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椎名町のラーメン屋で起こった、ある結末・・

★だいぶ前のことですが、西武池袋線・椎名町駅近くのアパートに住んでいたことがありました。この駅のすぐ近くの線路沿いに、とあるラーメン屋があって、これは、その店で起こった意外な結末?のお話しです。

当時は今ほどラーメン・ブームでは無かったと思いますが、行列は出来ないまでも、スープは豚骨醤油味で?、トッピング・メニューが豊富、まあ、そこそこ美味しいラーメン屋さんでした。

店名も忘れるほど記憶があいまいですが、確かカウンター席は無く、全部テーブル席だったと思います。僕は人混みが苦手で、見知らぬ人と相席になるのが恐ろしい人間だったので、適度に空席があることに安心感を感じ、けっこう通っていました。

お店の人は、老夫婦と、息子と思しき三十前後の青年、その三名で切り盛りしていました。老夫婦二人は食堂に有りがちな白衣と帽子を身に付け、奥さんは主に配膳、ご主人は厨房で包丁を握り、片時も休まず食材の仕込みをしていました。

で、青年はと言うと、黒縁メガネをかけTシャツにジーンズ姿、ラーメンの調理を一手に引き受けていました。注文が入ると、轟音のする換気扇のスイッチを入れ、手際良くラーメンの用意。麺を茹でている間に、ガランガランと中華鍋を振ってトッピングの炒め物をするのです。

青年はいつも黙々と調理をこなしていました。そうして一品出来上がるごとに換気扇を止め次の注文を待つのですが、しばらく無いと分かると、裏口から外に出て風にあたるのが常でした。

僕はその町に数年住んでいましたが、その間、彼以外が調理をするのを一度も見ませんでした。ご主人は、いつ見ても食材の仕込みをするだけで、麺を茹でることさえしません。

その様子から、老夫婦は青年に後を継がせるつもりで、すっかり任せっきりになっているのだと思いました。

そんな三人の姿を何度見たことでしょう。当時の僕には「自炊」と言う習慣は無かったので、食事は、駅界隈のいくつかの食堂をローテーションしていました。なので、そのラーメン屋にも、一週間か二週間に一度は通っていたのだと思います。

そんなこんなの何年目かのある日、いつものようにラーメン屋を訪れていた僕は、そこで三人の意外な会話を耳にするのです。

注文したラーメンを食べ始めていた時のことでした。店がひと段落して、珍しく奥さんが厨房の中に入って行ったのです。そして換気扇が止まり静かになると、老夫婦のゆったりした話し声が聞こえて来ました。

「◯◯君・・、就職決まったんだって?」奥さんが青年にそう尋ねたのです。
「良かったなあ。おめでとう」ご主人もそう声をかけ、目を細めています。

奥さんが笑顔で続けました。「ここのバイトは今月いっぱいなんでしょ?。寂しくなるね。何かお祝いしなくちゃね」
青年は「ようやくです」と苦笑いし、何度も頭を下げていました。

「えっ?。あの人、息子じゃなかったんだ。ただのアルバイトだったんだ!」

会話に耳をそば立てながら軽い衝撃を受けていたのです。つまり僕は、いや僕たち客は、ご主人夫婦とは赤の他人の、バイト君が作ったラーメンを「美味しい美味しい」と言って食べていたのです。

「バイトにしちゃ、手つきが堂に入ってるけど・・」と、妙に感心しました。もしや経験者だったのかな?とも思いましたが、・・いや、どうでしょう。

これは僕の推測ですが、「就職が決まった」「ようやく」などの会話から察するに、バイトはおそらく大学在学中に始めたような気がします。で、卒業後も、何となく就職せずに続けてしまった・・ つまり、今で言う「フリーター」ですね。

バイト歴が長くなり、雑用ばかりでは気の毒に思ったご主人が、ラーメン作りを教えたのかも知れません。で、調理をマスターし、いつしかご主人に代わって厨房に立つようになると、その分昇給もしたのでしょう。結果、青年はその稼ぎだけで、それなりの生活が出来るようになってしまった、・・たぶんですよ。

もちろん、彼なりに「そろそろ就活しなければ」とは思ったはずです。が、きっかけが見つからないまま、けっきょく何年も何年も、同じような毎日を続けてしまったのかも知れません。

タバコに火をつけ休憩する彼の姿は、開け放された裏口からいつも見えていました。それは彼の変わらぬ習慣でした。

しかし、煙を吐き、夜空を見上げているうちに、やがて彼の脳裏には、もう一つの別の考えが、幾度となく去来するようになって行ったはずなのです。

「このままラーメン屋も悪くない」

老夫婦の子供はすでに別の職業についているのでしょう。あるいは子供が出来なかったか・・。どちらにしても、今となっては事実上、店を回しているのは彼なんだし、「後を継ぐ」と言えば老夫婦も喜んでくれるかも知れない。

しかし同時にこうも思い、揺れ動くのです。

今は、三人そろって何事もなく過ごせてはいるが、老夫婦はいずれ身体が衰え引退するだろう。いや、突然亡くなってしまうかも知れない。そうなれば、オレは独りきりだ・・

経営には色んな資格が必要だろうし、二人の代わりを雇うのも気が重い。それに失礼な言い方だが、ここは行列が出来るほどの繁盛店でも無いし。・・だとしたら、今が就職の最後のチャンスなのかも知れない。

・・三人を横目に、ラーメンのスープをすすりながら、僕の妄想は、まるで山田太一脚本のドラマのように、次から次へと広がって行くのでした。


その会話を聞いてから、再びそのラーメン屋に行くまでには少し間が空いてしまいました。2〜3週間か、それとも1ヶ月くらいだったか?ハッキリとは思い出せません。ただ「今月いっぱい」と言っていた、バイト君の期限が過ぎていたことだけは確かでした。

僕は「そうだ、今日はあのラーメン屋へ行ってみよう」と決めて、駅を降り、店へと向い始めると、少しドキドキしている自分に気がつきました。やがて見えて来た店の入り口なんですが・・、どうにもシャッターが閉まっているように見えて仕方ありません。

「あれ?、定休日じゃないよね?」と思いながら、店の前までたどり着くと、やはりシャッターは堅く閉じられており、そこに小さな張り紙を見つけたのです。

*お知らせ* 当店は◯月を持って閉店させていただきます。長らくのご愛顧、有り難うございました

それを読んだ僕は、「うそだろ?」と、その場に立ち尽くしてしまったのです。バイト青年が辞めても、当然またご主人が調理に復帰して、店はずっと続くはずだと思っていたからです。

「閉店だなんて、そんな・・」

しかしともかく閉店のきっかけが、青年との別れにあったことは、まず間違い無いだろうと思いました。

けっきょくその日は他の店に入る気分になれず、コンビニでビールと弁当などを買い、そのままアパートの部屋に帰ることにしたのです。帰ってからも、しばらくの間、落ち着きませんでした。赤の他人なのに、脳裏にあの三人の姿がチラついて、何だか切なくなってしまったのです。

旅立つ青年の後ろ姿と、それを静かに見送る老夫婦二人・・ どうでもいいはずの、赤の他人のことなのに・・


それから数ヶ月後、店は建て替えられ、ゴテゴテした看板の別のラーメン屋になっていました。その外観から「いらっしゃいませえ!」と言う威勢のいい声が聞こえそうで、それが暑苦しく思えて、残念ながら入る気にはなれませんでした。

かつてそこに有ったラーメン屋は、行列こそ出来ませんが、そこそこ美味しく、適度に空席があって安らげる店でした。扉を開けると「いらっしゃい」と、やさしい笑顔で迎える老夫婦がいて、その奥の厨房では、寡黙な青年が手際良く中華鍋を振っている、そんな懐かしい雰囲気の店でした。

今でも時々思い出しては、考えることがあるのです。

もしかすると青年は、「自分が辞めたら、この店はどうなるんだろう」と、あの老夫婦の行く末を案じ、店を離れ難かったのではないか・・

そして老夫婦の方も、人付き合いの苦手そうな青年の将来が決まるまで(もちろん店を継ぐ可能性も含め)、彼が何かを決断するまでは店を続けようと、ずっと見守り続けたのではないのかと・・



◎ Googleマップ かつてラーメン屋があった場所

2020年3月ごろ工事中。また何か違うモノが建つようです

 


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