に含まれるグルテンの作用で「とろみ」は自然につきます。で、これが昔懐かしい「ライスカレー」となるわけです。

これに対し「おそば屋さんのカレー」にはかつおダシが使われており、味付けは主に醤油とみりん。そしてとろみは片栗粉でつけます。いわゆるカレー南蛮に使われているものと同じです。こちらは「小麦粉カレー」を参考に、おそば屋さんなりにアレンジしたものと思われます。

さらに、おそば屋さんの中には、皿で食べるカレーを「カレーライス」、どんぶりで食べるカレーを「カレー丼」と分けて、二種類出している所もあります。調べてみると、前者は「小麦粉カレー」、後者は「かつおダシカレー」と作り分けていることが分かりました。

さて、あれこれ調べて、ようやくレシピが分かって来たところで、実習に取りかかることにしたのですが、買って来たS&Bのカレー粉缶を見てがく然としました(大げさか?)。なんと缶の側面には、レシピのいっさいがっさいが説明されているでは有りませんか・・

けっきょくは、その能書きを見ながらの調理となったわけですが、小麦粉を炒めていると次第に色が付いて粘りが出て来たりして、そんなことにけっこう感動しました。

そうしてルーを作り、そこからは普通に肉や野菜を加えて煮込みました。そして数十分、想い通りのチープ?で懐かしいカレーの出来上がりとなりました。まぎれも無い、私の子供の頃の味です。

暑い夏には激辛で本格的な「カリー」もいいですが、ちょっと飽きて来た頃に、懐かしい「ライスカレー」の味もオツだと想いますよ。

出来上がりに満足すると、さらに「実験」をしてみたくなりました。私の親戚に料理屋などしていた叔父がいるのですが、以前この叔父が遊びに来た時に、市販のカレールーに「デミグラスソース」を加えただけのモノを夕食に出したことが有りました。すると味にうるさい叔父が「これ美味いなあ!どうやって作ったんだ?」とやたら驚いたことが有ったんです。

そんな経験が有ったので、チープな小麦粉カレーに「デミグラスソース」を加えたらどなるだろう?と言う探究心が湧き、試してみることにしました。その結果は?、なんと市販のカレールーそっくりの味になってしまったのです。

「なるほど、メーカーのカレールーって、こんな感じで作ってたのか・・」と思わず唸りましたね。

これに、ブイヨンとブーケガルニ、トマトピューレ、ショーガ、すりおろしリンゴなどを加えてもさらに美味しくなるし、ひき肉にして「ガラムマサラ」などの調味料を多く加えると、少しだけインド風?の味にも近くなります。

ただ、味は良くなりますが、印象はいつも食べてる普通の家庭カレーでしかなく、ちょっと物足りない感じもしました。やはり「チープ(ジャンク?)」だからこそ楽しめる味、と言うのも有るような気がします。

ところで、日本のカレーはインドから伝わったものではないようです。ヨーロッパ、主にイギリスからだそうです。かつてインドがイギリスの植民地だった頃、インド料理がイギリスに伝わり、ヨーロッパで流行しました。そしてあるメーカーが、家庭でも簡単にインド風料理が作れるようにと、数種類の香辛料をブレンドして販売したものが、いわゆる「カレー粉」だったと言うわけです。

日本に伝わって来たのは、そのヨーロッパ産の「カレー粉」なんですね。「恐らくその輸入業者はS&B食品に違いない」なんて勝手に想像しましたが、あとで調べでみたら、日本にカレーが伝わったのは「明治5年」、日本の「114食品」と言う会社が、イギリスの「C&Bカレー粉」を輸入したのが始まりなんだそうです。

このようにして、インド料理が巡り巡って、日本で「カレーライス」と言う国民食として花開いたわけなんですが、つまり、日本のカレーライスと言うのは、インド風ではなくヨーロッパ風、いわゆる「洋食」と考えるのが正しいのです。だから「デミグラスソース」を加えたとたん、ふだん食べ慣れてる味に近づいてしまったと言うわけだったのですね。







  

2011年7月11日月曜日

管降ろしの謎:その2

★管内閣もそろそろ末期に近づいているようですが、へそ曲がりの私には、いまだフに落ちない点があり、まだ気になっているので、それらを一通り書いておくことにします。

そもそも管降ろしの始まりは、3/11震災後に起きた福島第一原発事故に対する、管総理の初動ミスだと言われていました。つまり・・・

「管総理は、国民に好印象を与えるべく、パフォーマンスのためにヘリで福島原発へ視察に向かった。その間、総理への放射線被ばくを避けるため、ベント作業は延期され、結果、最悪の水素爆発を引き起こした」
・・と言うものです。

これは、テレビや新聞、ネットなどあらゆる場所で、自民党政治家、評論家、大学教授、コラムニストなどあらゆる人物が、管総理へのバッシング理由として書き連ねていた内容です。もちろん最初は私も「管総理、エラいことをやらかしたな」と、正直想いました。

しかしその後、NHKなどを始め、あらゆる検証ドキュメンタリー番組を見たところ、報道とは違っていたことが分かりました。事故後間もなく官邸からは「ただちにベント作業開始せよ」との指示が出されていたのです。

が、にもかかわらず、一晩過ぎてもまったくベント作業が始まらないことから、業を煮やした管総理が「なぜ始まらないんだ!電話じゃラチがあかん!」と言うことで、ヘリコプターで現地へ直談判に向かった、と言うのが真相でした。

(これは後に亀井静香氏も、石原慎太郎氏との対談で真相を明かしています。
「亀井氏:東日本大震災が起きた3月11日、私は官邸にいた。東京電力は冷静に対応できず、菅首相が癇癪(かんしゃく)を起こし、福島第一原発に行くまでまったく情報が無かった」

実はこの時、福島第一原発のベント弁の開閉は「電動オンリー」で、電源喪失時に行われるはずの、手動によるベント開閉操作方法は存在しなかったそうです。

そのため「ベント解放せよ」の指示が出てもまったく動かすことが出来ず、真っ暗闇の中で設計図を引っ張りだしては、解決策を文字通り暗中模索していた、と言うのが真実のようです。

けっきょく「ヘリ視察」を批判した人々は、誰も原発の取材はしておらず(何しろ入れないんですから)、勝手な憶測でバッシングしていたことが明らかになりました。私の知るところでは、バッシングの間違いを訂正あるいは謝罪した人物は、誰一人いなかったようですね。

ネットに出た見当違いのコラムなども、何の釈明も謝罪もせず、こっそりと削除されていました。たとえば下記のような記事。「思いつきの記事」をぶちまけて混乱を招いた人、我々一人一人への謝罪コメントを発表して欲しいと思います。


もちろん削除されてますからクリックしても出てきません。が、マインドコントロール的記事をタレ流したことを猛省してもらいたい、との気持ちでURLを残しておきます(さすがに筆者の名前は伏せておきます)。

こう言うことは相手がどんなであれ、フェアでは有りません。卑怯な態度だと想います。


「管降ろし」の最大の理由を失った野党(自民党)ですが、次に「管総理では遅すぎる。復興は出来ない」との理由を付けて内閣不信任案を提出することになりました。それを受けて管総理は、例の有名な?会見・・・

「大震災への取り組みで一定のメドがつき、私の役割が果たせたと言う段階で、若い世代のみなさんにいろいろな責任を引き継いでもらいたい」

・・との発言をしました。この言葉を聞いた瞬間、私は「即時辞任は無い」と想いました。「・・つまり、今年いっぱいは続けるつもりだな」と普通に想いました。

なぜならその頃には、原発事故の収束には想像以上の日数(年数?)がかかると分かっていたし、原発が終わらなければ復興も始まらない、その時点を「一定のメド」だと考えるならば、今年いっぱいか、ヘタすれば来年にかかってしまうかも知れない、そう考えるのはごく当たり前のことでした。

ところが何と、翌日の新聞には一斉に「管首相、辞任表明」との大見出しが付き、すぐにでも辞めるかのごとく、記事が書かれていたのです。

ビックリしましたね。もう一度よく読んでください。あの発言のどこをどう読んだら「即時辞任」と読み取れるのか、理解に苦しみました。新聞だけでは有りません。テレビもネットも何もかもです。「こいつら読解力ゼロかよ!」と飽きれましたが、ちょっと混乱して、「まてよ、逆にオレの方がおかしいわけ?」なんて疑心暗鬼にもなりました。

が、確かBSフジだったと想うのですが、報道番組にゲストで来ていたある大学の教授が、私と同じような疑問を持ったらしく、学生たちに「管総理の発言を聞いて、一定のメドとは、いつぐらいのことだと想ったか」と言うアンケートを取ったらしいです。すると学生たちは私と同じく、「今年いっぱい、あるいはそれ以上の期間」と言う回答がほとんどだったとのことです。

私や大学生が普通に想ったことを、政治家やマスメディアの人間たちが、揃いも揃って大間違いをしてしまうなんて、これは実に奇妙な現象ですね。もしこれを読んでいる人で、同じように辞任表明と取った人がいたら、申し訳ないですが、メディアの偏向報道にマインドコントロールされてしまったか、国語能力がちょっと・・なんだと想いますよ。

まあ一般人はともかく、国語の苦手なジャーナリストって、こりゃあ困ったもんですな。ああ言う人たちって、記事は書けても、必ずしも読解力が優れていると言うわけじゃ無いんですね。初めて知りました。

それからはもう大変でしたね。「辞めると言ったのは嘘だったのか!」とか「そんなに権力の延命がしたいのか!」とか「辞めると言ったヤツの意見など聞けるか!」と散々でした。さらに「浜岡原発の停止」や「再生可能エネルギー」についても急に語りだすもんだから、大騒ぎになりました。

ですが、「再生可能エネルギー」発言ですが、これは「国民受け狙いの思いつき」とされていますが、これに関して、TBSラジオの「荒川強啓デイキャッチ」の中で、社会学者の宮台真司さんが、「管氏は、再生可能エネルギーの推進については、ずっと以前から提唱していた」との証言はしていました。

つまり、管総理の中では思い付きではなく、長年温めて来た持論を今こそ高らかに発信する時が来た!と言うわけだったです。なので、一般国民はともかく、プロの政治ジャーナリストがこれを知らなかったとしたら、「勉強不足」と言われても仕方無いですね


・・とまあこんな感じで、今やもう管内閣は大混乱を起こしている状況ですが、私の記憶、そして正直な感想としては、初期の混乱は、マスメディアの間違った報道、憶測報道が原因で引き起こされた可能性がかなり高い、と言う気がしてます。

それが意図的では無いにせよ、報道の暴走が、国民を偏った方向へ導いてしまうかも知れない恐れについては、よくよく気をつけなければいけません。

なんて、気が付くヤツがいないからこそ、こんなことになってるんでしょう。つまり、管総理の最大のミステイクは、マスメディア対策を軽視したところから始まった、と言えるのかも知れませんね。





 Commented by 低線量被曝者 at 2011-07-29 17:10
東電原発事故以来見えて来た、電力業界による産官学から行政、マスメディアにまで及ぶ支配構造。この巨大利益共同体の許し難き大罪を断罪すべき「世論」をも操作するマスメディアの確信犯罪は取分け許し難い。

6/24の通産エネ庁による「ネット上に掲載される原子力等に関する不正確 な情報又は不適切な情報を常時モニタリング」する監視業者の一般競争入札公告という暴挙。人体実験的被曝の時代を逃れ得ない私たちに「この先、日本は必ずユートピアを実現できると思う。日本と日本人を信じている。」と、昨日逝かれた小松左京さんがメッセージ残したそうです。

ユートピアとは懐かしい言葉ですが、「主権在民」を教えてくれようとした昔の中学の社会科の先生は、確か旧社会党のバッジを背広の襟に付けていたような気がします。そんな時代だったのですねぇ・・。


 Commented by 髙橋GM at 2011-07-30 12:17
コメントありがとうございます。ここに来て東電から自民党に多額の献金が行われ、自民党幹部は多数の東電株を保有していることが分かって来ました(今や紙クズですけど)。

「脱原発」70%賛成。内閣支持17%と言うネジレ現象も起こっていまして、管総理は辞めてもいいけど、後継総理は「脱原発」を引き継ぐのか否か?ここが重要ですね。大げさに言えば、日本人はいま歴史の別れ道にいます。「継ぐのは誰か?」そんなタイトルの小松左京氏の小説が有りましたね。








  

2011年7月4日月曜日

夏の風景展2011

「夏の風景展2011」2011年7月7日(木)~7月19日(火)
 中野画廊アベニュー(7月13日・水 旧廊)
 (すでに終了しています)

★一人の作家が1~2点ずつ出品する小品展として、春に行われた「春の風景展」に続き、シリーズ物として「夏の風景展」を行います。

「春の風景展」終了直後にあの大震災が起こり、多くの人々が、「人生観の変化」を感じたようですが、自分にも、眼に映る全てが別の世界のモノに変わってしまった、そんな感覚が確かにあります。

企画を立てた画廊からは「こう言う時なので、出来るだけ明るい作品を」との要望がありましたが、作品は心を写す鏡でも有るので、感覚のおもむくままに描いた自分の作品では、要望通りに実現できたかどうかは不明です。果たして他の作家たちはどうだったんでしょうか‥‥

計14名の作家による30点近い作品展となりますので、いろいろと楽しめるかと想います。節電によるエアコンの効き具合が心配ですが、時間のある方はよろしくお願いします。






  

2011年6月11日土曜日

菅降ろしの謎

★私は、どちらかと言うと子供のころから芸術家気質で、ちょっとアナーキーな性質も有り、「管政権」についてどうこう言うつもりは無いのですが、現在の政治家や評論家、一般大衆まで大きく広がった「管降ろし現象」について、ちょっと何か、謎が有ると想うのです。

昔、中学生の頃、社会科の先生が言った「本当の民主主義とは、いかに少数意見を尊重するかなんだぞ!」との言葉に深い感銘を受けまして・・、で、以来ずっと、多くの意見があまりにも一方向になびく時、「何か有るんじゃないのか?!」と裏読みするへそ曲がりな性格になってしまいまして、今回もこんなことを想いました。

じつは、こないだNHKスペシャル「シリーズ原発危機:事故はなぜ深刻化したのか」を見たんですが、どうも、原発事故に限れば、言われているほど管総理の行動は間違ってなかったように想えたんです。

番組終了後のTwitterでも「意外!管総理よくやってたんだ」みたいな発言も多かったようで、私が受けた感じでも、菅総理の対応を批判した論評のほんとんどが、推測だけで語っており、現場取材による裏付けが無いことが分かりました(放射線浴びるのは怖いですからね)。

こんな風に感じたのは僕だけではなかったようで、ラジオでは評論家の小沢遼子さんが「細かい不備はたくさんあるが、致命的な大きなミスを犯したワケではない。なのに、管降ろしがスゴイことになってる!」と語ってました。

彼女は昔から管さんが大嫌いで、決して擁護派では無いのですが、そう言う人でさえ、今の管降ろしは異様で、具体的な根拠が見えて来ないという疑問を持っているのです。

じつは私も、この妙な感じはずっと持ってまして、いつもなら権力やそれらの横暴に、ハラワタ煮えくり返るくらいの怒りを覚える私が、何故か管総理にはあまり腹が立たないのです。

これは今までの自分の直感からすると、何かが違う・・ それどころか、批判している側の言うことが具体例としてイメージ出来ず、そっちの方の意見にイラ立ちが起こるのです。

そうこうしている内、こんなニュースが報じられました。5月末のことですが、
「地下原発議連:第1回勉強会に20人参加」
参加した主な人物は以下の通りです。まあ、だいたい「管降ろし」に動いている人たちのようです。大連立が有るとすれば、このメンバーが主体になるのでしょうか。

民主党:鳩山由紀夫、羽田孜、渡部恒三、石井一 
自民党:谷垣禎一、森喜朗、安倍晋三、古賀誠、中川秀直、山本拓 
国民新党:亀井静香 
たちあがれ日本:平沼赳夫 

それにしても怪しい連中ですなあ・・・

今この時期に「原発推進勉強会」とはどう言うことなのか、私にはまったく不可解ですが、管総理が周囲に相談も無く突如として「浜岡原発を停止」させたり、G8サミットでは「太陽光パネルを1千万戸に設置」の爆弾発言をするので、原発推進派、あるいは原発で利権を得ている人々がビックリ?しちゃったのかも知れませんね。

さらに6/11の報道では、中立性を保つため、内閣官房に設置すると決定したはずの「原発事故調査・検証委員会」を、政府の「国家戦略室」が、経済産業省の管理下に置くべく変更しようとしたため、管総理がこれを拒否したと有ります。これ、じつは総理の辞任表明後に急きょ提示されたことから、「同省が事故調の骨抜きを狙ったものではないか?」とウワサされているようです。

以上・・、この期に及んでなお、政府や政治家たちはまだ「原子力発電」にこだわり続けていることは確かなようです。管さんが総理として適任かどうかは分かりません。たぶんダメなのかも知れません。しかし大震災のダメージで「脱原発」に傾き始めた管氏に替わる人物が、どんな近未来ビジョンを持っているのかは、かなり重要な気がします。

「原発推進」を「管降ろし」にすり替えているのではないか?

私のような「へそ曲がり」は、ついついそんな風に考えてしまうのです。だから、どんなにマスメディアが煽ろうと、集団マインド・コントロールされてしまった?一般大衆が絶対多数で迫って来ようと、私は流されませんよ。自分の直感を信じて少数意見をつらぬきますぞ。

マスメディアの偏向的報道による影響については、昔々こんなことが有りました。自分のブログ記事で恐縮なんですが読んでみて下さい。メディアのちょっとしたコントロールによって、一般大衆はこんな風に思い込んでしまうと言う例として・・・

◎ 松坂投手の誰もが勘違いしているホントの話し



追伸:2015年の亀井静香氏と石原慎太郎氏との対談では、当時パフォーマンスと言われた菅総理のヘリ視察の状況も語られています)
亀井:東日本大震災が起きた3月11日、私は官邸にいた。東京電力は冷静に対応できず、菅(直人元首相)が癇癪(かんしゃく)を起こし、福島第一原発に行くまでまったく情報がこなかった」
◎ 地震大国の日本、原発再稼働はダメだ







  

2011年5月30日月曜日

ブレード走行「小俣 - 藤岡」渡良瀬川自転車道


★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。


震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルしたものの、次の週くらいには期待できのでは?と想いました。

ですが、原発のメルトダウンなど震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。

試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになっていました。・・ですが、震災から2、3日後でしたか、少し考え方が変化して来たのです

これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると影響は想像以上の長期に渡るかもしれない。もしそうなら、いったん始めてしまった自粛は、解除のチャンスを失い、やがては日本経済沈没の危機にもなりかねない。

ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。

たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。

その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。

そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも日々の暮らしを取り戻そう」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。

それにしても石原慎太郎・東京都知事の東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。

同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。

さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡良瀬川自転車道」に変更となりました。

が、本来の出発点「桐生市」からだと、ゴールとなる渡良瀬遊水池までは約50km。昨年50km越えでとても苦労したので、今回は両毛線「小俣駅」付近から始めることになりました。ここからなら40km強で収まるはずです。

しかしコースが決まると今度は天候が安定せず、8年間続いて来た「奇跡の晴天走行記録」は、ついに途絶えてしまいました(高橋単独含む)。しかもおまけに、大規模な黄砂が来襲するとの情報が入り、一日ズラしてはみたのですが、とにかく今年はいろいろ有りました。

「でも川沿いなら、道に迷う心配も無いし楽でしょう」と想うかも知れませんが、これが迷うんですね。今回は二度も迷いました。測定では計6kmのロスです。実は、この6kmの迷走さえ無ければ、何とかゴールにたどり着けていたはずなので、けっこう痛い数値なのです。

一度目は、歩いていた地元の親父さんに、間違った情報を教えられ、迷ってしまいました。

二度目の迷路は、セイタカアワダチソウが鬱蒼とした道でした。最初は、花に囲まれたいい道だと想ったのですが、進むに連れ、強風のせいなのか、路面を覆うように倒れていたのです。

ほとんど滑れない状態ながら、「ここさえ抜け出れば」と、スケートを履いたまま2kmほど歩いて?行ったら、なんと無情にも行き止まり・・。仕方なくまた2kmを引き返した時には、ほとんどモチベーションを失っていました。特に隊長である私は、初めての「K2」のブーツに足が慣れず、痛みを堪えての走行となってしまいました。K2は足が痛まないとのウワサを頼りに買ったのですが、個人差も有りそうです。

他の二人の隊員は、そこそこ気持ちを立て直したみたいですが、今度はサイクリングロードが「工事中にのため行き止まり」となっていて、けっきょくそこで力つき、ブレード走行は終了となってしまいました。

しかしながら、最後の食事に入った栗橋駅前のそば屋「作吉」は、蕎麦だけでなく色々メニューがあって楽しめたし、大当たりでした。また「蕎麦をつまみに日本酒を飲む」と言うのも三人でやりまして、たいへん美味しゅうございました。今回は十割蕎麦でしたが、茶蕎麦もいけると想ってます(出来れば熱燗で)。

これは永井荷風の時代に文壇で流行った飲み方でして、私は本来これが好きなんですが、今までは「ソバで酒?!」と、ゲテものでも見るような顔をされることが多く、今回、二人の隊員たちに分かってもらえたのが嬉しかったのであります。(彼らは私と言うより、テレビのタモリさんの影響のようでしたが・・)

あの店は、ゴブリンズの納会でも楽しめそうなくらい雰囲気も良くメニューも豊富で、とても良かったのですが、わざわざ栗橋まで行くことなど無いわけで、ちょっともったいない気がしました。

もちろん個人的にも、恐らく再び訪れることなど無いでしょう。あれだけ飲み食いして一人3000円ちょっと(だったけ?)。ささやかながら日本経済に貢献したあと、ほろ酔いでひとり、一期一会の感傷に浸ったりする高橋隊長なので有りました。






  

2011年5月22日日曜日

児玉清さんと野菊の墓

★すでにご存知のように、俳優の児玉清さんが亡くなりました。司会や読者家としても良く知られていましたが、僕にとっても、近年は書評家としての印象が強かったような気がします。なので、訃報を聞いてまず思い出したのが、書評家として語った、伊藤左千夫の「野菊の墓」についてのコメントでした。

「時折り、自分の心がすさんでいないか。みずみずしさを失っていないか。その確認のために読み返すことにしています」

確かこんな感じの言葉だったと想いますが、これだけでも、児玉清さんの人柄が分かる気がするのです。「野菊の墓」と言うのは、有名な作品なので説明の必要も無いと想いますが、簡単に言えば、封建的な道徳観の残る時代ゆえに、引き裂かれていく思春期の悲恋物語、と言うことろでしょうか。

これを「時折り読み返している」と言う児玉さんは、なんて堂々とした人なんだろう、と想いました。普通は「いい歳をして、そんな青臭いモノを・・」と想われるのが恥ずかしく、隠したがるものなんですがね。

僕にとっては小説「野菊の墓」よりも、映画「野菊のごとき君なりき」の方が先でした。木下恵介監督の名作です。中学生の時に初めて観て涙がとまらなくなりました。どうすることも出来ない悲しみと、思春期の純粋さに心が洗われて行く感じがしたのです。これ以外にもたくさん映画化やドラマ化されましたが、やはりこれが一番ですかね。

冒頭に登場する、笠智衆さん演ずる年老いた主人公「斎藤政夫」が、矢切の渡しで船に乗り、川面を見つめるのです。そして遠く過ぎ去った故郷の想い出と共に、若くして亡くなった二つ年上の従姉「民子」を想うシーン、懐かしさと切なさと、ここで一気に物語に引き込まれてしまうのです。

じつは、吉田たくろう氏の曲「マークⅡ」の歌詞に、
「年老いた男が、川面を見つめて、時の流れを知る日が来るだろうか」
と言うくだりが有るのですが、あれは、このシーンを見てイメージしたのではないだろうかと、勝手に想像したりしているのです。

物語の本当の舞台は「千葉県矢切村( 現在の松戸市下矢切 )」なのですが、残念なことに?あの映画のロケ地は信州だったらしいです。観光の目玉にもなっているようで、その影響なのか、信州が舞台だと想っている人も多いみたいです。

僕は大学時代、友人が市川市に住んでいたことがあって、何度か遊びに行ったおり、「野菊の墓」のことを思い出して、市川から松戸まで川伝いに歩いたことがありました(10kmくらいだったでしょうか)。その途中で、不意いにあの有名な「矢切の渡し」に出くわし、しばしそこで佇んだのです。

今では両岸とも住宅が迫って来てはいますが、かつては遥か遠くまで田畑が続いていたはずの場所です。そこに立ち、「ここが、あの小説の舞台か・・」と、一瞬タイムスリップして、かの時代に思いをはせたのです。一説には自叙伝だったと言う話しもあり、だとすればそこで本当に、あの悲し過ぎる別れがあったと言うことにもなるわけです。

児玉清さんも、やはりあの川のほとりを訪れたのでしょうか。そして遠い昔の、田園風景に消えて行った、実らぬ恋を想ったのでしょうか。