2021年の春頃、僕は一つの夢を見ます。ほぼ忘れかけていた人の夢と言う、何の変哲もない出来事のはずでした。しかしそれは、その後、約一年間に渡って続く、「少し不思議な巡り合わせ」の、始まりの夢だったのです。
*
「あたしいま、風俗で働いてるの」
その言葉に、僕は少なからずショックを受けていて、すぐには返事ができません。大学の学費を親に頼らず、全部バイトで稼ぐと言っていた彼女ですが、そこまでして・・とは思いませんでした。
返事が出来ず思いを巡らしていると、次に彼女はこんなことを言いました。
「歯が抜ける女の子はキライですか?」
その声に口元を見ると、あちこち抜けてしまった歯茎が見えていました。僕は愕然としながらも、それを悟られまいと明るく、「だいじょうぶ。インプラントと言う手もあるよ」と言いました。僕の右隣りの女性も「そうそう、インプラント」と言ってくれて、それを聞いた僕は少し落ち着きを取り戻します。
何処か体が悪いんじゃないのか?と思ってもう一度見ると、彼女はやはり顔色が悪いのです。おまけに痩せていて、とにかく見すぼらしいのです。僕が覚えている、明るく健康で弾けるような若さの彼女ではなくなっていました。
しかし・・
「でも、だいじょうぶ、オレはずっと変わらないから」
そう言い切ってしまうと、さっきまでの動揺がウソのように晴れやかな気持ちになっていました。
ここまでに至る、彼女との出来事を思い出していたのです。美術大学で初めて言葉を交わした日・・、ローラー・スケートが共通の趣味だと分かった日・・、それから・・
「オレはずっと変わらない」
僕の言葉が届いたのかどうか・・、彼女はスッと立ち上がると、「もう行かなくちゃ」と、夕暮れ迫る土手の上を、小走りで何処かへ行ってしまったのです。
・・と、そこで目が覚めました。夢だったんです。
さらに少しずつ意識がハッキリして来ると、その夢の中の彼女が、もうこの世にはいない人なのだと言うことも思い出していました。今からざっと37年前、27歳の若さで亡くなってしまった人なのです。
今は亡き人・・
もう長いこと忘れていたのに、今ごろになって急に夢に現れるとは・・。しかも夢とは言え、あんなボロボロの姿で、何故あんな変なことを言ったのか・・
「まさか、オレも寿命が迫って来たのかなあ」
などと、ボンヤリ考えていました。
ですが、たとえ「夢」だとしても、どんなに見すぼらしくても、彼女を信じる気持ちが残っていて、それを言葉でしっかり伝えられたことに、我ながら満足していました。・・昔々読んだ、遠藤周作氏の小説の寓話を思い出していたのです。
◇ 若くまだ修行中の神父が、皮膚の伝染病で道端に倒れ、死にかかっている見すぼらしい男に出会います。彼は壊死してただれた腕を伸ばし懇願するのです。「神父様、どうか最後に・・、じき死にゆく私を、抱きしめてはいただけませんか?」。未熟な若い神父は、激しい嫌悪感に見舞われながらも、意を决し、やっとの思いで男を抱き上げました。するとその瞬間、男は光り輝くイエス・キリストの姿に変わっていたのです。◇
当時高校生だった僕は、これを読んで、「オレには絶対ムリ、見て見ぬフリをしてしまう」と、軽い自己嫌悪を覚えました。それが、この夢の中では、少しだけ神父に近づけたような気がしたのです。
・・また別の日、再び彼女の夢を見ました。
最初の夢から数ヶ月後の、確か8月くらいだったでしょうか?。それは「彼女の葬儀の夢」でした。いや正確には「彼女の葬儀会場になかなかたどり着けない」と言う夢でした。
僕は亡くなった彼女の葬儀会場に向かっているのですが、なぜか自転車に乗り、ノロノロとペダルを漕いでいるのです。時間的には余裕があるのですが、ふと、礼服ではなく普段着で来てしまったことに気づきます。「いくら何でもこれはマズい!」と引き返し、着替えることにしたのです。
するともう時間がありません。到着するのはギリギリ葬儀が始まる寸前でしょうか?。そこで自転車をあきらめ、車に乗り代えることにしました。
運転を始めると、なぜか辺りはすっかり雪景色に変わっているのです。「間に合うかな?」と思っていると、また忘れ物に気づきます。お香典を用意していなかったのです。
「しまった!」と思いましたが、もう引き返す余裕はありません、とにかく車を進めます。すると雪の中、港町のような入り組んだ場所に迷い込み、道が分からず、ついに車を止めることになってしまうのです。
・・そこで目が覚めました。時計を見ると朝6時ちょっと前。
「よりによって葬儀の夢か?」と、妙な気持ちでいたのですが、そのままウトウトして、いつしか二度寝をしてしまったようです。
夢の続きを見ていました。葬儀に行けなかった僕の周囲に、数人の女の従姉妹たちが集まっているのです。そして口々に「お葬式、行って来たよ」と言い、香典返しの品物を床に並べて僕に見せているのです。
彼女らは、僕が行けなかったことを責めるわけでもなく、並べた品物の説明を続けます。僕もなぜか安心して、「そうか、終わったんだな・・」と思うだけなのです。・・そんな夢でした。
かつて37年前の実際の葬儀でも、当日仕事が有って、それを抜け出して行ったので、夢同様に出席が遅れたことは覚えています。それでも途中から出席し、最後に彼女の骨を拾うことが出来ました。
帰り道、大学時代の友人E君と歩くことになったのですが、その間ずっと涙があふれ続け、駅についても止めることが出来ませんでした。泣き顔では電車に乗れず、心配するE君を振り切って、独り、人通りの無い道を選んでは、何処までも歩いて行きました。
その時の強い印象が、長い年月の果て、こんな夢となって現れたのでしょうか?。
しばらくの間、寝床でぼんやりと考えておりましたが、やがてヨタヨタと布団から抜け出し顔を洗っていると、夢の余韻がまだ抜けず、二十代の姿で止まったままの、彼女の姿を思い出していました。同時に、鏡に映った自分の姿が、エラく歳をとってしまったことに改めて気付かされたのです。
「そう言えば、あの時、彼女は何を言おうとしたんだろう?」
思い出したことが有りました。美大卒業間近のことです。大学のアトリエで卒業制作の大きな絵を描いていると、しばらく会うことが無かった彼女が突然アトリエにやって来たのです。そして、ひとしきり僕の絵について感想や質問などがあったのですが、会話は続かず、二人とも黙ってしまいました。じつはこの間、二人にいろんな出来事があったのです。
沈黙を嫌った僕は、絵を描きながら「そっちはどう?、進んでる?」と声をかけましたが、返事がありません。「あれ?」っと思い、振り向くと、彼女は何故か赤面していて、何か言いたげにこちらを見ていたのです。物おじしない勝ち気な性格だっただけに、その姿が意外でした。そのせいで、こちらも声をかけられずにいたのです。
次の瞬間、不意にどやどやと何人かが入って来る音が聞こえました。ハッとしてそっちを見た彼女は、けっきょく何も言わずに小走りで部屋を出て行ってしまったのです。・・そしてそれが最後でした。彼女の言葉はついに聞くことが無いまま、卒業を迎え、その後亡くなってしまったからです。
あのとき、彼女は僕に何を言おうとしたのか、もう分かりません。ただし、顔を赤らめ口ごもる・・、らしくない姿を思い出すと、もしかしたらオレに大切な告白をしようとしてた?・・なんて、都合のいい思い込みですが、年甲斐もなく胸を熱くしてしまうのです。
・・彼女の夢を見てどのくらい経ったころでしょうか。ある日、知り合いが「ブックギャラリー・ポポタム」と言うところで個展をすると言うので、見に行った時のことでした。
帰り道、最寄駅「西武池袋線・椎名町駅」へ向かおうと歩いていると、偶然「すいどーばた美術学院」の建物に出くわしたのです。
芸大・美大受験の場合、浪人生は「研究所」と呼ばれる予備校に通うのですが、当時「お茶の水美術学院」「すいどーばた美術学院」「新宿美術学院」と言うのが都内の大手三大研究所でした。
僕は二浪の間ずっと「新宿美術学院」に通っていたので、他の研究所、特に「すいどーばた美術学院」には関心が無く、何処に有るのかさえ、実はこの歳になるまで知らずにいたのです。
「へえ、ここにあったのかあ」と思いながら建物を見上げたのですが、今頃になって初見参するとは、「妙な感じ」でした。しかも、実はかつて数年間、この界隈に住んでいたので、見つけられなったのが不思議です。
・・その「妙な感じ」とは何なのか?
それはかつて彼女から、浪人時代「すいどーばた美術学院」に通っていたと聞いた記憶があり・・、なので、この偶然の発見も、彼女にまつわる「夢の続き?」のように思えてしまったからなのです。
建物は中央部が吹き抜けになっていました。たまたまなのか人の気配は有りません。最上階まで見上げ、それから周辺を見廻すと、スーッと街の雰囲気が変わり、タイムスリップして行くような錯覚を覚えました。
・・45年も前、十代の少女だった彼女は確かにこの建物の中にいたのです。アトリエで絵に打ち込み、あるいは吹き抜けの通路に立ち、そして、いま僕が立っている同じこの道を歩き、同じ街の情景を目にしながら、遠い未来への夢を思い描いていた・・
その僅か数年後に、突然夢が絶たれてしまうことを彼女はまだ知りません。そして、生き長らえ、年老いてしまった僕のすぐ横を、若い彼女の幻は気づきもせず、急ぎ足ですり抜けると、やがて賑やかな街の中へと消えてゆくのです。
*
すっかり忘れていた記憶・・、それがいっとき、彼女にまつわる幾つかの事が重なり、何か暗示的でした。いつもならすぐ薄れてしまう夢の内容を、文章に書けるくらいハッキリ覚えているのも不思議でした。
もしかしたら、たとえば輪廻転生し、数百年後に何処かでまた出会うと言うサインだろうか?、そんなことまで思いました。
もしそんなことが有るのなら、この次は、彼女にもう少しだけ長く寿命を与えてやってはくれないか・・などなど、見果てぬ妄想にふける秋の夜長なのであります・・
*次回のお話しに、つづく・・
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