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ぐんじょういろと群青領域

 ★「群青領域」、これはNHKの「ドラマ10」で放送された、心に負った深い傷のために演奏が出来なくなった、天才的な韓国人ピアニスト「キム・ジュニ」の挫折と再生の物語です。「群青領域」と言うタイトルに惹かれてちょっと覗いてみたら、最後まで見てしまいました。 ◎ NHKドラマ10「群青領域」 「ぐんじょういろ」 幼稚園の頃、初めて手にした画材「クレヨン」に、そんな名前の色が有りました。青よりもっと暗い、黒に近い青色のことでした。そして、意味も分からず、この言葉の響きだけがやけに耳に残りました。 中学生になったある日、美術の時間に、一人の女子が「あれ、ぐんじょういろの絵の具が無くなってる!」と言うと、近くにいた生徒たちが、「ぐんじょういろ?。今どき、’’ぐんじょう’’なんて言うか?!」とからかいました。 その頃になると、僕たちは濃い青のことを「紺色」と呼ぶようになっていました。「ぐんじょういろ」とは、幼稚園児のような子供が使う色のことで、あか抜けない、ダサい呼び名と言うことになっていたのです。ところが、あるとき僕は「ぐんじょう」の漢字を知ることになります。それは・・ 「群青・・、青の群れ」 なんて美しい言葉だろう、と思いました。その時から「群青」は、僕にとって特別な単語になったのです。 たとえば、村上龍氏が武蔵美在学中に「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞したときも、このブルーは「群青」に違いない、と勝手に思ったくらいでした。 なので、「群青領域」と言うタイトルを見たとき、「このドラマを見てみたい・・」、そう思いました。 主人公の「キム・ジュニ」はバンドでキーボードを担当していましたが、ある出来事に傷つき失踪します。たどり着いた場所は海辺・・。そこで「死ぬつもりはなかった。消えたかっただけ」と、海に飛び込んでしまうのです。 それを助けたのが、海で仲間を失い、やはり心に傷を負って潜れなくなった水中カメラマン「蓮(れん)」でした。 自殺か?と驚いた蓮が飛び込んで、海の底へと沈みゆくジュニに追いつき、抱きかかえた時、二人は透き通った美しい青に囲まれていました。そこが、心の大きな傷を包み込む深層世界、「群青領域」だったのです。 僕にも、もがき苦しんだ時期が有りました。このドラマを見るまですっかり忘れていたことですが・・ 僕は二浪して芸大に合格しましたが、じつは、現役での大学

二年前の事件の話し・異聞

*これは実際に有った話しです。そのため、文章中に登場する人物の名前は、筆者・高橋を除いて全て仮名にしてあります。・・なお、できれば前編「二年前の殺人事件の話し」から読んでいただければ、より興味深い展開になるかと思います。 ◎ 前編「 二年前の事件の話し 」 ★まず最初に、何故この話しを再アップしようと思ったか・・ (これは元々1990〜1993年の出来事で、当時すでに別の媒体で発表しています) 僕はこれまで、不思議な体験をすることが時々あって、これらを「みんなに教えたらきっと面白がるだろう」と思い、いくつかをブログに載せて来ました。ですがある時、気づいたのです。 どの話しもけっきょく「自分一人の主観」でしか無く、信じない人に「作り話でしょ?」と言われたらそれまでだと・・ そこで昔「*ゴブリンズ・レター」に載せたこの話しを思い出したのです。 これを読んでもらえれば、少しは他の「不思議な話し」にも信憑性が増すのではないだろうか・・ なぜなら、 唯一この話しには、客観的証人となりうる人物が登場するからです。それが、僕が参加していた草野球チーム「GOBLINS」に、新メンバーとしてやって来た「飯沼君」でした。 * ゴブリンズ・レターとは? 草野球チーム「GOBLINS」の会報のこと。まだネットの無い時代、メンバー間の情報交換を郵送で行ってた。その紙上に時折り高橋がエッセイなどを書くことがあり、その一つが 『二年前の殺人事件の話し』だった。 それは「二年前の殺人事件の話し」を*ゴブリンズ・レター紙上に書いて間もなくのこと。ある日曜日にかかって来た、ゴブリンズ飯沼君の電話から始まります・・ * 昼食後、坂を下って行くと、キャプテン高橋は豆腐屋のお爺さんに、 「それ(ローラー・ブレード)は何ですか?」 と捕まった。色々説明して、最後に、 「鴨川まで行きます」と言うと、 「鴨川?、じゃあもう、じきです。お気をつけて」 と丁寧にお辞儀をされた。有り難う。お元気で長生きしてください。一期一会、袖擦り会うも他生の縁。 飯沼君とは何の因果か解りません 。   これは1992年の夏、ゴブリンズ・レターに書いた、『 千葉-鴨川ブレード走行記 』の中の一説である。このとき僕は、ある不思議な感覚の中にいた。 『なぜオレは、今コイツと一緒にいるんだ?』 年齢は一回りも違う。野球要員としてメンバーが会

二年前の事件の話し

★1990年のある日、僕の家に刑事が訪れました。やがて彼によって語られる事件の内容は、その後に起こる、不思議な出会いの始まりでもありました。 これは1990年に僕の周辺で実際に有った出来事です。それをその二年後の1992年に書きました。それで「二年前の・・」と言うタイトルなのです。つまりこれは、当時の記事の「再アップ」になります。念のため、筆者・高橋以外の登場人物は仮名・伏せ名にし、ショート・ストーリー風にしてあります。 * 「じつは・・、 殺しが有りましてねえ」 その男は挨拶もせず、片手で首を絞めるような仕草をして見せた。 それは、僕が久しぶりに車を洗っている時のことだった。洗い終わり、ワックスの用意をしていると、警察手帳を見せながら門を開け、彼は勝手に入って来た。本物の刑事を目にするのは小学生時代の三億円事件以来だったが、まさか今度は、「殺人事件」でやって来るとは・・ 「弟さん、いますか?」 そう聞かれて、僕は一瞬言葉を失なった。 「すみませんがねえ、ちょっと話し、聞きたいんですよ。1時間か2時間、お願い出来ませんか?」 僕は、嫌なことを想像していた。 弟?人殺し・・? だが刑事は、じっと僕の目を見たまま、それ以上喋ろうとはしなかった。そしてその視線は、僕の心の中を読み取ろうとしているかのように想えた。 解りましたと、玄関のドアを開けようとすると、刑事は後ろから、 「村下って奴が殺ったんですがね、どうやら弟さんがそいつと親しくしていたようでね」と付け加えた。 「お兄さん、何か聞いてませんか?」 「あ、いえ、何も・・」 戸惑いながらも、少しほっとしていた。 僕の弟は日産の武蔵村山工場(2001年閉鎖)に勤めている。一週間ごとに昼勤と夜勤がシフトされるのだが、今日は夜勤明けで寝ていた。勤め始めの頃は寮に入っていたが、年齢制限でつい最近追い出され、今は親元に戻って来ていた。 僕はアパート暮らしで、たまに家に置きっ放しの車を洗いに戻って来るだけなのだが、偶然にもこの日、居合わせたのだった。親は共に仕事へ出掛けていなかった。 弟を起こして刑事に紹介する時も、何故か刑事は、終始僕の表情を探っていた。僕はその様子から、刑事が弟を少なからず疑っているのだと言うことを察した。 「お兄さんもいてください」刑事は言った。 彼は身内の微妙な表情の変化を見定めようとするつもりなのだ。 し

2「どっこい、夢はまだ続いていた・・」

前回までのお話し → 1「土手の上で、夢の中の約束」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★正直、今回はアップするか否か迷いました。 今年9月(2021)のお彼岸のころ、「土手の上で、夢の中の約束」と言うブログ記事を書きました。37年前に亡くなった女の子の夢を見た、と言う話しです。当初は「珍しい人の夢」と言う、ある意味「懐かしさ」を書こうとしたものでした。 ところが、じつはその人の夢、まだ終わっていないんです。断続的にですが、続いているんです。数にして、10回近くは見ているかも知れません。 こんなにたびたび同じ人の、しかも亡くなった人の夢なんて初めてで(両親が亡くなった時でさえこんなことは無く・・)、それだけに、何か「意味のある出来事?」のように思え、忘れない内に書き留めておこう、そんな気持ちになったのですが・・ しかしです、ふとワレに返りまして、疑心暗鬼にもなってしまったのです。どんなに一生懸命書いても、伝わらないんじゃないか?。「作り話しでし ょ?」って言われたらそれまでだと・・ 僕の亡くなった母親は、ちょくちょく「正夢」を見る人でした。たとえば「田舎の親戚が大ケガする夢を見た」と言って電話をすると、ホントに大ケガをしていたとか・・ 僕には離婚歴がありますが、何も伝えて無いのに電話がかかって来て、「二人が別々に歩いて行く夢を見た。なんか有ったんじゃないだろうね!」なん て 、怒った口調で問い詰められ、しどろもどろになったことも有りました。 僕自身 は、ここまで特別な夢体験も無く生きて来たのですが、そんな母に、たびたび話しを聞かされて来たので、「夢がメッセージを運ぶ」ってのは、まあまあ有ることだろうとは思っていました。 が、まさか自分が、「メッセージ夢?」を見ると思ってなかったし、今回もすぐに「何か意味があるのでは?」と、信じたわけではないのです。 しかし、何回か、亡くなった同じ女の子の夢を見て、それがいつもより鮮明で、目が覚めても薄れて行かなくて・・、そんなことを繰り返している内に、「まさか、もしかして?」と、少しずつ気持ちが傾いて行ったと言うワケなのです。 だから、そうじゃない普通の?人々にとっては、いきなりそんな話しをされても・・、さて、どんなモンでしょう。やはり、奇異な感じに映るだけなのではないでしょうか? しかしです。それでも、夢を

松坂投手引退で思い出す、円周率デマの話し・・

★ついに?平成の怪物・松坂投手が引退を決意しました。 このニュースを聞いて、その感慨よりも、入団時のことを思い出していました。日本中が信じてしまったデマ、今で言う「松坂プロ入りフェイク・ニュース」の話しです。今回はまず、そのブログ記事のURLをリンクしておくので、まだ読んでない人はどうぞ見てください。 ◎ 松坂投手の誰もが勘違いしているホントの話し じゃあなぜ「円周率」なのかと言うと・・、松坂投手についての自分のブログ記事を読み直した時、その中に、そのままになっている宿題があったことに気づいたのです。で、今回はその件の続きを書いておこうと思うのです。 その宿題とは?「ゆとり教育反対の理由」で大変有名になった「円周率3」のデマのお話しです。 少し前、あるバラエティ番組で、外人タレントさんが、「ゆとり教育って、円周率3で教えるんでしょ?。これ海外でも''ありえない?!''って話題になったんですよ!」って話しをしてるのを見まして・・、「これ、かなり恥ずかしいぞ・・」と思ってしまったんです。今の時代、国内の小さな話題でも一瞬にして海外に伝わってしまう、と言ういい例ですよね。 「日本の恥だ」と思ったものの、恥と思ったのは「円周率3」ではなく、「デマ」が、そのまま「ホントの話し」として海外に伝わってしまったことの方なのです。「円周率3」のこの話し、日本の塾業界が意図的に広めたデマだったんです。 日本中が信じてしまった「ゆとりは円周率を3で教える」と言うウワサ・・ しかし 「ゆとり教育」の学習指導要領には、「これから円周率は3で教えます」なんてことは一言も書かれておりません。 実際の「学習指導要領」の文章では、 「円周率は3.14」 のまま変更無しです(当たり前です) が、同文の中の例外として、 「目的に応じて3を用いてもよい」 という文言がありまして、これを発見した反対派は、鬼の首を取ったかのようにそこだけを切り取り、「ゆとり教育は円周率を3にしようとする暴挙!」と、吊し上げを始めてしまったわけなのです。 ではなぜ「目的に応じて3を用いてもよい」と言う一文があるのか?。それには、円周率3.14の正体について少し考えてみる必要があります。まず、誰でも知っている?ことですが、円周率は永遠に割り切ることが出来ない「無限数列」です。 途中までざっと表すと

「まゆゆ」引退・・

 ★「今ごろかよ!」って言われそうですが、元AKBの神セブンと呼ばれた一人、渡辺麻友さんが芸能界を引退しました。 昨年(2020)のことです。しかし、芸能界では大物タレントのコロナ死や自殺など、衝撃的なニュースが相次ぎ、ファン以外ではそれほど?話題にならなかったような気がします。しかし僕にとってはちょっと興味深い存在だったので、少し書いておこうかと思いました。 単刀直入に言うと、「音楽の価値観を一変させられた?」とでも言いましょうか、彼女が歌った一曲に、これまで培って来た音楽の感性を一撃で破壊されてしまった、そんな存在だったのです。(大袈裟か・・) かく言う僕は、もともと若い頃はアイドルと言うモノには興味がありませんでした。自分で言うのもナンですが、変わり者だったし、多少歌にも自信があったので、当時のヘタウマアイドル歌手はどうでもいい、と言うのが本音でした。 世間では「歌のうまいアイドル」として評判だった「松田聖子さん」でさえ、僕が聴いた限りでは微妙に音を外していて、それが気になってダメだったのです。 周囲の人たちは、その「説」を信じませんでしたが、彼女がアメリカ進出を試みた時、向こうのプロデューサーから「音程が外れている。このままだとアメリカでは通用しない」と、長期間のレッスンを受ける予定との芸能ニュースを見た時、ひとり「ほらね!」と思ったものでした。(ただし、帰国後は素晴らしい歌手に変貌していましたよ、念のため) では、そんなだった僕を、還暦近くなって、一変させてしまった一曲とは何かと言うと、「まゆゆ」が歌う、その名も「麻友のために」でした。 どうですか?。声質は典型的な舌足らずの「アイドル系ガールボイス」で、一見ヘタそうに聴こえるのですが、注意して聴くと、しっかり音を外さずに歌い切ってることが分かるのです。しかもサビの部分、低音からいきなり高音に飛ぶ高低差の激しい曲にもかかわらず、後半になってもしっかり音程を保ち続けている・・  かつてのアイドル嫌いの僕は、「AKB48」と言うのは、とりあえず可愛い女の子をたくさん集めて、一度に大勢で歌わせれば歌のマズさはごまかせるってやり方だ、と思っていました。なので、これを聴いた時、「あれっ?」と思ったんです。 「ちょっとこれ、ホントは、歌の上手い女の子なんじゃないの?」と興味が湧いたんです。音程があまりにフラットなので、

副反応ではない、筋肉注射の痛みだ!?

 ★新型コロナのワクチンを7月と8月に打ってもらいました。「副反応で死亡」との報道もチラホラと聞いたので、正直、ザワザワした気持ちも有りましたが、打ってみたら特に異常は無く、副反応と呼べるものは「腕(肩?)の痛み」と「頭痛」くらいでした。 報道では「腕の痛み」も副反応のひとつとされていて、「オレの痛みもそうだな」と納得していたんですが、しばらくして、「いや?、腕のこの痛み、・・知ってる。前にも何処かで経験してる・・」と言う気がして来たんです。 で、ずっと記憶をたどってみると、子供の頃よく診てもらっていた「E先生」の注射の痛みに似てる?ってことに辿り着いたのです。で、もしこの仮説?が正しければ、これはワクチンの副反応ではなく、「筋肉注射独特の痛みである」と言うことになるのです?。 僕は小学校三年で、今住んでいる町に引っ越して来たのですが、当時の掛かりつけの医者となったのが、商店街の並びにあったE医院の「E先生」でした。その医者の注射の仕方が、今思えば「筋肉注射」だったんです。 二の腕に注射針を垂直に立て、勢いよく針を刺し、薬液を押し込んですぐに抜く。それが子供の目から見て一瞬の早技だったので、注射を怖いと思うヒマも無く終わっているって感じだったんですが・・ しかし、家に帰ってからしばらくすると、だんだん痛みが出てくるんです。ドーンと、重ダルいような痛いような、とにかく腕が上がらなくなるくらいの感じです。その痛みが、あの頃も1〜2日続いたんですかね。細かく覚えてないんですが、夜、寝苦しさで何度も寝返りを打ったような記憶は有ります。 それからこんな事も有りました。かつて我々が小学生の時代は、学校でワクチンの集団接種が行われていました。接種当日には、数名の町医者が来るのですが、それには必ずE先生も来ていました。そして、それぞれ陣取った医者の前に、生徒が振り分けられ列を作るのですが、なぜか、E先生の列に並ばされてしまった子供は、「え〜!」っと嫌そうな声を上げたり、半べそかく女子もいたのです。 転校生だった僕は知らなかったんですが、以前から「E先生の注射は痛い!」と、生徒達にはとても評判が悪かったらしいのです。ですが、家族ぐるみでお世話になっていた僕は、顔見知りだし注射にも慣れていたし、その日も目が合ってニコッと笑顔を見せてくれたので、僕はE先生に打ってもらいたいなあ、くらいに

1「土手の上で、夢の中の約束」

★ Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 2021年の春頃、 僕は一つの夢を見ます。ほぼ忘れかけていた人の夢と言 う、何の変哲もない出来事のはずでした。しかしそれは、その後、約一年間に渡って続く、「少し不思議な巡り合わせ」の、始まりの夢だったのです。 * ・・そこは何処かの土手で、芝生で覆われたなだらかな地面の上に、男女数人で座っています。僕の左隣りには小柄な若い女性が座っていて、まるで独り言のように話しかけて来るのです。 「あたしいま、風俗で働いてるの」 その言葉に、 僕は少なからずショックを受けていて、すぐには返事ができません。大学の学費を親に頼らず、全部バイトで稼ぐと言っていた彼女ですが、そこまでして・・とは思いませんでした。 返事が出来ず思いを巡らしていると、次に彼女はこんなことを言いました。 「歯が抜ける女の子はキライですか?」 その声に口元を見ると、あちこち抜けてしまった歯茎が見えていました。僕は愕然としながらも、それを悟られまいと明るく、 「だいじょうぶ。インプラントと言う手もあるよ」 と言いました。 僕の右隣りの女性も「そうそう、インプラント」と言ってくれて、それを聞いた僕は少し落ち着きを取り戻します。 何処か体が悪いんじゃないのか?と思ってもう一度見ると、 彼女は やはり顔色が悪いのです。おまけに 痩せていて、とにかく見すぼらしいのです。僕が覚えている 、明るく健康で弾けるような若さの彼女ではなくなっていました。 しかし・・ 「でも、だいじょうぶ、オレはずっと変わらないから」 そう言い切ってしまうと、さっきまでの動揺がウソのように晴れやかな気持ちになっていました。 ここまでに至る、彼女との出来事を思い出していたのです。美術大学で初めて言葉を交わした日・・、ローラー・スケートが共通の趣味だと分かった日・・、それから・・ 「オレはずっと変わらない」 僕の言葉が届いたのかどうか・・、 彼女はスッと立ち上がると、 「もう行かなくちゃ」と、 夕暮れ迫る土手の上を、小走りで何処かへ行って しまったのです。 ・・と、そこで目が覚めました。夢だったんです。 さらに 少しずつ意識がハッキリして来ると、その夢の中の彼女が、もうこの世にはいない人なのだと言うことも思い出していました。今からざっと37年 前、27歳 の若 さで亡くなってしまった人なので

野球選手の移籍と運について

 ★日ハムの「中田翔選手」が、日ハムで暴力事件を起こして無期限謹慎になったのに、巨人に無償トレードされたその日から、何故か無期限のはずの謹慎が解け、いきなり一軍出場可能となった件について、ちまたでは「FA使わず巨人に行きたくなったら、暴力事件を起こせばいいのか!」との批判が殺到しました。 これには一般人だけでなくて、さすがの巨人OB達も苦言を呈していましたが、今や巨人全権監督と言われる「原辰徳氏」には届かなかったようです。・・って言うか、この件だけでなく、これまでの原氏の言動などからすると、どうも「第二のナベツネ」に変貌するかも?と言う戦慄さえ感じます。 ・・が、本日したいのは、そんな話しではありません。中田翔選手が背負っているはずの「運」についてです。 スポーツ選手、勝負師とは、実力や実績だけでなく、「幸運・不運」を背負っているものだと言います。そしてそれが、野球やサッカーのようなチーム競技である場合、各選手が持っている「運」が、チーム全体の流れに大きく影響するとも言われます。 で、「中田選手、巨人へ無償トレード!」との報道を見たとき、僕には、どうにも彼のシルエットに「暗い何か」がまとわりついているように見えて、あまりいい気持ちはしませんでした。まあ、自分は占いも知らないオーラも見えない人間なので、いい加減な先入観に過ぎないのかも知れないんですがね・・ でも、見えないはずのオーラ?を感じた例があるんです。2019年に同じ巨人にFA移籍した「丸選手」です。丸選手は広島カープで三連覇を果たし、巨人に行ってもまた優勝し、当時「1人四連覇」と言われました。その時の彼は、確かに強運で光り輝いているように見えました。(2020も優勝なので1人5連覇ですね) で、出て行かれたカープはどうなったのかと言うと、丸選手以外ほとんどメンバーは変わらないのに、突如として低迷を始めました。いや、没落と言っていいかも知れません。 「ちょっと待った。丸と言う大きな戦力が抜けたのだから低迷して当たり前、運がどうのこうのって問題じゃない」と言うかも知れません。しかしですね、もうひとつこんな例があるんです。 前田健太投手、マエケンです。彼もまたFAで広島からメジャーへと出て行きました。では、突然エースが抜けた広島カープはガタガタになったんでしょうか。いいえ、それどころかマエケンが抜けたとたんカープは

ショウヘイ・オオタニとロイ・ハブス

★今や、大谷翔平選手は、歴史を塗り替える大活躍! エンゼルス以外のMLB各球団は、2017年の「ショウヘイ・オオタニ争奪戦失敗」で、今更のように地団駄を踏んでいるそうです。シアトル・マリナーズもその一つで、ジェリー・ディポトGMは、当時、大谷選手のことを「ロイ・ハブス」と呼び「全力で獲りに行く!」と豪語していたそうです。 「ロイ・ハブス」とは?。 1984年公開の傑作野球映画「ナチュラル」の主人公の名前です。演じたのは ロバート・レッドフォード。で、そのヒーローを彷彿とさせると言うことで、オオタニ獲得のプロジェクトネーム、隠語で「ロイ・ハブス」と呼んでいたと言うことでしょうか。 なるほど、ロイ・ハブスは、映画ではピッチャーでもバッターでも行ける天才野球選手との設定で、僕も一瞬?ですが、「大谷くんはロイ・ハブスみたいだな」と思ったことは有りました。ただロイは、プロ入り直前に殺人未遂事件に巻き込まれ、一度はプロ入りを断念する悲運の天才でもあったので、大谷くんと重ねるのは「う〜む?」と思ったことも確かでした。 とは言え、僕にとって「ナチュラル」は、「フィールド・オブ・ドリームス 」「プリティ・リーグ」と並ぶ三大傑作野球映画なので、公開から30年以上過ぎた今も、「ロイ・ハブス」の名が、天才野球選手を象徴する言葉として使われていることに、嬉しさを感じたりもしたのです。 日本では、何かのヒット映画と抱き合わせで購入された作品で、公開された劇場もたった二館、すぐ終了する予定だったそうです。それが「面白い」と評判になり、宣伝広告も無し、人々のクチコミだけでロングラン大ヒットとなった、異色の野球映画だったんです。僕もその二館のウチのひとつで見ました。 ただし、今の若い人にとって「クチコミ」とは、TwitterなどSNSのことだそうで、ネットもスマホも無いあの時代、「クチコミ」が人から人への噂話しのことで、「口頭によるコミュニケーション」、略して「口コミ」とは到底「ありえない!」って事らしいですね。 それくらい映画「ナチュラル」には、物語としての「パワー」があったのだと思います。ちなみに、監督は「レインマン」で数々の受賞をした、バリー・レビンソン監督。 * 「ナチュラル」序盤のあらすじ * 1950年代?。片田舎の農場に生まれ育ったロイ・ハブスは、19歳の時、老スカウトにピッチャーの才

椎名町のラーメン屋で起こった、ある結末・・

★だいぶ前のことですが、西武池袋線・椎名町駅近くのアパートに住んでいたことがありました。この駅のすぐ近くの線路沿いに、とあるラーメン屋があって、これは、その店で起こった意外な結末?のお話しです。 当時は今ほどラーメン・ブームでは無かったと思いますが、行列は出来ないまでも、スープは豚骨醤油味で?、トッピング・メニューが豊富、まあ、そこそこ美味しいラーメン屋さんでした。 店名も忘れるほど記憶があいまいですが、確かカウンター席は無く、全部テーブル席だったと思います。僕は人混みが苦手で、見知らぬ人と相席になるのが恐ろしい人間だったので、適度に空席があることに安心感を感じ、けっこう通っていました。 お店の人は、老夫婦と、息子と思しき三十前後の青年、その三名で切り盛りしていました。老夫婦二人は食堂に有りがちな白衣と帽子を身に付け、奥さんは主に配膳、ご主人は厨房で包丁を握り、片時も休まず食材の仕込みをしていました。 で、青年はと言うと、黒縁メガネをかけTシャツにジーンズ姿、ラーメンの調理を一手に引き受けていました。注文が入ると、轟音のする換気扇のスイッチを入れ、手際良くラーメンの用意。麺を茹でている間に、ガランガランと中華鍋を振ってトッピングの炒め物をするのです。 青年はいつも黙々と調理をこなしていました。そうして一品出来上がるごとに換気扇を止め次の注文を待つのですが、しばらく無いと分かると、裏口から外に出て風にあたるのが常でした。 僕はその町に数年住んでいましたが、その間、彼以外が調理をするのを一度も見ませんでした。ご主人は、いつ見ても食材の仕込みをするだけで、麺を茹でることさえしません。 その様子から、老夫婦は青年に後を継がせるつもりで、すっかり任せっきりになっているのだと思いました。 そんな三人の姿を何度見たことでしょう。当時の僕には「自炊」と言う習慣は無かったので、食事は、駅界隈のいくつかの食堂をローテーションしていました。なので、そのラーメン屋にも、一週間か二週間に一度は通っていたのだと思います。 そんなこんなの何年目かのある日、いつものようにラーメン屋を訪れていた僕は、そこで三人の意外な会話を耳にするのです。 注文したラーメンを食べ始めていた時のことでした。店がひと段落して、珍しく奥さんが厨房の中に入って行ったのです。そして換気扇が止まり静かになると、老夫婦のゆったり

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