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7「回想,真夜中のローラー・スケート」

前回までのお話し → 「37年越しの・・、墓参り」
Index「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」


東京芸術大学 1979年〜1982年
美術学部絵画科 油画アトリエ・・


芸大同期の女子、Rさんとの初めての会話は、とても唐突でした。
「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」

それまで、挨拶しかしたことの無かった女の子が、ある日、大学の、僕がいるアトリエにやって来て、いきなり重たい紙袋を手渡してそう言ったのです。中を見ると、10数枚のLPレコードが入っていました。「ジミ・ヘンドリックス」「エアロスミス」「ジャニス・ジョップリン」などなど、ロックの名盤ばかりでした。

この前日、大学の友人たちとアトリエ前の階段に座って雑談し、「ロックバンドを作ろうぜ!」と言う話しになったのです。とりあえず僕はギターが弾けるので誘われたのですが、弾くのはアコースティックギターで、フォークソング派でした。

それで、「オレ・・、ロックは良くわからんな」と、弱気な発言をしていたら、次の日になって、小柄な彼女が重たい紙袋を抱えてやって来たのです。

「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」
「全部って・・、ええっ?、貰っていいの?」

彼女が、僕らの雑談を傍らで聞いていたことは知っていました。が、突然レコードの束を渡されるとは思いませんでした。

「あげるよ。この辺はもう聴かないから。いま凝ってるのは達郎だから」
「タ、ツ、ロ、ウ・・?」
「山下達郎、知らないの?。それなら、今度テープに録ってあげるよ」

・・それが、僕たちの会話の始まりでした。


それから少しずつ話しをするようになり、「ローラー・スケート」が共通の趣味だと言うことも分かって来ました。そして当時、発売されたばかりの新型ローラー・スケートの話題になりました。フレームにエラストマー素材を噛ませ、サスペンション構造になった物がアメ横で売られていると言うのです。(スケボーと同じ構造です)

「じゃあ、今度それ買って、いっしょに滑ろうか?」
と、盛り上がりました。しかし子供の玩具とは違い、数万円する代物だったので、買うとなると、それなりの思い切りが必要でした。

それからどのくらい経ったのか、季節は確か初夏のころ、浪人時代からの友人S君が僕のところへやって来ました。「Rさんがローラー・スケート買いに行くって言ってるけど、一緒にいかない?」と言うのです。

なぜS君経由だったのかは知りませんが、ともかく彼女とS君と三人で、アメ横の「ムラサキスポーツ」まで、スケートを買いに行くことになりました。彼女はアイス・スケート用のブーツを持参していました。それに新型ローラー・スケートのフレームを取り付けてもらうのだと言うのです。

店で取り付けをしたあと、店員に「ちょっと履いてみて」と言われ、試し履きをした彼女は、「足がグニョって傾く!、初めての感触!」と、大騒ぎで店先を滑り回っていました。

あたりはもう薄暗くなっていました。彼女を送りがてら飲もうと言うことになって、上野から初台まで移動し、彼女が以前バイトしていたと言うショットバーで三人で飲みました。

そうして、店を出るころには時間が遅くなってしまったので、笹塚の彼女の部屋に泊めてもらうことになりました。電車に乗ろうと初台の駅に立つと、ホームにはほとんど人影がありませんでした。

「この駅、ピンク・フロイドみたいで好きなの」
と彼女は言いましたが、「ロックにうとい」僕には意味が分かりませんでした。

笹塚の部屋はお祖母さんの家だと言うことでした。彼女に案内され二階の部屋に上がると、飼っていた猫としばらく遊んで、それから三人で雑魚寝をすることになったのです。

慣れない場所では寝付けないタチの僕は、すぐに寝入ってしまったS君の寝息を聞きながら、うつらうつらしていたのです。

すると深夜になって、左隣りで寝ていた彼女に揺り起こされました。
「スケートしたい。明日まで待てないから」
彼女は耳元でそう言いました。一瞬戸惑いましたが、「わかった」と、スケート靴を抱えて二人で抜け出し、寝静まった真夜中の住宅街を滑ることになったのです。

そのとき僕はスケートを持っていなかったので、彼女が滑る姿を見ながら、声をかけたりしていました。「ストッパーで地面を蹴っちゃダメだ。足をハの字にして・・、ハの字のまま加速して」

すると「こう?」と言って足の格好を見せ、すぐに言った通りのフォームで滑り始めました。彼女は、僕らと普通にキャッチボールが出来るほど、運動神経が良かったのです。

「滑りたいでしょう?。だから一緒に買えば良かったのに・・」
彼女は住宅街の道路を、僕の周囲を、ぐるぐると滑っていました。

街灯の光に見え隠れする彼女の姿を追っていると、僕がつまらなそうに見えたのか、ワザとこちらに突進して来て、笑いながら「危な〜い!」と、両腕を広げ、そのまま僕に抱きついて止まったりしました。

そうしてしばらくすると、彼女は少し離れた場所で立ち止まり、
「ねえ・・」と、両手を差し出しました。
「ねえ、引っ張って!」と、彼女は言うのです。
「坂だから・・」
道路のその先は、少し上り坂になっているように見えました。

近寄って手を握ると、初夏だと言うのに、ビックリするほど冷たい手をしていました。そのせいで、女の子の手に触れた心地よさよりも、"血行が悪いんじゃないのか?" と言う心配の方が先でした。

だから、「あの子、死んじゃった・・」との電話を受けたとき、心臓とか循環器系が原因の「病死」なのだと、咄嗟に思い込んでしまったのです。そして、本当の死因を知らないまま、僕は、その後の37年間を生きることになります。

「引っ張って!」と言われるままに、彼女の両手を握って後ろ向きで歩き始めました。でも、坂を上り切ってしまったら、この手をどうしようか・・、そればかり考えていました。そして微笑む彼女を見ながら、ひとつ考えが浮かびました。

上り切ったかなと思われるあたりで、「スピード出すよ!」と言い、小走りで加速することにしたのです。すると彼女は、強く手を握り返して来ました。そしてヒザを曲げ重心を低くして踏ん張り、「速い!気持ちいい!」と言って笑いました。

「その先、角を右に曲がって!」
彼女の声に後ろを見ると、ブロック塀の先に路地が有りました。そこを勢いよく手を引いて曲がると、スケートの軌道が大きく膨らみました。

「スゴイ!このスケート、曲がりたい方に体重かけるだけで曲る!」
彼女は大はしゃぎでした。その笑い声が、深夜の住宅街には響き過ぎていたので、「声、でかいよ」と言いましたが、彼女は気にしない様子で、
「そのつぎ、左ね!」と言うのです。

土地勘の無い僕は、言われるままに引っ張りました。が、後ろ向きの走りに疲れてしまったので、途中で速度を緩め、ローラー・ゲームのように「そりゃあ!」と、ふざけて彼女を振り飛ばすフリをしたのです。すると彼女は、キャアキャアと笑い転げて、ためらいも無くぎゅっと、僕の腕にしがみ付いて来るのでした。

・・その日の彼女は、スケートを買いに行く時からずっとハイテンションで、はしゃいでいて、楽しそうでした。僕は、目の前の彼女の笑顔が、無邪気にはしゃぐ姿が、忘れられなくなっていました。

まさか、この夜からわずか数年後に、帰らぬ人となってしまうことなど、まったく、想像をすら出来ませんでした。

それから数日後、僕も同じタイプのスケートを購入して、その年の一夏、主に芸大の学食前の広場で、ローラー・スケートをして遊びました。


どのくらいした頃だったか、「都美館(東京都美術館)の裏にスゴくいい道があるよ」と、同級生のK氏に教えてもらったので、二人で滑ってみることにしました。そこでひとしきり滑って休憩していると、芸大から帰る途中だった女性Cさんが通りかかりました。

「こんなとこで?、二人だけで滑ってたんだ?」
と言いながら、Cさんは近づいて来ました。そして縁石に腰掛けて、三人で雑談になりました。

Cさんは普段から、彼女を見かけては、僕のアトリエにやって来て、
「あの子、階段にポツンと座ってつまんなそうにしてたよ。行ってあげたら?」
などと、けしかけるようなことを言う人で、その時も会話の流れにまかせて、
「二人、お似合いだね。つき合っちゃえば!?」
と、焚き付けるのでした。

ところが、その問いにRさんは、思いがけない衝撃の?告白をしたのです。
「あたし・・、ダメなの。婚約してるから・・」

その時なぜか、僕よりCさんの方がショックだったみたいで、えっ!?と言ったきり絶句・・、そうしてしばらくしてから、
「あなた、そう言うこと、なんで最初に言わないの・・」
と、よっぽど僕を哀れに思ったのか、最後は涙声になっていました。

それから女二人は、長いこと話しをしていました。主にCさんが聞き役でしたが、小声だったので、僕にはほとんど聞き取れませんでした。

その翌日から、Rさんは大学に姿を見せなくなり、連絡も取れなくなりました。

僕もじつは、二人でスケートをする様子を心配した何人かから、「Rさん、彼氏いるらしいよ」との忠告を受けていたので、警戒しながら接してはいたのですが、想像以上のダメージを喰らいました。・・ただ納得して、あきらめるしかありませんでした。


ところが、秋口の心地よい風が吹く頃・・
久しぶりに姿を見せた彼女は、何かスッキリしたような表情で、少し微笑みながら言ったのです。
「婚約解消しちゃった・・」

彼女は、毎日規則正しく通学する人ではなかったし、たまに大学に来て二人で食事する時は、学食ではなく、根津の喫茶店などへ行ったりしたので、それからの二人のことは、あまりみんなに知られていなかったようです。

ある日、その食事の席で、「ペルー旅行に行きたい!」とせがまれました。いきなりだったので「いいけど・・」と生返事で答えたのですが、次の瞬間にはもう、下北沢で買い物をする約束になっていました。

ペルー旅行には、アウトドア・グッズが必要だと言うのですが、以前バイトした下北沢のアウトドア専門店に、経験者の店主がいると言うので、そこへ行って、必要な物リストを作ったり、軽くレクチャーを受けたりすることになりました。

そこから慌てて、費用を貯めるためのバイトを始めたりと、準備を続けていたのですが、残念ながら、実現しない内に色々なことが起こってしまったのです。

彼女が婚約解消したとのウワサが流れると、僕以外の何人かの男たちもザワつき始めたのです。が、神経質で、人と争ったり傷つけたりすることを怖れ、それでいてプライドばかり高かったその頃の僕は、彼女が望む、彼らを寄せ付けないような、強くハッキリとした態度に出ることが出来なかったのです。

そのために二人の間がゴチャゴチャになり、疲れ切ってしまった彼女は、ある夜、苛立って言い放ちました。
「ぜんぶ、お前のせいだからな!」

勝ち気で、たまに癇癪を起こすクセが有ると分かっていたはずなのに、僕の気持ちもズタズタで、余裕が無くなっていたんです。その言い方にカチン!と来て、つい言ってしまいました。

「だったら!、・・もう、いいよ」
その一言で、僕たちは離ればなれになりました。



・・それから、何ヶ月もが過ぎました。

あれ以来、会うことも口を聞くことも無くなっていました。ところが、卒業間近になったある日・・。卒業制作の大きな絵を描いていると、突然、彼女が僕のアトリエにやって来たのです。

なに?と、ビックリしていると、彼女は何気ないフリをして話しかけて来るのでした。「絵の調子はどう?」とか、「ここはどうやって描いたの?」とか、・・しかし、会話はすぐに途切れました。

卒業だから、最後の挨拶でもしに来たのか?と僕は思いました。ところが、間が持たなくなって、「そっちはどう?、進んでる?」と言って振り向くと、彼女はどう言うわけか、赤面していたのです。

彼女は、何かを言おうとしていました。顔を赤くしながら、それでも笑顔を作って・・。それは、いつもの、物おじしない彼女からは想像も出来ない姿でした。だから、驚いて言葉を失ってしまったのです。

そして次の瞬間、誰かが来る物音にハッとして、何も言えないまま彼女が出て行ってしまったとき、情けないことに、僕は、足がすくんで追いかけて行けなかったのです。

・・それが、彼女を見た最後でした。
卒業してから、3年後に亡くなるまでのことは何も知りません。

*

かつて、彼女の葬儀の日、仕事の合間をぬって急ぎ駆けつけたのですが、CG会社で休日返上で働いていたため、挨拶もそこそこに戻らねばらなず、結果、何も事情を聞けないまま、あっという間に歳月が流れて行きました。その間に、僕も人並みに結婚をし、また離婚もし・・

そうして、彼女が亡くなってから37年・・彼女の本当の死因を聞かされたのはごく最近のことなのです。2022年2月9日、こちらも葬儀以来37年ぶりに再会した芸大同期の女性、Nさんの展示会を観に行った時のことでした。

Nさんから聞いた彼女の死因は、僕が勝手に思い込んでいた「病死」ではありませんでした。あえて言葉を選ぶならば「無念の死」・・

病死なら、どうにもならない不可抗力だと思っていました。しかし、それは・・、ほんの少しの違いで、救えたかも知れない命でした。卒業後1〜2年間の、「時間の流れ」さえ強引に変えてしまえば、やがて訪れる3年後のその日は、違う未来になっていたかも知れないからです。

たとえば?
卒業間近のあの日、僕が、彼女を追いかけていたなら?
何も言わず、うつむいたまま、アトリエを出ていく彼女の後ろ姿・・・


彼女と知り合い接していたのは、大学のわずか4年間、いや、実質的にはもっと短い2年半くらいでしょうか。にもかかわらず、亡くなって37年も過ぎてから、なぜか僕の夢に現れるようになり・・

そしてそれが始まったのが、一人残された彼女の母親が亡くなった時期と、ほぼシンクロしていたと言うこと。

「お母様も亡くなられたおり、
 故人をご存知の高橋様が墓参りされることは、
 何かの導きのように思えます」

これは、彼女の母親が通っていた、教会の牧師様のお言葉です。
もし、このお言葉通り、彼女の魂の遠い記憶、想いが、時を経て、他の誰でもない僕に届いたのだとすれば、僕はその「想い」を大切にせずにはいられないのです。

彼女の母親が亡くなって、とうとう親子三人がいなくなり、やがて人々が、その家族がいたことさえ忘れかけたとき・・、もし僕が語らなければ、永遠に消えてしまう「想い」があるのなら・・

僕が覚えている2年半の中で、
「一番楽しそうに、はしゃいでいた日のことを伝えよう」

そう思い、64歳になって、あちこちガタの来たオジサンが、未練たっぷりに?書いてみました。これは40年以上も昔々の、古き昭和と呼ばれた時代の、たわいもない、「真夜中のローラー・スケート」のお話しです。



おしまい



  ごめんね、R

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