スキップしてメイン コンテンツに移動

1「土手の上で、夢の中の約束」



2021年の春頃、僕は一つの夢を見ます。ほぼ忘れかけていた人の夢と言う、何の変哲もない出来事のはずでした。しかしそれは、その後、約一年間に渡って続く、「少し不思議な巡り合わせ」の、始まりの夢だったのです。


・・そこは何処かの土手で、芝生で覆われたなだらかな地面の上に、男女数人で座っています。僕の左隣りには小柄な若い女性が座っていて、まるで独り言のように話しかけて来るのです。

「あたしいま、風俗で働いてるの」
その言葉に、僕は少なからずショックを受けていて、すぐには返事ができません。大学の学費を親に頼らず、全部バイトで稼ぐと言っていた彼女ですが、そこまでして・・とは思いませんでした。

返事が出来ず思いを巡らしていると、次に彼女はこんなことを言いました。
「歯が抜ける女の子はキライですか?」

その声に口元を見ると、あちこち抜けてしまった歯茎が見えていました。僕は愕然としながらも、それを悟られまいと明るく、「だいじょうぶ。インプラントと言う手もあるよ」と言いました。僕の右隣りの女性も「そうそう、インプラント」と言ってくれて、それを聞いた僕は少し落ち着きを取り戻します。

何処か体が悪いんじゃないのか?と思ってもう一度見ると、彼女はやはり顔色が悪いのです。おまけに痩せていて、とにかく見すぼらしいのです。僕が覚えている、明るく健康で弾けるような若さの彼女ではなくなっていました。

しかし・・
「でも、だいじょうぶ、オレはずっと変わらないから」
そう言い切ってしまうと、さっきまでの動揺がウソのように晴れやかな気持ちになっていました。

ここまでに至る、彼女との出来事を思い出していたのです。美術大学で初めて言葉を交わした日・・、ローラー・スケートが共通の趣味だと分かった日・・、それから・・

「オレはずっと変わらない」
僕の言葉が届いたのかどうか・・、彼女はスッと立ち上がると、「もう行かなくちゃ」と、夕暮れ迫る土手の上を、小走りで何処かへ行ってしまったのです。

・・と、そこで目が覚めました。夢だったんです。

さらに少しずつ意識がハッキリして来ると、その夢の中の彼女が、もうこの世にはいない人なのだと言うことも思い出していました。今からざっと37年前、27歳の若さで亡くなってしまった人なのです。

今は亡き人・・
もう長いこと忘れていたのに、今ごろになって急に夢に現れるとは・・。しかも夢とは言え、あんなボロボロの姿で、何故あんな変なことを言ったのか・・

「まさか、オレも寿命が迫って来たのかなあ」
などと、ボンヤリ考えていました。

ですが、たとえ「夢」だとしても、どんなに見すぼらしくても、彼女を信じる気持ちが残っていて、それを言葉でしっかり伝えられたことに、我ながら満足していました。・・昔々読んだ、遠藤周作氏の小説の寓話を思い出していたのです。

◇ 若くまだ修行中の神父が、皮膚の伝染病で道端に倒れ、死にかかっている見すぼらしい男に出会います。彼は壊死してただれた腕を伸ばし
懇願するのです。「神父様、どうか最後に・・、じき死にゆく私を、抱きしめてはいただけませんか?」。未熟な若い神父は、激しい嫌悪感に見舞われながらも、意を决し、やっとの思いで男を抱き上げました。するとその瞬間、男は光り輝くイエス・キリストの姿に変わっていたのです。

当時高校生だった僕は、これを読んで、「オレには絶対ムリ、見て見ぬフリをしてしまう」と、軽い自己嫌悪を覚えました。それが、この夢の中では、少しだけ神父に近づけたような気がしたのです。


・・また別の日、再び彼女の夢を見ました。
最初の夢から数ヶ月後の、確か8月くらいだったでしょうか?。それは「彼女の葬儀の夢」でした。いや正確には「彼女の葬儀会場になかなかたどり着けない」と言う夢でした。

僕は亡くなった彼女の葬儀会場に向かっているのですが、なぜか自転車に乗り、ノロノロとペダルを漕いでいるのです。時間的には余裕があるのですが、ふと、礼服ではなく普段着で来てしまったことに気づきます。「いくら何でもこれはマズい!」と引き返し、着替えることにしたのです。

するともう時間がありません。到着するのはギリギリ葬儀が始まる寸前でしょうか?。そこで自転車をあきらめ、車に乗り代えることにしました。

運転を始めると、なぜか辺りはすっかり雪景色に変わっているのです。「間に合うかな?」と思っていると、また忘れ物に気づきます。お香典を用意していなかったのです。

「しまった!」と思いましたが、もう引き返す余裕はありません、とにかく車を進めます。すると雪の中、港町のような入り組んだ場所に迷い込み、道が分からず、ついに車を止めることになってしまうのです。

・・そこで目が覚めました。時計を見ると朝6時ちょっと前。
「よりによって葬儀の夢か?」と、妙な気持ちでいたのですが、そのままウトウトして、いつしか二度寝をしてしまったようです。

夢の続きを見ていました。葬儀に行けなかった僕の周囲に、数人の女の従姉妹たちが集まっているのです。そして口々に「お葬式、行って来たよ」と言い、香典返しの品物を床に並べて僕に見せているのです。

彼女らは、僕が行けなかったことを責めるわけでもなく、並べた品物の説明を続けます。僕もなぜか安心して、「そうか、終わったんだな・・」と思うだけなのです。・・そんな夢でした。

かつて37年前の実際の葬儀でも、当日仕事が有って、それを抜け出して行ったので、夢同様に出席が遅れたことは覚えています。それでも途中から出席し、最後に彼女の骨を拾うことが出来ました。

帰り道、大学時代の友人E君と歩くことになったのですが、その間ずっと涙があふれ続け、駅についても止めることが出来ませんでした。泣き顔では電車に乗れず、心配するE君を振り切って、独り、人通りの無い道を選んでは、何処までも歩いて行きました。

その時の強い印象が、長い年月の果て、こんな夢となって現れたのでしょうか?。

しばらくの間、寝床でぼんやりと考えておりましたが、やがてヨタヨタと布団から抜け出し顔を洗っていると、夢の余韻がまだ抜けず、二十代の姿で止まったままの、彼女の姿を思い出していました。同時に、鏡に映った自分の姿が、エラく歳をとってしまったことに改めて気付かされたのです。

「そう言えば、あの時、彼女は何を言おうとしたんだろう?」

思い出したことが有りました。美大卒業間近のことです。大学のアトリエで卒業制作の大きな絵を描いていると、しばらく会うことが無かった彼女が突然アトリエにやって来たのです。そして、ひとしきり僕の絵について感想や質問などがあったのですが、会話は続かず、二人とも黙ってしまいました。じつはこの間、二人にいろんな出来事があったのです。

沈黙を嫌った僕は、絵を描きながら「そっちはどう?、進んでる?」と声をかけましたが、返事がありません。「あれ?」っと思い、振り向くと、彼女は何故か赤面していて、何か言いたげにこちらを見ていたのです。物おじしない勝ち気な性格だっただけに、その姿が意外でした。そのせいで、こちらも声をかけられずにいたのです。

次の瞬間、不意にどやどやと何人かが入って来る音が聞こえました。ハッとしてそっちを見た彼女は、けっきょく何も言わずに小走りで部屋を出て行ってしまったのです。・・そしてそれが最後でした。彼女の言葉はついに聞くことが無いまま、卒業を迎え、その後亡くなってしまったからです。

あのとき、彼女は僕に何を言おうとしたのか、もう分かりません。ただし、顔を赤らめ口ごもる・・、らしくない姿を思い出すと、もしかしたらオレに大切な告白をしようとしてた?・・なんて、都合のいい思い込みですが、年甲斐もなく胸を熱くしてしまうのです。


・・彼女の夢を見てどのくらい経ったころでしょうか。ある日、知り合いが「ブックギャラリー・ポポタム」と言うところで個展をすると言うので、見に行った時のことでした。

帰り道、最寄駅「西武池袋線・椎名町駅」へ向かおうと歩いていると、偶然「すいどーばた美術学院」の建物に出くわしたのです。

芸大・美大受験の場合、浪人生は「研究所」と呼ばれる予備校に通うのですが、当時「お茶の水美術学院」「すいどーばた美術学院」「新宿美術学院」と言うのが都内の大手三大研究所でした。

僕は二浪の間ずっと「新宿美術学院」に通っていたので、他の研究所、特に「すいどーばた美術学院」には関心が無く、何処に有るのかさえ、実はこの歳になるまで知らずにいたのです。

「へえ、ここにあったのかあ」と思いながら建物を見上げたのですが、今頃になって初見参するとは、「妙な感じ」でした。しかも、実はかつて数年間、この界隈に住んでいたので、見つけられなったのが不思議です。

・・その「妙な感じ」とは何なのか?
それはかつて彼女から、浪人時代「すいどーばた美術学院」に通っていたと聞いた記憶があり・・、なので、この偶然の発見も、彼女にまつわる「夢の続き?」のように思えてしまったからなのです。

建物は中央部が吹き抜けになっていました。たまたまなのか人の気配は有りません。最上階まで見上げ、それから周辺を見廻すと、スーッと街の雰囲気が変わり、タイムスリップして行くような錯覚を覚えました。

・・45年も前、十代の少女だった彼女は確かにこの建物の中にいたのです。アトリエで絵に打ち込み、あるいは吹き抜けの通路に立ち、そして、いま僕が立っている同じこの道を歩き、同じ街の情景を目にしながら、遠い未来への夢を思い描いていた・・

その僅か数年後に、突然夢が絶たれてしまうことを彼女はまだ知りません。そして、生き長らえ、年老いてしまった僕のすぐ横を、若い彼女の幻は気づきもせず、急ぎ足ですり抜けると、やがて賑やかな街の中へと消えてゆくのです。


すっかり忘れていた記憶・・、それがいっとき、彼女にまつわる幾つかの事が重なり、何か暗示的でした。いつもならすぐ薄れてしまう夢の内容を、文章に書けるくらいハッキリ覚えているのも不思議でした。

もしかしたら、たとえば輪廻転生し、数百年後に何処かでまた出会うと言うサインだろうか?、そんなことまで思いました。

もしそんなことが有るのなら、この次は、彼女にもう少しだけ長く寿命を与えてやってはくれないか・・などなど、見果てぬ妄想にふける秋の夜長なのであります・・



次回のお話しに、つづく・・





コメント

このブログの人気の投稿

7「回想,真夜中のローラー・スケート」

前回までのお話し →  「37年越しの・・、墓参り」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 東京芸術大学  1979年〜1982年 美術学部絵画科 油画アトリエ・・ 芸大同期の女子、Rさんとの初めての会話は、とても唐突でした。 「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」 それまで、挨拶しかしたことの無かった女の子が、ある日、大学の、僕がいるアトリエにやって来て、いきなり重たい紙袋を手渡してそう言ったのです。中を見ると、10数枚のLPレコードが入っていました。「ジミ・ヘンドリックス」「エアロスミス」「ジャニス・ジョップリン」などなど、ロックの名盤ばかりでした。 この前日、大学の友人たちとアトリエ前の階段に座って雑談し、「ロックバンドを作ろうぜ!」と言う話しになったのです。とりあえず僕はギターが弾けるので誘われたのですが、弾くのはアコースティックギターで、フォークソング派でした。 それで、「オレ・・、ロックは良くわからんな」と、弱気な発言をしていたら、次の日になって、小柄な彼女が重たい紙袋を抱えてやって来たのです。 「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」 「全部って・・、ええっ?、貰っていいの?」 彼女が、僕らの雑談を傍らで聞いていたことは知っていました。が、突然レコードの束を渡されるとは思いませんでした。 「あげるよ。この辺はもう聴かないから。いま凝ってるのは達郎だから」 「タ、ツ、ロ、ウ・・?」 「山下達郎、知らないの?。それなら、今度テープに録ってあげるよ」 ・・それが、僕たちの会話の始まりでした。 それから少しずつ話しをするようになり、「ローラー・スケート」が共通の趣味だと言うことも分かって来ました。そして当時、発売されたばかりの新型ローラー・スケートの話題になりました。フレームにエラストマー素材を噛ませ、サスペンション構造になった物がアメ横で売られていると言うのです。(スケボーと同じ構造です) 「じゃあ、今度それ買って、いっしょに滑ろうか?」 と、盛り上がりました。しかし子供の玩具とは違い、数万円する代物だったので、買うとなると、それなりの思い切りが必要でした。 それからどのくらい経ったのか、季節は確か初夏のころ、浪人時代からの友人S君が僕のところへやって来ました。「Rさんがローラー・スケート買いに行くって言ってるけど、一緒

二年前の事件の話し

★1990年のある日、僕の家に刑事が訪れました。やがて彼によって語られる事件の内容は、その後に起こる、不思議な出会いの始まりでもありました。 これは1990年に僕の周辺で実際に有った出来事です。それをその二年後の1992年に書きました。それで「二年前の・・」と言うタイトルなのです。つまりこれは、当時の記事の「再アップ」になります。念のため、筆者・高橋以外の登場人物は仮名・伏せ名にし、ショート・ストーリー風にしてあります。 * 「じつは・・、 殺しが有りましてねえ」 その男は挨拶もせず、片手で首を絞めるような仕草をして見せた。 それは、僕が久しぶりに車を洗っている時のことだった。洗い終わり、ワックスの用意をしていると、警察手帳を見せながら門を開け、彼は勝手に入って来た。本物の刑事を目にするのは小学生時代の三億円事件以来だったが、まさか今度は、「殺人事件」でやって来るとは・・ 「弟さん、いますか?」 そう聞かれて、僕は一瞬言葉を失なった。 「すみませんがねえ、ちょっと話し、聞きたいんですよ。1時間か2時間、お願い出来ませんか?」 僕は、嫌なことを想像していた。 弟?人殺し・・? だが刑事は、じっと僕の目を見たまま、それ以上喋ろうとはしなかった。そしてその視線は、僕の心の中を読み取ろうとしているかのように想えた。 解りましたと、玄関のドアを開けようとすると、刑事は後ろから、 「村下って奴が殺ったんですがね、どうやら弟さんがそいつと親しくしていたようでね」と付け加えた。 「お兄さん、何か聞いてませんか?」 「あ、いえ、何も・・」 戸惑いながらも、少しほっとしていた。 僕の弟は日産の武蔵村山工場(2001年閉鎖)に勤めている。一週間ごとに昼勤と夜勤がシフトされるのだが、今日は夜勤明けで寝ていた。勤め始めの頃は寮に入っていたが、年齢制限でつい最近追い出され、今は親元に戻って来ていた。 僕はアパート暮らしで、たまに家に置きっ放しの車を洗いに戻って来るだけなのだが、偶然にもこの日、居合わせたのだった。親は共に仕事へ出掛けていなかった。 弟を起こして刑事に紹介する時も、何故か刑事は、終始僕の表情を探っていた。僕はその様子から、刑事が弟を少なからず疑っているのだと言うことを察した。 「お兄さんもいてください」刑事は言った。 彼は身内の微妙な表情の変化を見定めようとするつもりなのだ。 し

ナックル姫?と草野球

★「全6球ナックル勝負!えりちゃん涙の復帰!」だそうです。 どうもこの、「ちゃんづけ」や「姫」と呼ぶのも好きになれませんが、男でも「王子」なんて呼んだりしてるので、まあ、こんなもんなんでしょう。 でもとにかく、関西独立リーグも幾つか新しいスポンサーを見つけたり、募金活動などの努力で存続、吉田えり投手も復活できて良かったです。 ところで、この「女子選手」と言う存在、草野球の世界ではけっこう風当たりが強いと言うのを知っていますか。幾つかの草野球サイトの「フォーラム」では、必ず一度は男に混じってプレーする「女子選手」に関するスレッドが立ち、そこでは、女子選手が「真剣勝負にどれほど邪魔で不必要な存在か」と言うことが延々と語られているのです。 ゴブリンズにはこれまで述べ3名の女子選手が在籍していたので、複雑な思いでそれらの記事を読んでいました。内容の説明は面倒なので、興味のある人は草野球サイトを検索してみて下さい。 ・・で、今回ちょっと気になったのは、そんなプライド高き男たちが、「吉田えり投手」について何も語っていないと言うことなんです。あちこちサイトを覗いて見たのですが、それに関するスレッドはまったく見当たりませんでした。 あれだけ女子選手について饒舌に(悪態を?)書いた人たちなら、「女子選手のプロ入り」についても、どんどん発言して当たり前のはずなのに、どうしちゃったんでしょう。 もしや、彼女は独立リーグと言えども「プロ」なので、草野球のテーマにはそぐわないとでも思ったのでしょうか。それとも?、ホンキで野球への夢を追いかける彼女に、気後れしてしまったのでしょうか。 考えてみれば、「吉田えり投手」がやっている野球の方が、硬式球使用の9イニングで行う「本物の野球」なわけで、屈強な?男たちがどんなに頑張ったところで、2時間7イニングの「お遊び草野球」では、分が悪いのです。でも沈黙はいけません。怖気づいて逃げたと思われても仕方無いですな。 草野球(軟式野球)とは、残念ながら「本物の野球」では有りません。ミニ・ベースボールです。サッカーとフットサルの関係だと思えば分かりやすいでしょう。 しかしそのフットサルも、今では「ミニ・サッカー」と言う位置づけではなく、独立したスポーツとして成り立っているわけで、軟

ウルトラマン・科学特捜隊の「流星ピンバッジ」

★楽天で、期間限定の500ポイントをもらいまして、そのまま期限切れで消えてしまうのも惜しいし、かと言って、ちょっと中途半端な数だし・・と考えて、これが有ったのを思い出しました。 「科学特捜隊・流星ピンバッジ」。900円なので、ポイントにちょっと足せば、ちょうどいい値段で買えます。 「初代ウルトラマン」に登場する科学特捜隊が胸に付けていて、ドラマの設定では、アンテナを伸ばせば、メンバーどうし無線通信が可能なのです。 小学生の目にはとにかくカッコ良く見えて憧れました。厚紙に絵を描いて切り抜き、胸に付けて遊んだりしたのですが、アンテナの伸び縮みだけは再現できず、余計に思いはつのりました。 ウルトラマン・科学特捜隊の「流星ピンバッジ」いま手にしても楽しいですが、あの頃にこれが有ったなら、どんなに嬉しかっただろうかと思います。 ・・そう言えば、ウルトラマンの最終回は衝撃的でした。中学1年になって、夕方の時間帯に再放送が行われると、ビデオの無いあの時代、どうしても最終回が見たくて、野球部の友人二人と練習をサボって大急ぎで帰宅したものです。そんなことも思い出しました。 バッジの裏はこんな感じになっています。洋服に刺して、生地の裏から止めるようになっています。 使い道としては、ネクタイピンにしようかなんて考えています。これまではだいたい、クーパースタウンで購入した「ベースボールバッジ」を刺してましたが、これも中々面白いと思います。(でもやはり左胸に刺さないとダメだろうか?) ふと思いついて、「ユザワヤ」で買っておいた100円のケースに入れてみました。小さなアート作品を入れるつもりの箱でしたが、こんな感じで保存するのも中々イケる気がしました。 ◎【楽天市場】ウルトラマンショップ SHOT M78  

鶏肉ノススメ

★草野球を始めて何年か過ぎたころ、それまで一度も経験の無かった、太ももやふくらはぎの肉離れを起こすようになり、それが毎年一回は起こるクセになってしまいました。肉離れを起こすと内出血にもなるので、痛みが引いて治るまでに2~3週間はかかります。その間は野球だけでなく、日常生活にも不便することになります。 そんなことが続き、ついに2006年の3月、砧公園で肉離れを起こしたのをきっかけに、ホンキでその予防対策をすることにしました。で、思いついたのが「鶏肉」を食べることでした。 かつてNHKで、スポーツ選手の食生活と言う番組をやってまして、それによれば、メジャーリーグで活躍した大投手「ノーラン・ライアン選手」は、現役時代「鶏肉」しか食べなかった、それも登板した日のディナーだけだったと言うのです。これは豪快なテキサスのカウボーイには似つかわしくない、中々 ストイックな食事メニューです。 これは、投球で疲労した筋肉には鶏肉のタンパク質が一番良いと言うトレーナーの助言からだったそうです。スポーツをすると筋肉の細かい繊維が断裂し、その補修のために血液が集まり、熱が生じて炎症を起こします。これがいわゆる「筋肉痛」と呼ばれるものですが、この時、鶏肉のタンパク質を補給することで、断裂部分の再生を早め、同時に筋肉の強化を促すことにもなる、と言うのです。 魚介類も良質のタンパク質なのですが、人間とでは「種」が遠いので、吸収しづらいと言います。まあ、その吸収しづらさが「ダイエット効果がある」ってことになるんでしょうけどね。 そんなこんなで、私は鶏肉を食べることにしました。週に一回、ゴブリンズのゲームがあった夕食には必ず鶏肉を食べることにしました。ホントは「ササミ」がいいらしいですが、面倒なので主に「モモ」にしています。唐揚げは油分が多いので、ダイエットのため?には避けた方がいいでしょう。 で、それを試合ごとに、つまり毎週続けたところ、医療的な見地からは不明ですが、とりあえず結果としては、それ以降今日まで肉離れは起こさなくなりました。それと、筋肉痛の治まりも早くなったのです。 ・・って言うか、2006年の4月に、今度は左鎖骨を骨折してしまったので、そっちの治療の方がメインになってしまったんですが・・ でも、骨折が完治して試合復帰し

お父さんどこでも振動スピーカー

★SoftBankのポイントが溜まったので(10000ポイント)「お父さんどこでも振動スピーカー」と交換してみました。 何かと言うと、これ自体は音を出さず、何かの上に置くことにより、その物体が振動してスピーカーのように音を出すという代物なのです。 オーディオマニアとしては一度は試してみたい物でしたが、買うには5000円以上して冒険だし、ポイント交換ならダメもとだから言うことで、申し込んでみました。 音はBluetoothかAUX接続で出すことが出来、電源はUSB結線の充電式です。DC OUTが付いており、場合によってはスマートフォンのバッテリーとしても使えます。USBポートを使用しない時は、お父さん犬を差し込んでフタをしておくと、まるで目をつぶって聴き入っている風情に見えて来ます。 持った感じはズシリと重たいです。足は粘着シートになっていて、これで台に密着させるようです。斜めになった部分も粘着シートでスマホをくっ付けることが出来ます。 さてその音ですが、何しろ置いた物によってまるで違う音になるので、何の上に置くかが問題です。やはり軽い物は軽い音がし、重い物は重たい音がします。(もちろんモノラルです) ですが、総じて言えることは、無垢の木かパーチクルボードのような中身の詰まった木材系の板、たとえば分厚いテーブルなどがいい音に聴こえます。中が空洞な太鼓張りだとダメですね。ギターなら大きな音がするのでは?と置いてみましたが、カンカンと耳障りな共鳴音がしてダメでした。 こんな風に置き場所によって差が大きいのですが、意外とビックリするのが重低音でしょうか。音だけでなく、ボディーソニック的効果も有るのか、ベースやバスドラが「ブルブルブル」っと響いて来て、けっこう心地よいです。ただし、乗せた物の上が散らかっていると、それらがビビリ音を出してしまうので、きれいに片付けなければなりませんが‥‥ Amazonで売られている同類の物のレビューでは、ピアノの上がスゴくいい音がする、との報告が有りました。ウチにも数年前までアップライトのピアノが有ったのですが、下取りに出してしまい試せないのが残念です。 ・・な感じで、いろいろと素材を試してみる楽しみもあるのですが、一昔前のオーディオ雑誌だったら、これを利用した色んな素材

6「37年越しの・・、墓参り」

前回までのお話し →  5「二通の手紙、二つの返信」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★教会の牧師様からの連絡で、37年前に亡くなった女の 子と、彼女のご両親が眠るお墓の場所が分かりました。しかし、用事や天候の影響で、実際に墓地を訪れるまでには二週間ほどかかってしまいました。 八王子の「東京霊園」までは、ウチから車で1時間半くらいです。圏央道に乗り、ちょっとしたドライブ気分で車を走らせ、ほどなく到着しました。 とても広い霊園でした。中まで道路が通り、季節の行事の際には周回バスも走るそうです。いちおう霊園地図も用意しましたが、カーナビが効いたので、ギリギリまで難なく辿り着くことが出来ました。 駐車スペースに車を停め、そこから花を持って徒歩で向か います。今回は、近所の花屋で自分で選びました。キリスト教の墓参では、主に白い色の、ユリ、カーネーション、スプレーマムなどでアレンジする、と「冠婚葬祭」の本に書いてあったのですが、仏式が中心のここの売店には無さそうな気がしたのです。 そして間も無く教会墓地の前に着きました。 37年ぶり・・、でした。 1985年10月に祭場で拾った彼女のお骨、一度は遠く離れ、長い年月を巡り巡って・・ 2022年4月7日、何故かこの地で再会することになりました。目の前の、この固い納骨堂の中にあの子はいるので す。それも、ご両親の遺骨と一緒に ・・ 最初の印象で、ここで良かったと思いました。綺麗で広くて落ち着いた場所で。特に今日は、二週間遅れが幸いして、ちょうど桜が満開になっていました。 「いま、確かに安らかにしている」 素直にそう思える場所に彼女はいたのです。 墓前に、まずお花と、Nさんが作った陶器の「白の器」を置きました。そこにウチから持参した水筒で「水」を注ぎます。 キリスト教式では「お花とお祈り」だけだそうですが、そこはそれ、僕は仏教徒だから・・(ニセモノだけど?)お水は上げないと、どうもしっくり来ないのです。 それに、ここまで僕の「道しるべ」になってくれたのは「Nさん」だからです。彼女がいなければ、到底ここまで辿り着くことは出来ませんでした。なので、ぜひNさんが作った器でお水を上げたいと思っていたのです。 お花を供え、お水を上げ、長い時間手を合わせ祈っていると、 「こんなシーン・・、むかし、何かの映画で見たような気

暑い夏には、チープな?カレーを作ろう!

★一時、カレー作りに凝っていました。 男が料理に懲り出すと、やたらウンチクを並べ立て周囲のひんしゅくをかうなんてことが多いですが、しかし、この時凝ったのは「ラーメン屋さんのカレー」あるいは「おそば屋さんのカレー」に相当する、非常にチープな味の追求でした。 「チープ」とは言っても、昔々、日本の家庭のカレーライス、いや「ライスカレー」と呼ばれていたカレーは、だいたいこの味だったと言ってよいのです。特にウチの場合には、亡くなった祖母が、時折り作ってくれるカレーがこの味だったので、私にとってはとても懐かしいメニューなのです。 ところで「ラーメン屋さんのカレー」と「おそば屋さんのカレー」ですが、この2種類は同じようでいて微妙な違いがあります。 まず「ラーメン屋さんのカレー」ですが、多めの油で小麦粉とカレー粉を炒めてルーを作り、ダシは鶏ガラ、味付けは塩と砂糖のみと言うものです。小麦粉の中に含まれるグルテンの作用で「とろみ」は自然につきます。で、これが昔懐かしい「ライスカレー」となるわけです。 これに対し「おそば屋さんのカレー」にはかつお ダシが使われており、味付けは主に醤油とみりん。そしてとろみは片栗粉でつけます。いわゆるカレー南蛮に使われているものと同じです。こちらは「小麦粉カレー」を参考に、おそば屋さんなりにアレンジしたものと思われます。 さらに、おそば屋さんの中には、皿で食べるカレーを「カレーライス」、どんぶりで食べるカレーを「カレー丼」と分けて、二種類出している所もあります。調べてみると、前者は「小麦粉カレー」、後者は「かつおダシカレー」と作り分けていることが分かりました。 さて、あれこれ調べて、ようやくレシピが分かって来たところで、実習に取りかかることにしたのですが、買って来たS&Bのカレー粉缶を見てがく然としました(大げさか?)。なんと缶の側面には、レシピのいっさいがっさいが説明されているでは有りませんか・・ けっきょくは、その能書きを見ながらの調理となったわけですが、小麦粉を炒めていると 次第に色が付いて粘りが出て来たりして、そんなことにけっこう感動しました。 そうしてルーを作り、そこからは普通に肉や野菜を加えて煮込みました。そして数十分、想い通りのチープ?で懐かしいカレーの出来上がりとなり

アウトドア用?それとも災害用?

★昔からアウトドア用品に興味があり、ちょくちょく検索していたところ、コンパクトな折りたたみ式コンロを見つけました。 組み立ててイワタニのガス缶をつければ簡単に使えます。ボンベがコンビニでも買えるので便利かもな、と思って見ていたら、購入者のレビューには「災害用に購入」と言うのがとても多くてビックリでした。 「なるほど、そう言う時代なのかもな」と思うと同時に、僕も本格登山用コンロを持ってますが、確かにいざと言うとき登山用ガスボンベは近所の店では手に入りにくい、と思い至り、自分もひとつ買っておこうと言う気になりました。 届いた物は本格的なヤツよりやや重いですが、思いのほかコンパクトで良かったです。着火はワンタッチでライターいらずです。 コンロを買ったついでに、アウトドア用鍋(クッカー)も購入しました。 これは「ドッペルギャンガー」と言うメーカーの「ラーメン、コーヒー、そして俺(クッカー&パーコレーター・ミルセット)」と言う、何とも面倒な名前のモノなんです。 が、そのネーミング通り、ラーメン調理を主に、ミルで挽いたコーヒー豆をパーコレータに入れて鍋の中で煮出し、レギュラーコーヒーが楽しめると言うのが売りなのです。 ラーメン用にはちょっと底が深過ぎですが、吹きこぼれを防げるのと、カップ麺なら二杯分のお湯が沸かせるなど、いろいろ兼用できると言う点では良いと思います。 (半分をカップ麺に、残った半分でコーヒーを入れることも可能です)。アルミに特殊なコーティングをしてあるとかで、持った感じは軽いです。 あとついでに、「ダイソー」でアウトドア用カップとコッフェル二種類、それとスプーンとフォークを買いました。全部ステンレス製で、もちろんそれぞれ100円、消費税込みの合計540円です。 最初は「どうかなあ?」と迷いましたが、意外とよく出来ていますよ。まあ最近の登山ではチタン製が当たり前なので、人気薄のステンレス製は想像以上に安く売れるのかも知れません。スプーン・フォークも折りたたみ式で、組み立てるとガタつきなど無く、立派なモンです。 ・・とまあ、そんなワケで、アウトドア・クッキング用品一式が、・・否!「緊急災害用炊き出し用品一式」が無事そろったと言うことになります。あとはインスタント・ラーメンとコーヒー豆を備蓄しておくことにしますか・・ ただし、何事も無く世の中が進んで行ってくれたらそれ

3「今ごろ?''facebook''を始めてみた」

前回までのお話し →  2「どっこい、夢はまだ続いていた・・」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2021年の12月、急に「facebook」を始めることになりました・・ 2004年に立ち上げられたと言われる「facebook」ですが、話題になった当初からずっと関心が無く・・、って言うより、どっちかと言うと避けて来たはずなのに、どう言うわけか、とうとう始めることになってしまったんです。 今回はその理由について、簡単に書いてみたいと思います。 じつは、僕は、十代のころ、ずっと強迫神経症に悩まされて来ました。次から次へと、主な神経症のほとんどを経験したのかも知れません。 中でも「群衆恐怖症・閉所恐怖症」が特に酷く、その後遺症とでも言うのでしょうか、今でも「人混みが苦手・閉じた空間が苦手」が少し残っているのです。で、「facebook」及び「SNS」と言うものを知った時(普通の人には理解できないと思いますが)僕は「軽い恐怖」を感じたのです。 アカウントを作らなければ中に入ることが出来ない・・ 外から中の様子を探ることさえ出来ない・・ 初めから開かれているブログなどとは全く違う、この、他を寄せ付けない閉ざされた世界は、僕にとって「閉所恐怖症」をフラッシュバックさせるに十分でした。 さらに日本での普及率ですが、2020年調べで、「facebook」利用率は、インターネット利用者の内の「約34%」でしか無いのです(最高時は約40%)。これも不安要素でした。利用率がたとえば「LINE」のように80%を越えていれば、ある程度解放感もあるのですが、34%と言う低さは、より「閉鎖世界」の印象を強くしてしまいました。 そしてもう一つ、「facebookは成功者のツールである」と言う説。これはあるIT評論家のコラムからですが、一時、時代の寵児と騒がれたあるIT起業家が、事業に失敗して電話もメールも断ち、消息不明になってしまったと言う話し・・ が、人格が素晴らしく尊敬できる人物だったので、 IT評論家は「ぜひ、もう一度いっしょに仕事がしたい!」と、探し回ったのだそうです。 で、ふと、とにかく新し物好きだった彼なら、当時発表されたばかりの「facebook」に絶対飛びつくはず、facebookで彼を見つけ、事業再建の後押しがしたいと、来る日も来る日も探したそうなのです