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M78星雲の彼方に・・「市川森一さん亡くなる」

★先日、脚本家の「市川森一さん」が亡くなりました。

子供の頃に見た「怪獣ブースカ」「ウルトラセブン」「新・坊ちゃん」「傷だらけの天使」「銀河テレビ小説:黄色い涙」などなど、その名を知らずに引き込まれていた作品は数知れません。その後、何かのおり、自分が好きなドラマ(あるいは好きな回)の多くが、市川森一脚本によるものだ、と言う事実が判明して驚愕してしまうのです。

昭和のテレビ全盛時代、代表的な脚本家としては「倉本聰氏」「山田太一氏」がまず上げられますが、私にとってのナンバーワンは、なんと言っても「市川森一氏」だったと思います。

そんな数多くの作品の中でも、特におススメしたいのは下記の二本なんです。と言っても、今となっては観ること自体が困難ですが・・(追悼番組として再放送を望む)

◎「面影橋・夢いちりん(ギャラクシー月間賞受賞)」
エリートとして出世した四人の男が、学生時代に入り浸った喫茶店を通して再会し、その中の一人が殺人事件を犯していたことから運命が急展開、やがて、それぞれが純朴だった学生時代を思い起こす物語り。全4回の短いドラマですが、心に残るラストが秀逸でした。「あの頃の忘れ物を取りに行く」というフレーズは、今では定番の言い回しとなってますが、あれはこのドラマのラストシーンのセリフが始まりです。

◎「私が愛したウルトラセブン(放送文化基金賞受賞・第19回ドラマ番組部門奨励賞」
ウルトラセブンと言う夢作りの現場を舞台に、フィクションとノンフィクションを巧みに織り交ぜた物語り。「夢見る力」という流行語はこのドラマのサブタイトルがきっかけです(DVD販売有り)

★ 追伸:「私が愛したウルトラセブン」は、NHKBSプレミアムにて再放送されることになりました。この機会にぜひ見てみてください。
前編「夢で逢った人々」12月31日(土)14:40~16:10
後編「夢見る力」1月7日(土)17:00~18:30
(終了しました)

で、以前「私が愛したウルトラセブン」について書いた文章が有りましたので、今回追悼の意味を込めて、再録させていただきます。


   
   
M78星雲の彼方に・・

「西の空に、明けの明星が輝くころ、ひとつの光りが宇宙へ飛んでいく。
 ・・それがボクなんだ」

これが、彼が残していった最後の言葉です。その後、いろいろなウルトラの兄弟たちが地球に降り立ちましたが、ついに、彼が戻って来ることはありませんでした。

ウルトラセブン・・
ベトナム戦争の末期、沖縄がまだアメリカの施政権下に有った時代の日本に彼はやって来ました。普段は「諸星ダン」と言う青年の姿を借り、地球人(ウルトラ警備隊員)として暮らしていますが、警備隊の手におえない宇宙からの侵略者や怪獣が現れた時には、急きょウルトラセブンに変身して倒してくれるのです。

そのセブンに疲れが見え始めたのは、いつの頃からだったでしょうか?。彼の戦いぶりに精彩が無くなり、勝利を納めても、かつてのような喜びを見せなくなって来たのです。

人々は口々にささやきました。
「セブンも、ベトナム戦争にかり出されるアメリカ兵のように、自分の正義感に自信が持てなくなったんじゃないのか?」
「敵の気持ちが分かりすぎるんだよなあ、このごろのセブンは・・」

いったいセブンに何が有ったと言うのでしょうか? じつはこの時期、彼はこんなことを考えていたらしいのです。
「宇宙人は決して地球人にはなれない。他人の眼はごまかせても、自分はだませない」
セブンは、自分を偽って生きることに疲れてしまったのです。

時を同じくして世田谷の円谷プロダクションでは、ひとりのシナリオライターが旅支度を始めていました。彼の名は「金城哲生」。円谷プロ、脚本部のチーフです。彼は、ウルトラセブンの最終回「史上最大の侵略」を書き終えると、それを結核で療養中の同僚「上原正三」に読ませ、それから雨の街へと歩き始めました。

上原は、シナリオを読み終えてこう言うのです。
「まるで、セブンの遺書みたいなものだね」

金城の向かった先は「沖縄」。その小さな島は、金城哲生と上原正三にとって、かけがえの無い故郷でした。二人は、むかし薩摩藩に侵略され、力づくで日本人にさせられた琉球人の末裔だったのです。

「琉球人は決して大和人にはなれない。
 失われたはずの王国の血が、まだ身体の中で脈打ってるんだ」
それが彼らの気持ちでした。

旅立ちのとき、金城は「おやじさん」、つまり「円谷英二」とすれ違いました。
「沖縄へ行って来ます」
と告げると、おやじさんはこう声をかけたのです。
「俺は、いつだって、お前さんを息子のように想ってるよ。頼りにもしてる。
・・また、次ぎをやろう。だから早く戻って来ておくれ」

そのおやじさんの後ろ姿を見ながら、金城は小さく呟きました。
「もどって来ます。・・いつか、また」

やがて最終回の撮影が始まります。

「アンヌ。僕はね、人間じゃないんだよ。M78星雲から来た、ウルトラセブンなんだ」
一瞬、言葉を失うアンヌ隊員。
「驚いたかい?」
「・・いいえ、人間であろうと、宇宙人であろうと、ダンはダンに変わりないじゃない。たとえウルトラセブンであっても」
「ありがとう。アンヌ」
見つめあう、ダンとアンヌ。
そして、意を決したように口を開くダン。
「いま話したとおり、ボクはM78星雲に帰らなければならないんだ」
アンヌに背を向け、夜空を見上げるダン。
「西の空に、明けの明星が輝くころ、ひとつの光りが宇宙へ飛んでいく。
 ・・それがボクなんだ」


・・これは、1993年にNHKで放送されたドラマ「私が愛したウルトラセブン」の一部です。脚本は、当時セブンのシナリオも手掛けた市川森一氏。本人の若いころも「石川森一」と言うボケ役で登場させています。

ドラマは、フィクションとノンフィクションを巧みに織りまぜながら進んで行きます。「ここまではホント? ここからは作り物かな?」と、見ている側を不思議な迷路の中に引き込んで行くのです。

しかし、このドラマで重要なのは「沖縄」と言うキーワードです。セブンのメイン・シナリオライター二人が共に沖縄出身であり、自分たちの姿を、少なからずセブンに投影していたのではないか?と言うことが、全編を通してのテーマの一つとなっているようです。

こんなシーンが有ります。ウルトラセブンの第42話「ノンマルトの使者」。

諸星ダンはある謎の少年から「ずっと大昔、地球にはノンマルトと呼ばれる本当の地球人がいた。でも後からやって来た人間によって海底に追いやられてしまったんだ。人間は侵略者なんだ!」という話しを聞くのです。悩むダン。しかし「ぼくは戦わなければならないんだ」と、ウルトラセブンに変身するダン・・

こんなエピソードを挿入したのも、かつて独立した国家であった「琉球国」が、侵略を受けて日本に併合され、第二次世界大戦ではアメリカ軍に占領されると言う、悲しい運命を背負った故郷として心に強く焼き付けられていたから、とも言えなくは有りません。

なので、ややこじつけ気味ではありますが、セブンの故郷「M78星雲」とは、M(ミナミ)の78(ナハ)、つまり沖縄の県庁所在地である那覇市を意味していたのではないか、と言う伝説も生まれているのです。

まあ、その後、それらのエピソードについて尋ねられた上原正三氏は、「それほど沖縄を意識したことはなかった」と語ってはいるのですが、金城氏に関して言えば、「私が愛したウルトラセブン」の展開と同様、ウルトラセブン放送終了後、ひとり沖縄へ帰ってしまう、という行動をとったことは確かなのです。

そんな金城氏の行動は、すぐ近くで見ていた「脚本家、市川森一」の目には、やはり興味深い姿として映っていたに違い有りません。いろいろな社会の激動を見ながら、脚本家が、ドラマに何かを託そうとしていた時代でもあったからです。

たとえば、ウルトラセブン全49話の中には、放送されることなく封印された幻の12話、「遊星より愛をこめて」と言う回が存在します。脚本を担当したのは佐々木守氏。原爆反対を訴えたつもりの内容が、「被爆者を差別している」として反対運動が起こったため、円谷プロが自主的に封印してしまったと言う作品です。

ですが、真実は、ウルトラセブンを特集した少年雑誌の頭の悪い編集者が、放送予定の12話の紹介で、「スペル星人」を、勝手に「ひばく星人」と書き違えてしまったことで生じた誤解だったのです。

当時の熱気あふれる現場。「ウルトラQ」「ウルトラマン」と続いたヒットシリーズの3作目。スタッフもノリにノッています。ライターたちはまだ若く、1作ごとに熱いメッセージを込めて書き上げていたのでしょう。ベトナム戦争、安保闘争、沖縄返還問題、そして相次ぐ大国の原水爆実験など・・。ライターたちは、「悪い侵略者をやっつけろ!」と、正義を信じる子供たちにこそ本当のことを伝えたい、そう想ったのかも知れません。

「血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」

これは、より破壊力のある兵器開発に血まなこになる地球防衛軍の姿を、諸星ダンが怒りとともに批判した名セリフです。批判したダンが、「おまえの考えは間違っている!」と、仲間であるはずの他の隊員たちから責めたてられるシーンがあるのですが、子供心にもダンが可哀想で、悔しくて目頭が熱くなった記憶があります。

『忘れるなダン、地球は狙われているんだ。今の我々の力では守りきれないような強大な侵略者がきっと現れる。その時のために・・』 
『超兵器が必要なんですね』
『決まっているじゃないか!』
『侵略者は、超兵器に対抗してもっと強烈な破壊兵器を作りますよ!』
『我々は、それよりも強力な兵器をまた作ればいいじゃないか!』
『・・それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ』
*ウルトラセブン26話「超兵器R1号」より

その後マニアの間では、「ウルトラセブン」が、シリーズ最高傑作だったのではないか、とウワサされるようになりました。確かに、でなければ「初代ウルトラマン」以外の数有るウルトラシリーズの中で、わざわざセブンの制作現場を選んでドラマ化、なんてことは無かったかも知れません。・・そして同時に、そう言うシリーズを、リアルタイムで見ることが出来た自分たちに対しても、何か誇らしいものを感じるのです。

ところで、沖縄へ帰ってしまった金城哲生さんは、その後どうなったのでしょう。どうも私には、戻って来なかったように想えてなりません。と言うのも、セブンのあとに放送されたウルトラシリーズは、どれも私の心を揺さぶってはくれなかったからです。

・・それとも、単純に、私の子供時代が終わりを告げたと言うことだったのでしょうか?
  

◆「私が愛したウルトラセブン」◆
  前編「夢で遇った人々」
  後編「夢見る力」   
   
 作   :市川森一  
 演出  :佐藤幹夫   
 音楽  :宮川彬良   
 演奏  :ウルトラ楽団 

◆主な配役◆   
 アンヌ :田村英里子  
 ダン  :松村雄基   
 金城哲生:佐野史郎   
 上原正三:仲村トオル  
 円谷英二:鈴木清順   

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★ひょっとしたら?と淡い期待をしましたが、やはり東北楽天はダメでした。まあ、これが実力と言うものなのでしょう。 が、プロ野球人気低迷のこの時期、これだけの盛り上がりを見せてくれたのはスゴかった。これを失ってしまうのは残念ですね。何しろ、スポーツ新聞の扱いが、勝ち抜けた巨人より楽天の方が大きかったくらいなんですから。 それでもセリーグが中日ドラゴンズでなくて、巨人だったのがせめてもの救い?でしょうか。私はもともとは強烈なアンチ巨人なんですが、それでも、今年の中日のWBC拒否は納得が行かなかったので、今回だけは巨人に頑張って欲しかったのです。 もちろん落合監督以下、中日関係者は、「あくまでも選手の意思」と否定していますが、苦しい言い訳ですね。何より、このところの落合監督の、あのケンカ腰の試合後インタビューがそれを物語っています。あの件での原監督との対立が、相当頭に引っかかってたってことでしょう。 WBCでの二連覇と言うのは、日本のプロ野球史において、かなり重要な出来事だったと思います。あの代表メンバーは確実に歴史に名を残すだろうし、それに行けるチャンスが有りながら行かなかった中日の選手にとって、「千載一遇のチャンスを棒に振った」くらいの悔いとなってしまうかも知れません。ヤンキースの松井選手なんかもそうですね。あれ以来、すごく頑張っていい成績を残しているのに、なんか影が薄いような感じがしてなりません。 それに比べて、楽天の選手たちの、何と影の濃いかったこと!。CSの間ずっとテレビ中継に引き寄せられてしまったくらいです。なので、岩隈投手やマー君以外にも、ずいぶん名前を覚えましたよ。 で、名前と同時に、いろんな選手の打撃フォームを興味深く見せてもらったんですが、印象的だったのは、楽天打者の多くが「脇を閉めて構えている」と言うことでした。 自分で野球をやる人なら分かると思いますが、バッティングで構えた時、右バッターなら右脇、左バッターなら左脇を閉めるか開けるかで、スイングがかなり違って来るんです。 昔はよく「脇を閉めろ」なんて指導されたもんですが、今ではイチロー選手を始め、だいたいのバッターは、余計な力が入らぬよう 脇を開けて構え、インパクトの瞬間だけ強く閉める傾向に有ります。 その方が腕の自由度が増し、いろんな球種...

ぐんじょういろと群青領域

 ★「群青領域」、これはNHKの「ドラマ10」で放送された、心に負った深い傷のために演奏が出来なくなった、天才的な韓国人ピアニスト「キム・ジュニ」の挫折と再生の物語です。「群青領域」と言うタイトルに惹かれてちょっと覗いてみたら、最後まで見てしまいました。 ◎ NHKドラマ10「群青領域」 「ぐんじょういろ」 幼稚園の頃、初めて手にした画材「クレヨン」に、そんな名前の色が有りました。青よりもっと暗い、黒に近い青色のことでした。そして、意味も分からず、この言葉の響きだけがやけに耳に残りました。 中学生になったある日、美術の時間に、一人の女子が「あれ、ぐんじょういろの絵の具が無くなってる!」と言うと、近くにいた生徒たちが、「ぐんじょういろ?。今どき、’’ぐんじょう’’なんて言うか?!」とからかいました。 その頃になると、僕たちは濃い青のことを「紺色」と呼ぶようになっていました。「ぐんじょういろ」とは、幼稚園児のような子供が使う色のことで、あか抜けない、ダサい呼び名と言うことになっていたのです。ところが、あるとき僕は「ぐんじょう」の漢字を知ることになります。それは・・ 「群青・・、青の群れ」 なんて美しい言葉だろう、と思いました。その時から「群青」は、僕にとって特別な単語になったのです。 たとえば、村上龍氏が武蔵美在学中に「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞したときも、このブルーは「群青」に違いない、と勝手に思ったくらいでした。 なので、「群青領域」と言うタイトルを見たとき、「このドラマを見てみたい・・」、そう思いました。 主人公の「キム・ジュニ」はバンドでキーボードを担当していましたが、ある出来事に傷つき失踪します。たどり着いた場所は海辺・・。そこで「死ぬつもりはなかった。消えたかっただけ」と、海に飛び込んでしまうのです。 それを助けたのが、海で仲間を失い、やはり心に傷を負って潜れなくなった水中カメラマン「蓮(れん)」でした。 自殺か?と驚いた蓮が飛び込んで、海の底へと沈みゆくジュニに追いつき、抱きかかえた時、二人は透き通った美しい青に囲まれていました。そこが、心の大きな傷を包み込む深層世界、「群青領域」だったのです。 僕にも、もがき苦しんだ時期が有りました。このドラマを見るまですっかり忘れていたことですが・・ 僕は二浪して芸大に合格しましたが、じつは、現役...