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三つの野球のお話し

ショートストーリー・三つの野球のお話し・・



 ■第一話■

その日、毎日オリオンズの荒川選手は、いつものように愛犬と散歩に出かけていた。プロ野球選手の彼には、この時間が唯一気持の安らぐ時だった。そしてまた、近くの河川敷で行われている草野球を見ることも、彼の楽しみの一つとなっていた。今日もいつものように、土手を歩きながらの草野球見物だ。

「あれは、高校生どうしか?」

すぐ眼下の試合が気になった。片方の選手たちの体格からしてそう思ったのだが、もう一方は町の寄せ集めチームと言った雰囲気だった。と言うのも、投げている左利きのピッチャーが、どう見ても中学生、あるいは小学生とも思われるような、小柄な少年だったからだ。

ところが荒川は、その少年のピッチングを見た瞬間、その場から立ち去り難くなった。少年が、自分より大柄なバッターを相手に、度胸良く投げ込み、簡単に打ち取ってしまうからである。

「大した子だ」思わず彼はつぶやいた。

だが驚きはこれだけでは終わらなかった。その少年のバッティングを見た時だ。投げている時は左だったその子が、打つ時には右打席に入り、良く見るとグリップの手が逆さのまま、つまり左こぶしを上にしてバットを構えているではないか。

しかもその状態から、強烈な当たりのヒットを放ち、悠々とベースを駆け抜けて行く。これを見ていた荒川は堪らなくなり、とうとう土手を下りて、少年がベンチに戻って来るなり声をかけた。

「キミ、キミは左利きのようだけど、なぜ右で打ってるんだね? だいたいバットの持ち方が全然ちがっている」少年は、見知らぬ男に突然声をかけられ驚いた様子だったが、すぐに笑顔を見せて答えた。

その子は荒川が思った通り、高校生ではなく中学生だった。少年は野球の上手な兄の影響でチームに入ったと言う。だから、憧れの兄と同じように右打席に立っているのだと・・

荒川は話しを聞き終えると、次の打席、そしてこれからはずっと、左で打つようにと教え、少年に正しいバットの握り方を教えた。

そして次の打順が回って来た時、左打席から放った少年の打球は、信じられないような距離を飛び、外野手のはるか頭上を越えた・・

「これは、たいしたもんだ」
荒川は軽い興奮を覚えながら、少年の姿を追い続けた。そして帰りぎわ、少年に名を尋ねておくことにした。

「キミ、名前は何と言うの?」
少年は、やはり人懐こい笑顔で答えた。
「王です。王貞治」

この出来事が、後に一本足打法を生み出す、王一塁手と荒川打撃コーチとの、最初の出会いであった。 

 

 ■第二話■

王貞治が、一本足打法を完成させてから数年が経っていた。すでに何度かホームラン王も獲得、長嶋と並んで、今やジャイアンツの押しも押されぬスーパースターとなっていた。

今日のナイトゲームも、彼らの活躍で圧勝のゲームだった。いつものように、スポーツ記者のインタビューを受けた後、帰りのバスへと向かう。

球場の出口からバスまでの短い距離が、ファンへのサービスの時間だ。王は時間が許す限り、彼を取り囲むファンへ、特に子供達へのサインを怠らなかった。自分の投げかける一言一言、サインの一つ一つが、子供達にどれ程の大きな感動と影響を与えるのか、彼は知っていたからだ。

「王さん、時間です」王はサインをしながら、声のした方を振り返り、それから子供達をなだめるように、その場を立ち去ろうとした。

・・が、その時、押し寄せて来る子供の群れから外れて、ポツンと一人、今にも泣き出しそうな顔で、ボールを握りしめている小学生を見つけた。しょうがないな、あの子で最後にするか。王はニコリと笑い、そう決めて、その子のボールにサインをした。何も言わなかったが、子供の顔が興奮の笑みに包まれて行くのが解った。

「ありがとう。また見に来てくれるね」
そう言い残し、王は球場を後にした。

・・川崎球場、大洋×巨人戦。その夜、一人の新人投手が、全盛期に入っていた王、長嶋のいる巨人を相手に、考えもしない好投を演じていた。その右腕から繰り出される快速球に、ジャイアンツは手も足も出ず、ただ三振の山を築いて行くのみだった。

「初物に弱いんですよ、巨人は・・」解説者はそう言って、あたかもその好投がまぐれであるかのような言い方をした。

バックネット裏のそんな評価を知ることも無く、見事巨人戦初勝利を納めたその新人投手は、歓喜の中でインタビューに答えていた。

「とにかく、子供のころから憧れていた王さんから三振が取れたこと、それが、何よりも嬉しいです」

だが、彼の活躍はこれだけでは終わらなかった。いつの頃からか、彼の決め球は「剃刀シュート」と呼ばれ、どんなバッターも打ち崩すことは出来なかった。特に巨人戦でそのシュートは冴え渡り、勝ち星を重ねて行く。ファンは彼の活躍にどよめいた。巨人キラー、若きエースの誕生だった。

平松政次。
それが彼の名前だった。彼こそ、数年前のナイトゲームのあと、王がいじらしさのあまりサインしてしまった、あの内気な小学生だったのだ。もちろん平松は、今でもそのサインボールを大切に持ち続けている。

その話しを王が知るのは、その年のオールスター・ゲームでのこと。セ・リーグの代表として、王と同じベンチに座ることになった平松は、思い切って、王にその時の話しを打ち明けてみることにした。王は驚き、そしてとても喜んでくれた。

平松は思うのだ。あのサインボールが、自分をここまで引き上げて来てくれたのではないのかと・・。憧れの王選手からサインを貰い、王選手から三振を奪い、王選手と同じベンチに座る。夢見たことの全てが実現してしまったような気がする。

もし、あの時サインを貰わなかったら・・そんな思いが、一瞬頭をよぎった。そして、満員の観衆で埋め尽くされた真夏の夜のスタンドを眺め、大きく息をしてからこう考えたのだ。

「まるで、魔法のようだ」



 ■第三話■

十月の風がロッカールームまで流れていた。

彼は、いつも通りユニフォームに着替え、スパイクの紐をしめた。スパイクの泥は、すっかり綺麗に落としてある。帽子をかぶり、大鏡の前でもう一度ユニフォーム姿を見直す。帽子の位置を少し直して、これでもう身支度は整った。

「忘れ物は無いな」
彼にとって今日が最後のゲームだった。確かに、特別な感慨が無いわけではない。しかし思ったより気持ちは淡々としていた。むしろ、ここ数カ月間の迷いの日々の方がつらく苦しかった。

彼は、ロッカールームからグラウンドまでの、薄暗い通路を歩き始めた。スパイクの金具の音が木霊する。聞きなれた音。見なれた壁の汚れ。全てがいつもと変わらなかった。あの日、初めてこの通路を歩いた時も、同じこの音がしていた。

彼は千葉の高校を卒業した後、プロチームのテスト生を経て、翌年辛うじてドラフト6位でプロ入りした。しかし、人並み外れた練習量の成果で、二年目からはレギュラーポジションを獲得、相手チームからは恐怖の7番バッターとして恐れられるまでになった。その反面、愛嬌のある顔が、女性ファンには「モスラ」と言うニックネームで親しまれたりもした。

それからの彼は、恐ろしいほどの勢いで力をつけて行った。次第に打順は上がって行くのだが、まさか、そのチームの4番バッターを、トレードに追いやるまでに成長するなどとは、誰もが、何より本人が、考えもしないことだった。

そして以来、不動の4番として、今日までそれが当たり前のように、彼は打ち続けたのである。

しかし、決して恵まれた体格の持ち主でなかった彼が、プロの体力を維持して行くための、その激しすぎる練習は、次第に彼の身体そのものを壊し始めていくのだった。

33歳。それが引退を決意した彼の年齢だった。引き留める声は多かった。しかし、他人が何と言おうとも、全ては自分の意志で決める、だからこそ悔いは無い、彼はそう考えた。今日まで誰のためでも無い、自分自身のために野球を続けて来たのだから。

おまけ同然でプロ入りしながら、4番バッターにまで上り詰めた。数々のタイトルを取り、優勝も一度だけだが、日本シリーズを制覇することが出来た。自分の力で、野球で出来る全てのことをやり遂げたのだ。

「もう、忘れた物は何も無い」
彼の心は、十月の風のように穏やかだった。

グラウンドに足を踏み入れ、球場を見回した。いつもと変わらない芝生、観客、ボールを打つ乾いた木の音。彼はグラブに手を通し、守備位置であるサードベースへ向かおうとした。

ところがその時だった。レフトスタンドに広げられた垂れ幕と、何万と言う人々の叫びにも似た呼び声が、突然彼の身体をしびれさせ、動けなくした。

その時彼は、一番大切な忘れ物を思い出したのだ。

そして、胸の奥から込み上げる、熱いものを押さえるかのように、右手で帽子を高く掲げ、球場の全ての人々にゆっくりと最後の挨拶をした。

彼は歩きながら、もう一度だけレフトスタンドの垂れ幕に目をやり、それから足元の土を丁寧にならして、守備位置に付いた。

 そこにはこう書かれてあった。
「夢をありがとう。背番号31。掛布雅之」

 





《三つの野球のお話し/おしまい》 



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