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1000年に一度の・・

★あの日以来、朝、目を覚まして、間もなく我に返り、気づいてしまうのです。

「そうだ、これは現実なんだ」と・・

大地震が起きたあの日から、空を見ても雲を見ても、以前とは何かが違う。もう数日前のあの日々には戻れない。我々は何処か、別の世界に入り込んでしまったのではないか、そんな気がしてならないのです。

次第に震災の大きさが明らかになるにつれ、ローラーブレードで滑っていた頃の記憶が蘇って来ました。1996年の夏に、茨城の高萩から犬吠埼まで。そして、2000年には高萩から福島の四倉まで、計約200kmです。予定では福島原発を越え仙台まで行くはずだったのですが、四倉から先で天気予報で集中豪雨の危険が有りと知り、そこで断念しました。

あの四倉の町もやはり津波で破壊されたそうです。

四倉の駅前で、インラインスケート姿のまま広場でたたずみ、進むか否か迷っていた時、僕を見つけたスケボーの小学生が、チラチラと何か話したげに周囲をグルグル回っていた姿が思い出されるのです。

・・あの子は大丈夫だったんでしょうか。

それから、飛び込み客なのに快く泊めてくれた、いわき漁港近くの旅館、あそこの人々はどうなったんでしょう。

そして、丘沿いの小さな墓地で墓参りをしていた親子連れ、彼らはどうなったんでしょう。

それから、道を教えてくれた女子高生の二人。

地元の人しか知らないような、入り江の小さな海水浴場で泳いでいた沢山の子供たち、どうなったんでしょう。

それから、高萩の美しい砂浜で犬の散歩をしていた人・・

珍しがって声をかけてくれた二人の男・・

バイクに乗って注意をして来た警官・・

駐車場の番をしていた水木海岸の少年・・

海水浴の車に必死で旗を振っていた客引きの男・・

大洗海岸で高笑いをしていた海の家のおばさんたち・・

それから・・、それから・・
みんな、どうなってしまったんでしょう。


朝、目が覚めるごとに、記憶に残る一期一会のその姿が、何度も何度も脳裏を駆け巡るのです。




  

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