★今年の秋「ふしぎな岬の物語」と言う映画が公開されるそうです。原作は森沢昭夫氏の小説「虹の岬の喫茶店」。主演でもある吉永小百合さんが、監督と共に初めて企画にも参加されたんだそうです。
◎原作小説「虹の岬の喫茶店」
*その他の資料リンク
◎「房日新聞」喫茶店「岬」経営して35年
◎「三浦半島デジカメ便り」音楽と珈琲の店「岬」(火事焼失前)
◎「三浦半島デジカメ便り」再建後の「岬」写真
(他人のブログリンクですみません)
じつはこの映画に出て来る「岬」と言う喫茶店は、千葉県の東京湾側、明鐘岬に実在するのです。つまり実在する喫茶店と実在する人物をモデルに描かれた小説、その映画化と言うことになります。
そして過去に僕は(僕たちは)ブレード隊、つまりインラインスケート長距離走行チームとして、休憩のために、この「岬」を訪れているのです。二人連れで一回と、単独走行で一回の計二回。で、その時のことを僕が書いた走行記が二つあるので、紹介しておきたいと想うのです。
一つは1992年に二人連れで、四日かけて鴨川までの162.2kmを滑った、
「南房総に夏の終わりの夢を見た」
二つめは1994年、途中の白浜127.4km地点でリタイアした単独走行、
「幻のBOSO100マイル」
(他人のブログリンクですみません)
じつはこの映画に出て来る「岬」と言う喫茶店は、千葉県の東京湾側、明鐘岬に実在するのです。つまり実在する喫茶店と実在する人物をモデルに描かれた小説、その映画化と言うことになります。
そして過去に僕は(僕たちは)ブレード隊、つまりインラインスケート長距離走行チームとして、休憩のために、この「岬」を訪れているのです。二人連れで一回と、単独走行で一回の計二回。で、その時のことを僕が書いた走行記が二つあるので、紹介しておきたいと想うのです。
一つは1992年に二人連れで、四日かけて鴨川までの162.2kmを滑った、
「南房総に夏の終わりの夢を見た」
二つめは1994年、途中の白浜127.4km地点でリタイアした単独走行、
「幻のBOSO100マイル」
走行期は現在サーバの関係で削除してあります。いつかの機会に「ブレード走行記」として再アップしたいと思ってますが、原作小説の作者、森沢氏が、初めて「岬」を訪れたのが2008年頃とのことですから、我々が行ったのはそれよりもずっと前、今からざっと20年ほど前の出来事ということになります。
「幻のBOSO100マイル」では、その年の8月に、突如35℃越えの酷暑日が何日も続きまして、無謀にもその炎天下を数十キロ滑って、熱中症と想われる症状に見舞われ、途中リタイアしてしまったのです。
いまにして想えば、あれが、温暖化の影響による「異常に暑い夏」の始まりだったと言う気がしてならないのですが、もちろんあの時は自分が「熱中症」にやられていると言うことさえ気付きませんでした。何しろ「温暖化」や「熱中症」という言葉さえ、まだ一般には浸透していない時代でしたから。
そんなにまでして、なぜ真夏にやったのか?と言うと、「一番暑い日にやり遂げないと負けと同じだ」と言う、強迫観念のようなものが常に有りまして、あえて8月を選んでいたのです。まあ「夏の甲子園」みたいな?もんだったんでしょうか。今ではもう5月の連休ぐらいしかやりませんけど・・
さらにこれは、「人力による長距離移動」を目的とした「旅」、ですので、全編「一般公道でのスケート滑走」と言うことになります。
これまでも道交法的な云々と言うことを書いて来ましたが、この走行記を、再アップのため推敲している最中に、あることに気づきました。それは、これまで、どんな町のどんな道路を滑っていても、必ずたくさんの人たちに声をかけられ、励まされ、面白がられ、色々と親切にしてもらったと言うことです。
通行人だけでは有りません。道路工事の作業員やパトロール中の白バイ警官、すぐ横を走り抜ける車、ダンプの運転手からも「ガンバレ!」との声援をいただきまして、休憩中には、道路沿いのお店の人から冷たいオシボリをもらったことも有ったし、民宿や旅館では、珍しがられて、女将さんと話し込んだことも有りました。逆に、車からクラクションを鳴らされるとか、あきらかに邪魔にされたと言う経験はあまり無かったのです。
僕としては、ここに一つの答えが隠されているような気がしてならないのです。「虚」を取るか「実」を取るかで言うならば、この時期の、ブレード隊の一般道走行の姿は、通り過ぎる町の人々を驚かせ楽しませた「実」そのものであり、法律の方がむしろ、実益の無い形ばかりの「虚」であったと言える気がするのです。
とは言え、20年以上も前のことなので、あくまで「昔々の、のどかな時代のお話し」で、もしかすると今では通用しないのかも知れません。もう体力的にも精神的にも衰えが激しく、二度と一般道走行は出来ないと想うので、もはや検証する術はありませんが・・
奇しくも「幻のBOSO100マイル」の文中で、喫茶「岬」で出会った男に(おそらく映画で阿部寛氏が演じた人物)「そう言うのは、若いうちにやっておかないとな。若いうちは気がつかないんだ。日に日に自分が歳を取ってるってことが」と、諭される場面が有るのですが、20年後の今、ようやく実感としてあの言葉が分かって来た気がします。
まあ、いいことばかりだと嘘くさくなるので、正直に「邪魔者扱い」された経験も語るなら、僕が唯一、罵声を浴びせられたり、バカにされ笑われた経験をしたのは、じつは「福島県」の沿岸走行でのことでした。
ご存知の通り、2011年に大震災や津波、原発事故があり、かつて僕が滑った道も、一度はすべて壊滅しています。なので、なんか言いづらい気持ちはあるのですが、そこをあえて言うならば、福島の人たちは路上スケーターにとてもキビしかった‥‥
炎天下のブレード走行と言うのは、体力も精神力もギリギリの状態で滑るので、ちょっとした言葉が大きく心に響きます。この時はさすがにグサリと来て、ひどく落ち込みました。が、他人の故郷で遊ばせてもらっている身として、ただただ黙って頭を下げるだけでした。
ですがもちろん、親切にしてくれたり、お世話になった人たちがたくさんいたのも事実で‥‥ たぶん、あの手厳しい言動は、僕が想うには「生真面目な県民性の表れ」だったのだと想います。
これまで東京、神奈川、山梨、静岡、埼玉、茨城、群馬、千葉などで、トータル2000キロほどを滑ってみて、県民性の違いと言うものはかなり感じました。神奈川、千葉などは、特におおらかで寛容だったと言う記憶があります。
あともう一つ、しつこく説明しておくと、これまで書いた内容から、何か「車に反感を持つヤツ」と想われそうなのですが、じつは逆で「車の運転大好き人間」でもあるのです。月に一回は、100キロ越えツーリングをしないと気が済まないタチでして、決して、自動車文明と敵対するナチュラリストってわけではないのです。
ただ、狭い道で車どうしが道を譲り合ったとき、運転手は手をあげて挨拶をしますが、それが歩行者だと、挨拶どころか一べつもせずに通り過ぎるドライバーがいますね。彼らに対しては間違いなく「強い反感」を持ってます。彼らはいったい何に挨拶をしてるんでしょう。車(機械)にですか?。人に対してだと言うなら運転手も歩行者も同じはずですが?。つまり僕は、ああ言う者だけにはなるまい!と想っている車好き、だと言うことなのです。
車は決して世の中の中心では有りません。もし、歩行者より車の方がエラい!と想っているなら、それはピントハズレの哀れな思い違いです。僕は、歩行者だろうが自転車だろうが、老人だろうが子供だろうが、はたまた路上スケーターだろうが?、道を譲ってくれた人たちには必ず挨拶し、礼を尽くして車を走らせます。
「道路はすべての人々に平等である」
そう言う者になりたいと想っているだけなのであります。
いまにして想えば、あれが、温暖化の影響による「異常に暑い夏」の始まりだったと言う気がしてならないのですが、もちろんあの時は自分が「熱中症」にやられていると言うことさえ気付きませんでした。何しろ「温暖化」や「熱中症」という言葉さえ、まだ一般には浸透していない時代でしたから。
そんなにまでして、なぜ真夏にやったのか?と言うと、「一番暑い日にやり遂げないと負けと同じだ」と言う、強迫観念のようなものが常に有りまして、あえて8月を選んでいたのです。まあ「夏の甲子園」みたいな?もんだったんでしょうか。今ではもう5月の連休ぐらいしかやりませんけど・・
さらにこれは、「人力による長距離移動」を目的とした「旅」、ですので、全編「一般公道でのスケート滑走」と言うことになります。
これまでも道交法的な云々と言うことを書いて来ましたが、この走行記を、再アップのため推敲している最中に、あることに気づきました。それは、これまで、どんな町のどんな道路を滑っていても、必ずたくさんの人たちに声をかけられ、励まされ、面白がられ、色々と親切にしてもらったと言うことです。
通行人だけでは有りません。道路工事の作業員やパトロール中の白バイ警官、すぐ横を走り抜ける車、ダンプの運転手からも「ガンバレ!」との声援をいただきまして、休憩中には、道路沿いのお店の人から冷たいオシボリをもらったことも有ったし、民宿や旅館では、珍しがられて、女将さんと話し込んだことも有りました。逆に、車からクラクションを鳴らされるとか、あきらかに邪魔にされたと言う経験はあまり無かったのです。
僕としては、ここに一つの答えが隠されているような気がしてならないのです。「虚」を取るか「実」を取るかで言うならば、この時期の、ブレード隊の一般道走行の姿は、通り過ぎる町の人々を驚かせ楽しませた「実」そのものであり、法律の方がむしろ、実益の無い形ばかりの「虚」であったと言える気がするのです。
とは言え、20年以上も前のことなので、あくまで「昔々の、のどかな時代のお話し」で、もしかすると今では通用しないのかも知れません。もう体力的にも精神的にも衰えが激しく、二度と一般道走行は出来ないと想うので、もはや検証する術はありませんが・・
奇しくも「幻のBOSO100マイル」の文中で、喫茶「岬」で出会った男に(おそらく映画で阿部寛氏が演じた人物)「そう言うのは、若いうちにやっておかないとな。若いうちは気がつかないんだ。日に日に自分が歳を取ってるってことが」と、諭される場面が有るのですが、20年後の今、ようやく実感としてあの言葉が分かって来た気がします。
まあ、いいことばかりだと嘘くさくなるので、正直に「邪魔者扱い」された経験も語るなら、僕が唯一、罵声を浴びせられたり、バカにされ笑われた経験をしたのは、じつは「福島県」の沿岸走行でのことでした。
ご存知の通り、2011年に大震災や津波、原発事故があり、かつて僕が滑った道も、一度はすべて壊滅しています。なので、なんか言いづらい気持ちはあるのですが、そこをあえて言うならば、福島の人たちは路上スケーターにとてもキビしかった‥‥
炎天下のブレード走行と言うのは、体力も精神力もギリギリの状態で滑るので、ちょっとした言葉が大きく心に響きます。この時はさすがにグサリと来て、ひどく落ち込みました。が、他人の故郷で遊ばせてもらっている身として、ただただ黙って頭を下げるだけでした。
ですがもちろん、親切にしてくれたり、お世話になった人たちがたくさんいたのも事実で‥‥ たぶん、あの手厳しい言動は、僕が想うには「生真面目な県民性の表れ」だったのだと想います。
これまで東京、神奈川、山梨、静岡、埼玉、茨城、群馬、千葉などで、トータル2000キロほどを滑ってみて、県民性の違いと言うものはかなり感じました。神奈川、千葉などは、特におおらかで寛容だったと言う記憶があります。
あともう一つ、しつこく説明しておくと、これまで書いた内容から、何か「車に反感を持つヤツ」と想われそうなのですが、じつは逆で「車の運転大好き人間」でもあるのです。月に一回は、100キロ越えツーリングをしないと気が済まないタチでして、決して、自動車文明と敵対するナチュラリストってわけではないのです。
ただ、狭い道で車どうしが道を譲り合ったとき、運転手は手をあげて挨拶をしますが、それが歩行者だと、挨拶どころか一べつもせずに通り過ぎるドライバーがいますね。彼らに対しては間違いなく「強い反感」を持ってます。彼らはいったい何に挨拶をしてるんでしょう。車(機械)にですか?。人に対してだと言うなら運転手も歩行者も同じはずですが?。つまり僕は、ああ言う者だけにはなるまい!と想っている車好き、だと言うことなのです。
車は決して世の中の中心では有りません。もし、歩行者より車の方がエラい!と想っているなら、それはピントハズレの哀れな思い違いです。僕は、歩行者だろうが自転車だろうが、老人だろうが子供だろうが、はたまた路上スケーターだろうが?、道を譲ってくれた人たちには必ず挨拶し、礼を尽くして車を走らせます。
「道路はすべての人々に平等である」
そう言う者になりたいと想っているだけなのであります。
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