スキップしてメイン コンテンツに移動

7「回想,真夜中のローラー・スケート」

前回までのお話し → 「37年越しの・・、墓参り」
Index「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」


東京芸術大学 1979年〜1982年
美術学部絵画科 油画アトリエ・・


芸大同期の女子、Rさんとの初めての会話は、とても唐突でした。
「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」

それまで、挨拶しかしたことの無かった女の子が、ある日、大学の、僕がいるアトリエにやって来て、いきなり重たい紙袋を手渡してそう言ったのです。中を見ると、10数枚のLPレコードが入っていました。「ジミ・ヘンドリックス」「エアロスミス」「ジャニス・ジョップリン」などなど、ロックの名盤ばかりでした。

この前日、大学の友人たちとアトリエ前の階段に座って雑談し、「ロックバンドを作ろうぜ!」と言う話しになったのです。とりあえず僕はギターが弾けるので誘われたのですが、弾くのはアコースティックギターで、フォークソング派でした。

それで、「オレ・・、ロックは良くわからんな」と、弱気な発言をしていたら、次の日になって、小柄な彼女が重たい紙袋を抱えてやって来たのです。

「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」
「全部って・・、ええっ?、貰っていいの?」

彼女が、僕らの雑談を傍らで聞いていたことは知っていました。が、突然レコードの束を渡されるとは思いませんでした。

「あげるよ。この辺はもう聴かないから。いま凝ってるのは達郎だから」
「タ、ツ、ロ、ウ・・?」
「山下達郎、知らないの?。それなら、今度テープに録ってあげるよ」

・・それが、僕たちの会話の始まりでした。


それから少しずつ話しをするようになり、「ローラー・スケート」が共通の趣味だと言うことも分かって来ました。そして当時、発売されたばかりの新型ローラー・スケートの話題になりました。フレームにエラストマー素材を噛ませ、サスペンション構造になった物がアメ横で売られていると言うのです。(スケボーと同じ構造です)

「じゃあ、今度それ買って、いっしょに滑ろうか?」
と、盛り上がりました。しかし子供の玩具とは違い、数万円する代物だったので、買うとなると、それなりの思い切りが必要でした。

それからどのくらい経ったのか、季節は確か初夏のころ、浪人時代からの友人S君が僕のところへやって来ました。「Rさんがローラー・スケート買いに行くって言ってるけど、一緒にいかない?」と言うのです。

なぜS君経由だったのかは知りませんが、ともかく彼女とS君と三人で、アメ横の「ムラサキスポーツ」まで、スケートを買いに行くことになりました。彼女はアイス・スケート用のブーツを持参していました。それに新型ローラー・スケートのフレームを取り付けてもらうのだと言うのです。

店で取り付けをしたあと、店員に「ちょっと履いてみて」と言われ、試し履きをした彼女は、「足がグニョって傾く!、初めての感触!」と、大騒ぎで店先を滑り回っていました。

あたりはもう薄暗くなっていました。彼女を送りがてら飲もうと言うことになって、上野から初台まで移動し、彼女が以前バイトしていたと言うショットバーで三人で飲みました。

そうして、店を出るころには時間が遅くなってしまったので、笹塚の彼女の部屋に泊めてもらうことになりました。電車に乗ろうと初台の駅に立つと、ホームにはほとんど人影がありませんでした。

「この駅、ピンク・フロイドみたいで好きなの」
と彼女は言いましたが、「ロックにうとい」僕には意味が分かりませんでした。

笹塚の部屋はお祖母さんの家だと言うことでした。彼女に案内され二階の部屋に上がると、飼っていた猫としばらく遊んで、それから三人で雑魚寝をすることになったのです。

慣れない場所では寝付けないタチの僕は、すぐに寝入ってしまったS君の寝息を聞きながら、うつらうつらしていたのです。

すると深夜になって、左隣りで寝ていた彼女に揺り起こされました。
「スケートしたい。明日まで待てないから」
彼女は耳元でそう言いました。一瞬戸惑いましたが、「わかった」と、スケート靴を抱えて二人で抜け出し、寝静まった真夜中の住宅街を滑ることになったのです。

そのとき僕はスケートを持っていなかったので、彼女が滑る姿を見ながら、声をかけたりしていました。「ストッパーで地面を蹴っちゃダメだ。足をハの字にして・・、ハの字のまま加速して」

すると「こう?」と言って足の格好を見せ、すぐに言った通りのフォームで滑り始めました。彼女は、僕らと普通にキャッチボールが出来るほど、運動神経が良かったのです。

「滑りたいでしょう?。だから一緒に買えば良かったのに・・」
彼女は住宅街の道路を、僕の周囲を、ぐるぐると滑っていました。

街灯の光に見え隠れする彼女の姿を追っていると、僕がつまらなそうに見えたのか、ワザとこちらに突進して来て、笑いながら「危な〜い!」と、両腕を広げ、そのまま僕に抱きついて止まったりしました。

そうしてしばらくすると、彼女は少し離れた場所で立ち止まり、
「ねえ・・」と、両手を差し出しました。
「ねえ、引っ張って!」と、彼女は言うのです。
「坂だから・・」
道路のその先は、少し上り坂になっているように見えました。

近寄って手を握ると、初夏だと言うのに、ビックリするほど冷たい手をしていました。そのせいで、女の子の手に触れた心地よさよりも、"血行が悪いんじゃないのか?" と言う心配の方が先でした。

だから、「あの子、死んじゃった・・」との電話を受けたとき、心臓とか循環器系が原因の「病死」なのだと、咄嗟に思い込んでしまったのです。そして、本当の死因を知らないまま、僕は、その後の37年間を生きることになります。

「引っ張って!」と言われるままに、彼女の両手を握って後ろ向きで歩き始めました。でも、坂を上り切ってしまったら、この手をどうしようか・・、そればかり考えていました。そして微笑む彼女を見ながら、ひとつ考えが浮かびました。

上り切ったかなと思われるあたりで、「スピード出すよ!」と言い、小走りで加速することにしたのです。すると彼女は、強く手を握り返して来ました。そしてヒザを曲げ重心を低くして踏ん張り、「速い!気持ちいい!」と言って笑いました。

「その先、角を右に曲がって!」
彼女の声に後ろを見ると、ブロック塀の先に路地が有りました。そこを勢いよく手を引いて曲がると、スケートの軌道が大きく膨らみました。

「スゴイ!このスケート、曲がりたい方に体重かけるだけで曲る!」
彼女は大はしゃぎでした。その笑い声が、深夜の住宅街には響き過ぎていたので、「声、でかいよ」と言いましたが、彼女は気にしない様子で、
「そのつぎ、左ね!」と言うのです。

土地勘の無い僕は、言われるままに引っ張りました。が、後ろ向きの走りに疲れてしまったので、途中で速度を緩め、ローラー・ゲームのように「そりゃあ!」と、ふざけて彼女を振り飛ばすフリをしたのです。すると彼女は、キャアキャアと笑い転げて、ためらいも無くぎゅっと、僕の腕にしがみ付いて来るのでした。

・・その日の彼女は、スケートを買いに行く時からずっとハイテンションで、はしゃいでいて、楽しそうでした。僕は、目の前の彼女の笑顔が、無邪気にはしゃぐ姿が、忘れられなくなっていました。

まさか、この夜からわずか数年後に、帰らぬ人となってしまうことなど、まったく、想像をすら出来ませんでした。

それから数日後、僕も同じタイプのスケートを購入して、その年の一夏、主に芸大の学食前の広場で、ローラー・スケートをして遊びました。


どのくらいした頃だったか、「都美館(東京都美術館)の裏にスゴくいい道があるよ」と、同級生のK氏に教えてもらったので、二人で滑ってみることにしました。そこでひとしきり滑って休憩していると、芸大から帰る途中だった女性Cさんが通りかかりました。

「こんなとこで?、二人だけで滑ってたんだ?」
と言いながら、Cさんは近づいて来ました。そして縁石に腰掛けて、三人で雑談になりました。

Cさんは普段から、彼女を見かけては、僕のアトリエにやって来て、
「あの子、階段にポツンと座ってつまんなそうにしてたよ。行ってあげたら?」
などと、けしかけるようなことを言う人で、その時も会話の流れにまかせて、
「二人、お似合いだね。つき合っちゃえば!?」
と、焚き付けるのでした。

ところが、その問いにRさんは、思いがけない衝撃の?告白をしたのです。
「あたし・・、ダメなの。婚約してるから・・」

その時なぜか、僕よりCさんの方がショックだったみたいで、えっ!?と言ったきり絶句・・、そうしてしばらくしてから、
「あなた、そう言うこと、なんで最初に言わないの・・」
と、よっぽど僕を哀れに思ったのか、最後は涙声になっていました。

それから女二人は、長いこと話しをしていました。主にCさんが聞き役でしたが、小声だったので、僕にはほとんど聞き取れませんでした。

その翌日から、Rさんは大学に姿を見せなくなり、連絡も取れなくなりました。

僕もじつは、二人でスケートをする様子を心配した何人かから、「Rさん、彼氏いるらしいよ」との忠告を受けていたので、警戒しながら接してはいたのですが、想像以上のダメージを喰らいました。・・ただ納得して、あきらめるしかありませんでした。


ところが、秋口の心地よい風が吹く頃・・
久しぶりに姿を見せた彼女は、何かスッキリしたような表情で、少し微笑みながら言ったのです。
「婚約解消しちゃった・・」

彼女は、毎日規則正しく通学する人ではなかったし、たまに大学に来て二人で食事する時は、学食ではなく、根津の喫茶店などへ行ったりしたので、それからの二人のことは、あまりみんなに知られていなかったようです。

ある日、その食事の席で、「ペルー旅行に行きたい!」とせがまれました。いきなりだったので「いいけど・・」と生返事で答えたのですが、次の瞬間にはもう、下北沢で買い物をする約束になっていました。

ペルー旅行には、アウトドア・グッズが必要だと言うのですが、以前バイトした下北沢のアウトドア専門店に、経験者の店主がいると言うので、そこへ行って、必要な物リストを作ったり、軽くレクチャーを受けたりすることになりました。

そこから慌てて、費用を貯めるためのバイトを始めたりと、準備を続けていたのですが、残念ながら、実現しない内に色々なことが起こってしまったのです。

彼女が婚約解消したとのウワサが流れると、僕以外の何人かの男たちもザワつき始めたのです。が、神経質で、人と争ったり傷つけたりすることを怖れ、それでいてプライドばかり高かったその頃の僕は、彼女が望む、彼らを寄せ付けないような、強くハッキリとした態度に出ることが出来なかったのです。

そのために二人の間がゴチャゴチャになり、疲れ切ってしまった彼女は、ある夜、苛立って言い放ちました。
「ぜんぶ、お前のせいだからな!」

勝ち気で、たまに癇癪を起こすクセが有ると分かっていたはずなのに、僕の気持ちもズタズタで、余裕が無くなっていたんです。その言い方にカチン!と来て、つい言ってしまいました。

「だったら!、・・もう、いいよ」
その一言で、僕たちは離ればなれになりました。



・・それから、何ヶ月もが過ぎました。

あれ以来、会うことも口を聞くことも無くなっていました。ところが、卒業間近になったある日・・。卒業制作の大きな絵を描いていると、突然、彼女が僕のアトリエにやって来たのです。

なに?と、ビックリしていると、彼女は何気ないフリをして話しかけて来るのでした。「絵の調子はどう?」とか、「ここはどうやって描いたの?」とか、・・しかし、会話はすぐに途切れました。

卒業だから、最後の挨拶でもしに来たのか?と僕は思いました。ところが、間が持たなくなって、「そっちはどう?、進んでる?」と言って振り向くと、彼女はどう言うわけか、赤面していたのです。

彼女は、何かを言おうとしていました。顔を赤くしながら、それでも笑顔を作って・・。それは、いつもの、物おじしない彼女からは想像も出来ない姿でした。だから、驚いて言葉を失ってしまったのです。

そして次の瞬間、誰かが来る物音にハッとして、何も言えないまま彼女が出て行ってしまったとき、情けないことに、僕は、足がすくんで追いかけて行けなかったのです。

・・それが、彼女を見た最後でした。
卒業してから、3年後に亡くなるまでのことは何も知りません。


かつて、彼女の葬儀の日、仕事の合間をぬって急ぎ駆けつけたのですが、CG会社で休日返上で働いていたため、挨拶もそこそこに戻らねばらなず、結果、何も事情を聞けないまま、あっという間に歳月が流れて行きました。その間に、僕も人並みに結婚をし、また離婚もし・・

そうして、彼女が亡くなってから37年・・彼女の本当の死因を聞かされたのはごく最近のことなのです。2022年2月9日、こちらも葬儀以来37年ぶりに再会した芸大同期の女性、Nさんの展示会を観に行った時のことでした。

Nさんから聞いた彼女の死因は、僕が勝手に思い込んでいた「病死」ではありませんでした。あえて言葉を選ぶならば「無念の死」・・

病死なら、どうにもならない不可抗力だと思っていました。しかし、それは・・、ほんの少しの違いで、救えたかも知れない命でした。卒業後1〜2年間の、「時間の流れ」さえ強引に変えてしまえば、やがて訪れる3年後のその日は、違う未来になっていたかも知れないからです。

たとえば?
卒業間近のあの日、僕が、彼女を追いかけていたなら?
何も言わず、うつむいたまま、アトリエを出ていく彼女の後ろ姿・・・


彼女と知り合い接していたのは、大学のわずか4年間、いや、実質的にはもっと短い2年半くらいでしょうか。にもかかわらず、亡くなって37年も過ぎてから、なぜか僕の夢に現れるようになり・・

そしてそれが始まったのが、一人残された彼女の母親が亡くなった時期と、ほぼシンクロしていたと言うこと。

「お母様も亡くなられたおり、
 故人をご存知の高橋様が墓参りされることは、
 何かの導きのように思えます」

これは、彼女の母親が通っていた、教会の牧師様のお言葉です。
もし、このお言葉通り、彼女の魂の遠い記憶、想いが、時を経て、他の誰でもない僕に届いたのだとすれば、僕はその「想い」を大切にせずにはいられないのです。

彼女の母親が亡くなって、とうとう親子三人がいなくなり、やがて人々が、その家族がいたことさえ忘れかけたとき・・、もし僕が語らなければ、永遠に消えてしまう「想い」があるのなら・・

僕が覚えている2年半の中で、
「一番楽しそうに、はしゃいでいた日のことを伝えよう」

そう思い、64歳になって、あちこちガタの来たオジサンが、未練たっぷりに?書いてみました。これは40年以上も昔々の、古き昭和と呼ばれた時代の、たわいもない、「真夜中のローラー・スケート」のお話しです。



おしまい



  ごめんね、R

コメント

このブログの人気の投稿

クローン人間

★クローン人間のことが話題になると、その是非とは別に気になることがあります。キャプテン高橋は少年のころ友人たちと心霊研究をしていたことがあるのですが、そのときの知識に照らし合わせてみると、クローン人間とはどんなモノになるのか、とても興味があるのです。 まず普通の人々はクローン人間を、「肉体の DNA 的複製」とだけ考えがちですが、心霊的に見ればそれだけでは不完全で、その肉体に宿っている霊魂の方が人間の本体なのですから、霊魂まで複製しなければ完全なクローンとは言えないと言うことになります。 では、霊魂と言うのは、複製できるものなのでしょうか?  「複製」と言う概念からは外れるかも知れませんが、霊魂が分裂することはあります。たとえば一番分かりやすいのは「一卵性双生児」です。これはご存知のように、受精した一つの卵子が子宮内で二つに分かれ、二人の人間として生まれてくることですが、この時、同時に霊魂も二つに分かれます。 つまり本来一人の霊魂だったものが、二つの肉体に宿って生まれて来ると言うことになるわけで、我々が考える「クローン人間」に一番近い形と言うことになるかと思います。 逆に、複数の霊魂が合体することもあるようです。と言うより、ほとんどの人が、複数の霊魂が集まって一人の人間として生まれ変わって来ている、のだそうです。だから、一人の人間の中に、一言では表現しきれないようなたくさんの性格、性癖、本人にも分からない奥底の感情など、複雑な意識がうごめいているわけです。 ところが、その複数の人格が完全に統合されていない幼児期に、あまりにひどい虐待を受けたりすると、そのショックで統合に失敗し、人格がバラバラになったままになる「多重人格症」と言う精神病になってしまうわけです。 これは性格が入れ替わってしまうだけでなく、名前や生まれ育った場所、経験したことまで言い分けると言う特徴があります。心理学的には「創作された人格」だと言われていますが、海外では、副人格の言ったとおりの場所にその人の墓があった、なんて症例まで確認されているようです。 まあ、そんな病的ではないにしても、自分の中に、人には言えないような凶暴な性格が潜んでいて人知れず悩んでいたり、酒を飲むと突然人が変わってしまったり、それを翌朝には完全に忘れていたりなど、本来の自分ではない...

天神様と稲妻

★私の母にまつわる怪異現象?について、これまでもいくつか書きました。その中でも一番印象に残る話しとしては、天神様と呼ばれる山の上の神社で起こった落雷の話しだったと想うのですが、その後、母から聞き直してみたところ、いくつか実際と異なる部分があると分かりました。幼いころ何度も聞かされ、しっかり覚えていると思い込んでいたのですが、細かい部分で記憶違いがあることが判明したのです。なので、それを訂正したものをもう一回アップしたいと想います。 私の母は雷を異常に怖がります。雷が鳴りはじめると部屋に閉じこもり、何もしなくなってしまうくらいなのです。もちろんそれには、そうなるだけの理由、今で言う「トラウマ」となる出来事がありました。 私の母は昭和一桁生まれで、秋田県大仙市(当時の大曲)の小さな村で育ちました。が、小さいながら、当時は子供たちのたくさんいる活気に満ちた所だったとのことです。その村の中心には、天神様と呼ばれる山が有り、二百段ほどの石段を登ると、頂上には神社が有って、境内は十数人の子供が走り回って遊べるだけの小さな広場になっていました。(私も子供の頃、里帰りする母に連れられ何度も登ったことが有ります) その日、母は遊び友達の女の子と二人、天神様に向かって階段をかけ昇っていました。冬は雪に閉ざされ登れません。これは夏の良く晴れた日の出来事なのです。以前書いた時は、この時の母は10歳以下と思い込んでいたのですが、どうやらもう少し年上の、12〜13歳くらいだったようです。 途中母は、その友だちにいたずら話を持ちかけられました。昔から村の大人たちに絶対に見てはいけないと言われている、天神様の御神体を見てしまおうと言うのです。私の母は、そんなおっかねえことはやめようと、しきりに説得したのですが、相手の女の子は聞く耳を持ちません。 頂上に着くと、すでに授業を終えた小学生から中学生くらいの子供たちが遊んでいました。その中には母の弟(私の叔父)もいて、一緒に遊んでいたそうです。つまりこれは、子供ながら複数の目撃者がいた現象だったと言うことなのです。 その友だちは、神社に着くなり、尻込みする母の手を引っ張って社の階段を上って行くのでした。そうして引き止める母の声も聞かず、ほこりにまみれた扉を開け、御神体が祭られているはずの、奥の戸を開けてしまったのです。・・が、そこには、古びた丸い鏡が置か...

タイヤが危なかった

★「ぶんぶん戦」に行く途中、後輪からカツンカツンと言う異音がするので見てみたら、タイヤがブレーキシューに当たっていました。 で、てっきり自分の体重や荷物の重さで、ホイールが歪んだと思っていたのですが、試合後、更衣室の前で点検してみたら、原因はホイールでは有りませんでした。 タイヤがすり減って、その薄くなった部分をチューブが押し上げ、盛り上がっていたのです。しかも試合前と比べると、さらに膨れ具合が増しているようなのです(ちょっと分かりづらいですが、写真のようになっていました)。 これは非常に危険な状態なんですね。以前所有していた自転車も、同じような兆候から、走行中に大きな破裂音と共にバーストしたことが有ったんです。 もしこれもバーストしたら光が丘から家まで10kmくらい歩くことになるので、それは避けなければと、苦肉の策に出ました。ギリギリまで空気を抜いて、12〜13kmのゆっくりした速度で走るようにしたのです。 その状態で乗ってみると、後輪がグニョグニョと左右に揺れるので、けっこうアセりました。でもまあ、女子高生やオバさんたちに抜かれながらも、何とか保たせて無事帰宅することが出来ました。 もちろん新しいタイヤを購入しなければならないのですが、今日はとりあえず、古いタイヤに取り替えてみました。この自転車に純正で装着されていたのは「700×38C」と言うサイズで、分かる人は分かると思いますが、マウンテンバイク並みの太いタイヤなのです。仮装着したスペアタイヤは「700×35C」で、町乗り用のクロスバイクに標準で付いているサイズです(ママチャリくらいの太さかな?)。 これが何と、カッコワルいんですよね。デザイン的にバランスが取れないんです。泥よけとの間がスカスカになってるし、非常にカッコワルい。次に替える時は長距離走行を考慮し、やや細めの「700×35C」くらいにしようと思っていたのですが、これはダメそうです。 ようするに、この自転車のデザインが「700×38C」を想定して設計されていたと言うことなんです。まあ太い分、乗り心地はいいんですけどね。それと歩道などの段差を乗り越えるとき、リム打ちすることもなく安心できます(チューブを傷めパンクの原因になる)。 ともあれ、交換用の新しいパーツを探すと言うのも自転車の楽しみの一つなので、劣化して来た...

草野球の転換期

★僕は、草野球の試合では、主にセンターを守ることが多いのですが、たまに仲間から「守備位置が深いのでは?」とクレームが来ることが有ります。時折り、捕れそうな浅いフライに追いつけず、前に落としてしまう光景なんかを見ると、そう思うのかも知れません。(個人的には内野のあきらめが早すぎると想ってますが・・) まあ確かに、昔より足も遅くなって、追いつけない当たりも増えて来たとは思いますが、ただ、この「センターの守備位置」と言うのは、約20年間、およそ350試合に渡る(守備機会数までは分からないが)、僕の草野球経験から割り出した「絶妙な?守備位置」なのであって、簡単に「ちょっと深いんじゃない?」と言われても、なかなか動かしがたいものなんです。 これまでの経験から言うと、実は、草野球の外野の守備位置には「三度の転換期」が有りました。一つは「ビヨンドマックスの登場」。もう一つは「新軟球登場」。そして「イチローのメジャー移籍」です。 まず「ビヨンドマックス」などの登場で、打球の質が変わったこと。ただ、ビヨンドの売りである「飛距離の伸び」の印象は少なくて、それより打球が、フックやスライスなど変化を起こしやすくなったことの方が、捕りにくくてショックでした。ウレタンなど、バット面の摩擦増大によって、ボールのスピンが強烈になったのが原因だと思われます。 次に「新軟球の登場」。これによって、打球の放物線の形が変わりました。「旧軟球」では、打球が放物線の頂点に達したあと、空気抵抗のため急激に勢いを失い、そのまま尻すぼみで下に落ちて来ていました。ところが「新軟球」では空気抵抗が少ない分、きれいな放物線を描くようになり、飛距離が伸びました。なので旧軟球のイメージのままで追って行くと、5m~10m頭を超されてしまうのです。 ですが、人間の感覚と言うのは不思議なもので、いつの間にか慣れてしまうものなんですね。直後はあまりの変化に、「もうオレは外野は守れない」なんて弱気になったりしたのですが、今ではごく普通に捕球しており、「なんであんなに戸惑ったんだったんだろう」なんて、不思議に思い出したりするのです。 前者の二つは道具による物理的な変化でしたが、「イチロー選手のメジャー移籍」は、草野球のセオリーそのものを変えました。それまでの草野球のバッターは「引っ張る」...

映像記憶力について

★先日のシュガー戦終了後、相手のH投手が、アンディ選手と女子選手の安田さんに向かって、「オレから打った初ヒット、おめでとう!」と言ってました。 しかし、アンディ選手は確かに初ヒットなのですが、僕の記憶によれば、安田選手は、すでにH投手から4本は確実に打っているはずなのです。だから、なぜ初ヒットだと思い違いしたんだろうと不思議に思ったのです。非力な女子選手だから抑えて当然、と思い込んでいたのでしょうか。 シュガー戦での安田選手のヒットを振り返ってみると、まず一番分かりやすい1本は、ゴブリンズのDVDにも収録している、4年前に光が丘でシュガーに勝った試合です。ここでH投手から逆転打となるタイムリーを打ってます。 さらに、ゴブリンズが復活した直後、KONOリーグに1年間参加しまして、その時のシュガー戦でH投手に二安打完封されたことが有りました。この僅か2本のヒットのうち、1本が安田選手、もう1本が僕のヒットだったのです。 3本目は2005年の試合で、開始直前に新間投手が「肩が出来てないから先攻を選んでくれ」と慌てて言って来たので印象に残っているのですが、この試合で打ってます。残念ながらジャンケンに負け後攻になり、打ち込まれてしまったゲームでしたが、この試合では、H投手からレフト前に強烈なライナーでヒットを打っています。これまでで一番いい当たりだったと思います。これが3本目。そして今回の一本杉公園でのヒットで、計4本ですね。 WEBスコアブックの「SUGARー通算記録」で検索してみると、安田選手はシュガー戦で計5本打ってますから、なんと、この内4本が同じH投手からと言うことになります。つまり初ヒットどころか、H投手を得意としているバッターと言ってもいいくらいなのです。 なのに、人の記憶と言うのは曖昧なものなんですね。H投手だけでなく、その当人の安田選手さえもが、ヒットを打った記憶が無いと言うんです。 なんて言うと、二人をバカにしているみたいですが、そうじゃなくて、他のメンバーの記憶もだいたいこんなモンなんです。かといって、決して僕の記憶力が優れていると言いいたいわけでもないのです。むしろ記憶力は悪い方です。そのせいで学校の成績が上がらず非常に苦労して来たんですから。 それにメンバーは良く知っているはずですが、暗算もほぼ出来ません。暗算も記憶力...

ウルトラマン・科学特捜隊の「流星ピンバッジ」

★楽天で、期間限定の500ポイントをもらいまして、そのまま期限切れで消えてしまうのも惜しいし、かと言って、ちょっと中途半端な数だし・・と考えて、これが有ったのを思い出しました。 「科学特捜隊・流星ピンバッジ」。900円なので、ポイントにちょっと足せば、ちょうどいい値段で買えます。 「初代ウルトラマン」に登場する科学特捜隊が胸に付けていて、ドラマの設定では、アンテナを伸ばせば、メンバーどうし無線通信が可能なのです。 小学生の目にはとにかくカッコ良く見えて憧れました。厚紙に絵を描いて切り抜き、胸に付けて遊んだりしたのですが、アンテナの伸び縮みだけは再現できず、余計に思いはつのりました。 ウルトラマン・科学特捜隊の「流星ピンバッジ」いま手にしても楽しいですが、あの頃にこれが有ったなら、どんなに嬉しかっただろうかと思います。 ・・そう言えば、ウルトラマンの最終回は衝撃的でした。中学1年になって、夕方の時間帯に再放送が行われると、ビデオの無いあの時代、どうしても最終回が見たくて、野球部の友人二人と練習をサボって大急ぎで帰宅したものです。そんなことも思い出しました。 バッジの裏はこんな感じになっています。洋服に刺して、生地の裏から止めるようになっています。 使い道としては、ネクタイピンにしようかなんて考えています。これまではだいたい、クーパースタウンで購入した「ベースボールバッジ」を刺してましたが、これも中々面白いと思います。(でもやはり左胸に刺さないとダメだろうか?) ふと思いついて、「ユザワヤ」で買っておいた100円のケースに入れてみました。小さなアート作品を入れるつもりの箱でしたが、こんな感じで保存するのも中々イケる気がしました。 ◎【楽天市場】ウルトラマンショップ SHOT M78  

不二家のケーキ

★すでにご存知だとは思いますが、不二家が大変なことになってます。 で、ふと気になったことがあるのです。これは、こう言う事件が起きなければ書くことは無かった話しですが、じつは、もう何年も前から、「どうも不二家は今イチ美味しくない」と言うのが理由で、不二家のケーキ類は買わなくなっていたのです。ケーキが必要になった時は、他のメーカーか、自家製ケーキ屋さんで買うようになっていました。 では、何処が美味しくないのかと言うと、まあ、全体的な味はもちろんなんですが、ケーキで一番肝心な、しっとりフワフワしていなければならないはずの「スポンジ」が、カサカサと乾いてかたいのです。で、クリームのところだけ食べてスポンジは捨ててしまう、なんてもったいないことも何度かありました。 ずっとこれは技術的な問題なのだと思っていて、「不二家はケーキ作りがヘタだ」と思っていたわけですが、今回の「賞味(消費?)期限事件」が起きてからは、「ひょっとするとあのスポンジも、出来てからかなり日が経っていたのかも知れない」と疑うようになりました。 いくらなんでも、出来立てのケーキがあんなにパサパサしてるなんておかしいですよね。 同時に、それに気づいた自分の味覚をもっと信じてもいいのかな、とも思うようになりました。ブランドに惑わされず、「おかしいな・・」と思ったら買わないようにした方がいいのかも知れません。 じつは、不二家以外でも、どうも味がおかしい、あるいは最近おかしくなって来た、と感じる大手メーカーがいくつかあるのですが、少し自分を信じて、買い控えしようかと思います。 もちろんブログで名指しは出来ません。名誉毀損になりかねませんからね。   

自転車のライトにLED10連発!

★ホームセンター「ビッグサム新座店」で手ごろなライトを見つけました。LED5発でしかも安い!「税込み¥980」でした。自転車用でLED5発だと¥3000以上すると思います。 いわゆる「懐中電灯」なのですが、うまくすれば自転車にも使えそうです。メーカーは「マクサー電機」と言うところで、残念ながらあまり聞いたことは有りません。が、分解してみたところ作りはけっこうしっかりしていました。 ボディはいっぱしのアルミ製、ゴムのパッキンが付いていて、生意気にも生活防水になっているようです。レンズが集光ではなく普通の透明アクリルで、光が初期LEDの青白い色と言うのが今イチなのですが、それでも5連発はそれなりの明るさがあります。 それと自転車専用でないと振動に弱いものですが、叩いたり落としたりしてみたところ振動にも強そうです。 ◆マクサー電機 じつは、自転車のライトにはみんな苦労してまして「明るくて電池の寿命が長い理想的なライト」を求めて、何個も買い替えると言う人が多いんです。それだけ自転車で長距離を走る人にとって「安全確保」と言うのは重要な課題なんですね。 世の中には無灯火で走る人も多いですが、あれはまったく理解できない話しです。できるならオートバイみたいに明るいライトが欲しい!って考えているくらいなんですから。 で、僕 は思い立ちました。「このマクサーライトはそこそこ明るいし振動にも強い、しかも安い! ならばもう一本買って、ダブルマクサーライトLED10連発!にしてみようではないか!!」と・・ それがこれです。自転車用ではないので取り付けるホルダーがありません。そこでベルクロテープを使う「バイクライトホルダー」2個を購入し、それで固定してみました。ちょっと外観は野暮ったい感じですが、明るさは段違いに良くなりました。 「見た目よりも安全確保」がスローガンですから、これはこれでいいと思います。ただ付けっぱなしにしておくと盗難やイタズラの対象になりそうなので、普段は普通のライトで、ゴブリンズのナイターの帰りとか、ここぞと言う場面に取り付けて使用することにしましょう。 かかった費用。 ライト代 :980×2=1960 ホルダー代:525×2=1050 送料   :200 合計   :3210   

入間市博物館へ行った

★12月21日の水曜日、友人が20日〜25日まで「入間市博物館」でグループ展「絵画の今・2005」をやると言うので、自転車で行って来ました。 入間市博物館は、数年前ポタリング(自転車の散歩)に出かけたとき横を通りかかったことが有って、その時は入らなかったのですが、場所はだいだい分かると思って、地図も持たずに気楽な気持で出発しました。 ところがこれが失敗でした。自宅を出て1時間も走ると、写真のような農業地域になります。特にこの辺りは「狭山茶」で有名で、お茶畑もこの通りちゃんとあるのです。寒い日でしたが天気は上々で、非常に気分よく走っておりました。 で、調子に乗ってあちこち細い道など選んで楽しんでいるうちに、気が付くと完全に道に迷っていたのです。 それでもまあ、いざとなれば幹線道路に出て道路標示など見れば、だいたいの位置は分かると楽観していたのですが、かなり入り組んだ道を進み、思わぬところから大通りに抜けたりしていたので、以前来た時の記憶からは、博物館の場所を特定することが出来なくなっていました。 しかも新築の家がたくさん出来ていたり、巨大な工業団地が立ちふさがったりして、ほとんど見覚えがありません。けっきょく30〜40分くらいあちこち走り回ったあげく、目標物のひとつである「大妻女子大」と言う大学に出くわし、だいたいの位置をつかむことが出来ました。 そこからは変わった校舎で印象に残っていた「東野高校(写真右)」がすぐ見つかり、その隣にある博物館もようやく見つかりました。家からは片道約18kmで1時間半ほどなのですが、道に迷った分時間はかかってます。 「入間市博物館」は建物も立派で展示室も大きく、なかなか充実した展覧会でした。作品はみんな150号200号と言う大作ばかりで見応えがあります。展示室の様子をお見せできないのが残念ですが、実物はぜひ来館して見物してください(25日まで)。 招待してくれた友人の加藤氏と再会、話しをしながら1時間ほどいたでしょうか、日が傾いて来ると一気に寒くなるので、間もなく失礼することにしました。 ◆入間市博物館 帰りは当然のことながら行きよりも時間がかかりました。しかも性懲りも無く、好んで「見知らぬ道」を選んで進むため、またもや道に迷ってしまいます。何処とも知れぬ水路脇の道に出ました。 写真を撮っておこう...

「岬」をネット検索してみる

★むかしむかし、ゴブリンズメンバーのN君などと、インライン スケートでのロングツーリングをやっていた時期がありました。真夏の炎天下をインラインスケートで数日間(100km以上)滑り続けて旅をすると言う無棒?な行為です。 あの頃は「インターネット」はまだ普及しておらず、ゴブリンズの試合結果やいろんなエピソードなどは、全部ワープロで打って、コピーして製本して郵送する、と言う大変なことをやっていました。「ブレード走行記」もその一つです。 そのころ書いたもので「南房総に夏の終わりの夢を見た」「幻のBOSO100マイル」と言う二つの読み物があるのですが、その旅の途上で偶然立ち寄った「岬」と言う喫茶店で、面白いエピソードがありました。そのことをふと思い出しまして、その「岬」をインターネットで何気なく検索してみたら、出て来ました。そこそこの観光ポイントになってるんでしょうか。 (その後、喫茶・岬を舞台にした映画が作られました) 店そのもののホームページではありませんが、まだまだ健在でやっているようです。写真もいくつかありましたが、「こう言う建物だったかなあ?」と思うくらい記憶があやふやになってましたね。ただ色に関しては、我々が訪れた時とは確かに違っていました。壁のペンキを塗り替えたんでしょう。 今だったらこんな風にして、あのころ訪れた場所や宿などを、ネットで検索できるんですね。可能な限りリンクさせたら、ちょっとした観光案内が作れるかも知れないです。・・それにしても、毎年夏になると思い出してしまいます。 古いメンバーがいたころの話しなので知らない人も多いでしょうが、もし興味があったら、走行記も含めて参照してみてください。 ◎「岬」ネット情報 ◎ブレード走行記「南房総に夏の終わりの夢を見た」 ◎ブレード走行記「幻のBOSO100マイル」