★すでにご存知のように、俳優の児玉清さんが亡くなりました。司会や読者家としても良く知られていましたが、僕にとっても、近年は書評家としての印象が強かったような気がします。なので、訃報を聞いてまず思い出したのが、書評家として語った、伊藤左千夫の「野菊の墓」についてのコメントでした。
「時折り、自分の心がすさんでいないか。みずみずしさを失っていないか。その確認のために読み返すことにしています」
確かこんな感じの言葉だったと想いますが、これだけでも、児玉清さんの人柄が分かる気がするのです。「野菊の墓」と言うのは、有名な作品なので説明の必要も無いと想いますが、簡単に言えば、封建的な道徳観の残る時代ゆえに、引き裂かれていく思春期の悲恋物語、と言うことろでしょうか。
これを「時折り読み返している」と言う児玉さんは、なんて堂々とした人なんだろう、と想いました。普通は「いい歳をして、そんな青臭いモノを・・」と想われるのが恥ずかしく、隠したがるものなんですがね。
僕にとっては小説「野菊の墓」よりも、映画「野菊のごとき君なりき」の方が先でした。木下恵介監督の名作です。中学生の時に初めて観て涙がとまらなくなりました。どうすることも出来ない悲しみと、思春期の純粋さに心が洗われて行く感じがしたのです。これ以外にもたくさん映画化やドラマ化されましたが、やはりこれが一番ですかね。
冒頭に登場する、笠智衆さん演ずる年老いた主人公「斎藤政夫」が、矢切の渡しで船に乗り、川面を見つめるのです。そして遠く過ぎ去った故郷の想い出と共に、若くして亡くなった二つ年上の従姉「民子」を想うシーン、懐かしさと切なさと、ここで一気に物語に引き込まれてしまうのです。
じつは、吉田たくろう氏の曲「マークⅡ」の歌詞に、
「年老いた男が、川面を見つめて、時の流れを知る日が来るだろうか」
と言うくだりが有るのですが、あれは、このシーンを見てイメージしたのではないだろうかと、勝手に想像したりしているのです。
物語の本当の舞台は「千葉県矢切村( 現在の松戸市下矢切 )」なのですが、残念なことに?あの映画のロケ地は信州だったらしいです。観光の目玉にもなっているようで、その影響なのか、信州が舞台だと想っている人も多いみたいです。
僕は大学時代、友人が市川市に住んでいたことがあって、何度か遊びに行ったおり、「野菊の墓」のことを思い出して、市川から松戸まで川伝いに歩いたことがありました(10kmくらいだったでしょうか)。その途中で、不意いにあの有名な「矢切の渡し」に出くわし、しばしそこで佇んだのです。
今では両岸とも住宅が迫って来てはいますが、かつては遥か遠くまで田畑が続いていたはずの場所です。そこに立ち、「ここが、あの小説の舞台か・・」と、一瞬タイムスリップして、かの時代に思いをはせたのです。一説には自叙伝だったと言う話しもあり、だとすればそこで本当に、あの悲し過ぎる別れがあったと言うことにもなるわけです。
児玉清さんも、やはりあの川のほとりを訪れたのでしょうか。そして遠い昔の、田園風景に消えて行った、実らぬ恋を想ったのでしょうか。
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