スキップしてメイン コンテンツに移動

神宮ラストゲーム

★むかしむかしのお話しです。広島カープが創設26年目にして、ようやく初優勝を成し遂げた翌年、つまり1976年のこと・・

この年、神宮球場で行われるヤクルト×広島三連戦の、決まって三試合目に姿を現す二人の女子高生がいました。彼女たちは、紺色のブレザー姿のまま球場を訪れ、まだ芝生敷きだった外野席の一角に腰を下ろし、ヒザを抱え、どこかボンヤリとした雰囲気で、静かに野球を眺めていたのです。

彼女たちが、いつからどんな理由で姿を見せるようになったのかは分かりません。ただ、1976年のシーズンが終了するまで、それが間違いなく続いていたことだけは確かなのです。



当時、僕は美大受験(油絵)を目指す浪人生でした。現役、一浪目と失敗し、二浪目に突入していたのですが、その頃には、実はひどいスランプに陥っていたのです。

美大を目指すくらいなので、もちろん絵には自信が有りました。子供のころから写実的な描写が得意で、「絵の天才」などとチヤホヤされ、自分でもそう思い込んで育って来たました。が、そんな奴らは、世の中には数えきれないほどいたのです。

都心の美術研究所とは(美大予備校はこう呼ぶ)そんな「田舎の天才たち」が何百人と集まる場所でした。天才だったはずの僕は、いつしかその集団の中に埋もれ、すっかり「並みの人」になっていたのです。

毎月行われる油彩とデッサンのコンクールでも(いわゆる模擬試験?)何度描いても下位に低迷し、一位になる作品の何処がいいのかもさっぱり理解できない、そんな泥沼のような毎日が続いていました。

そんな時、ふとした思いつきで見つけた気晴らしが、神宮球場での野球見物でした。研究所が新宿に有ったこともあり、帰りに足を伸ばすにはちょうどいい距離だったのです。中学のころから熱烈な「広島ファン」だった僕は、ヤクルト×広島戦の予定を調べては出かけて行きました。

当時の「ヤクルト×広島戦」は、まるで人気の無いカードで、応援団のいる内野席はまだしも、外野席はいつもまばら、誰が何処にいるかもすぐに分かるほどでした。だから、制服姿の二人の女子高生を見つけることは、それほど難しいことではなかったのです。

当初は「あの子たち、また来てる・・」という程度の印象だったのですが、それが何度も続くとなると、やはり興味が湧いて来ます。いつしか神宮に来るたび、まずは外野席を見回し、彼女たちの居場所を探すようになっていました。

二人は決して熱狂的な観戦と言うのではなく、賑やかな応援団を遠巻きにして、時折り言葉を交わしながら、ゆったりと、神宮の森や、夕暮れの空や、やがて吹き抜ける、心地よい夜風を楽しんでいると言う風でした。神宮外苑の初夏は新緑が匂いたち、芝生席に寝転んでウトウト野球を楽しむには絶好の季節だったのです。

彼女たちの陣取る場所は試合ごとに違っていて、今日はレフト側かと想えば次はライト側、最前列かと想えばバックスクリーン近くだったりと、気まぐれでした。決まっているのは、二人は決して声を出さず拍手もせず、静かにゲームを眺めていると言うことでした。

だから、どちらのファンなのかは不明でした。僕が広島戦以外は見ないので、他のカードでどうしているのかも分かりません。しかしながら、ともかく「三連戦の必ず三試合目に現れる」と言うことだけは次第にハッキリとして来たのです。

僕も、少ない小遣いからチケット代をやり繰りするのは大変で、野球見物はカープが来た三連戦の三試合目、1ゲームだけと決めていました。で、この「三試合目」という少女たちとの偶然の合致に、何か不思議な縁でシンクロしているのかも知れない・・ そんな感じを覚えてしまったのです。

とは言え、近づいて声をかけようとか、そんな気持ちにはなりませんでした。ただ、試合が始まってから終わるまでの数時間、同じ空間を共有することで、「独りでは無い」という安堵感のような、はかない幸福感を味わっていたのです。

なので、時折り数人の男たちが近寄って二人に話しかけたりするのを見ると、やたらドキドキしました。ですが、彼女たちは一体どんな風にあしらっているのか、笑顔で会話すること数分、あきらめたように男たちが去って行くのが常でした。

そうやって、その年のシーズンが終了するまで、僕と二人の女子高生は、神宮球場で行われるヤクルト×広島三連戦の決まって三試合目に訪れ、閑散とした芝生敷きの外野席で、夜風に吹かれながら同じ時間を過ごすこととなったのです。


やがて夏が過ぎ、ペナントレースのゆくえもほぼ決定した10月・・

その日は、朝から小雨が降り続いていました。肌寒く開催も微妙かと想われましたが、消化試合と言うことで強行したのでしょう。神宮球場では広島×ヤクルトの最終戦が行われようとしていました。広島にとっては東京での今年最後の試合、そしてローテーションからすると、ほぼ間違いなくあの池谷投手が先発するはずでした。

いつものように研究所での作業を終えて球場へ向かい、外野席のチケットを購入しました。ところが、通路へ向かう途中、係員に呼び止められ、バックネット裏に行くようにと指示されたのです。じつはあまりにも観客が少なかったため、球場のはからいで、客全員がバックネット裏に集められたらしいのです。

バックネット裏は屋根付きで雨を避けることが出来ました。僕が行くころにはすでに数名が席についており、OL風の若い女性、ラフな服装の三十代らしき男、カップルと思しき男女二人、そして最前列には、なんと学生服姿のあの女子高生二人の姿もあったのです。僕はいつもよりかなり近い距離で彼女たちの後ろ姿を見ることになりました。

どうやら僕が最後だったらしく、その後は誰も来ませんでした。つまり、応援団の姿も無く、このたった7人だけが、このゲームの観客の全てだったのです。

一度だけ売り子が姿を見せ「アイスクリーム、いかがっスかあ!」と声を張り上げていましたが、こんな寒い夜にアイスもビールも売れるわけがありません。しかもこの人数・・ それ以降、売り子は二度と現れませんでした。

雨こそ避けられたものの、息も白くなるこんな夜に、一体どんな物好きがナイターなんか見に来るのか・・ ゲームの成り行きとは別に、何かとても興味深いことでした。そしてそれは恐らく、自分以外の全員も、それぞれに抱いた感情だったのではないかと想えてならないのです。

ゲームは予想通り、広島が池谷、ヤクルトが松岡のエース対決で始まりました。「もしかしたら、ついに池谷の20勝目をこの目で見ることが出来るかも知れない」僕は少し興奮を覚えていました。

・・が、2回、池谷投手は連打を浴び、早くも2点を失います。今日もあまり調子が良くないようでした。彼は9月の対阪神戦で、9回裏、満塁の走者を背負ってリリーフに立ち、阪神の四番・田淵に、逆転満塁さよならホームランを打たれて以来、立ち直れないでいたのです。

「まさか、今日もダメなのか?」と、僕は気が気ではありませんでした。彼はこれまで20勝目をかけて先発しながら、五度の失敗を重ねていたからです。

優勝に貢献した昨年の20勝投手、エース外古葉が肩痛のため戦線離脱。さらに三本柱のひとり、15勝の佐伯投手が不調。左の中継ぎ渡辺投手、抑えの宮本投手も乱調で、あれほど強かったチームも低迷。その中で池谷一人が奮闘し、19勝までは快調に飛ばして来たのです。(注*池谷投手は優勝時18勝でした)

決め球はストレート。ストレートと分かっていてもバットに当たらない、胸のすくような快速球でした。その鉄腕を買われたのでしょう。「頼りになるのは池谷だけ」と、当時の古葉監督は、崩壊した投手陣をあきらめ、池谷を先発・中継ぎ・抑えの全てに登板させるという、今ではあり得ない、酷使と呼ぶべき使い方をしてしまったのです。それでも、池谷はその期待に答え黙々と投げ続けました。

そしてあの劇的な投球が行われたのは、8月の巨人戦、後楽園球場でのことでした(長嶋監督就任2年目)。三連戦の二試合目、広島がリードするも、3回、先発投手がノーアウト満塁の大ピンチを招き、クリンアップを迎えると言う場面でした。

ここで古葉監督は、前日、完投勝利を上げたばかりの池谷をマウンドに送り出したのです。対するは、当時最強と言われた、張本・王・末次の三人。が、なんと、この大ピンチにも動じることなく、全てストレートで、三者連続空振りの三振に打ち取ってしまったのです。しかも彼は、雄叫びを上げるわけでも無く、ガッツポーズもせず、まるで高校球児のように小走りでベンチに戻って行ったのです。

「球がどうこうと言うより、悲壮感としか言いようが無いですね・・」
と、解説者は絶句し、僕はその言葉を聞きながら、熱いものがこみ上げて仕方ありませんでした。

そのころの僕は、精神状態がドン底まで落ち込んでいて、かなり心が弱っていたのです。襲いかかる最強の軍団に、たった一人で立ち向かう池谷投手の姿が、十字架を背負った救世主のように見えて仕方なかったのです。

二浪目が始まって、一浪のころ知り合った仲間たちがポロポロと脱落し始めていました。ある者は気力を失って故郷へ逃げ帰り、ある者は研究所のエレベーターで精神錯乱を起こし、同乗した者に抱きついたまま発狂してしまったり、そしてついには、急に姿を見せなくなった仲間について、「あいつアパートで自殺したんだって」と知らされたり・・

そんな出来事がいつも頭から離れず、押しつぶされそうになっていました。もともと美大を目指すような連中は、感受性が鋭い分、精神が繊細で傷つきやすく、社会にもうまく適応できないヤツが多いのです。(日本で初めて医務室に精神カウンセラーが常駐するようになったのは、東京芸大なんだそうな)

僕はと言えば、夜、悪夢を見てはうなされるようになりました。ヒドい時には、激しい吐き気で目を覚まし、あわててトイレに駆け込むなんてことも何回か有りました。便器の前であぶら汗を浮かべながら、
「いよいよ、オレの番かな・・」
なんて、いい知れぬ不安に苛まれていました。

そんな時に見たのが、池谷投手の「三者連続・空振り三振」の力投でした。「くそっ・・ オレも何とか・・」
理由は説明できませんが、たかが野球の試合で、熱い感動と、微かな力が湧き上がったような気がしました。

けっきょく池谷投手は、その試合も9回まで投げ続け、巨人打線は手も足も出ず、二日連続での勝利投手と言うことになりました。球数はトータル300球を超えていたそうです。

しかし当然のことながら、無茶な起用法がやがて裏目に出て来ました。ストレートの威力が痛々しいほどに落ちて来たのです。そしてあの、田淵に浴びせられた逆転満塁さよならホームラン・・

以後、何度登板しても打ち込まれ、20勝を目前にして、まったく勝てなくなってしまったのです。そして今夜、この神宮の試合でも池谷投手のストレートは走らず、2回に続き3回にも2点を奪われ、あっと言う間に4対0と引き離されてしまうのです。

すると、その姿を見かねたと言うのでしょうか。
「池谷さーん!、ガンバッてえ!」
と、意外にもあの二人の女子校生が大声を上げたのです。僕は驚きと同時に、やっぱり?!と想いました。

「池谷を応援すると言うことは、あの二人もカープ・ファン?」

「い、け、が、やー!」
その直後です。今度は男の野太い声でした。どうやらカップルの男が、連れの女にせっつかれて出したようでした。

それは、遠く外野席まで木霊するかのような大声で、あまりの声量に、女子高生二人はびっくりしたように顔を見合わせ、それから「くっ、くっ、くっ・・」と、肩を揺らして笑い始めました。

「なに?、あのカップルもカープ・ファン?」
その時、僕の頭には、妙な考えが浮かんだのです。

「まさか、この7人全員、カープ・ファンなんじゃないのか?」
アクションの無いOL風の若い女とラフな服装の男については分かりません。が、それにしても・・

こんな寒い雨の夜、応援団も見捨てた人気薄のゲームに、わざわざ見物に来る物好きって、どんなヤツらなのか?。もしも全員がカープファンで?、いや、池谷ファンなのだとしたら?。・・何となく、つじつまが合うような気がして来たのです。

僕が、巨人打線をストレート1本で押さえた姿に心打たれたように、彼らもまた、池谷のピッチングに、何処かで救われたのではないか?。人生の小さな壁に立ちすくむ心に、ささやかな勇気を与えてもらったのではないか?

もしそうなら、20勝達成の瞬間に立ち会い、心からの拍手を贈る・・、それが英雄に対する返礼だとしても、おかしくは有りません。

そう考えてみると、女子校生二人のこれまでの態度も、「物静かな野球見物」と言うよりは、悩みを抱えて「どこか物憂げ」、そんな感じにも想えて来るのです。

女子高生たちの声も、無骨な男の声も、恐らくマウンド上の池谷投手には届いていたことでしょう。ですが、声援も空しく、何度目かのピンチを迎えたところで監督がマウンドに歩み寄り、ピッチャーの交代を告げることになったのです。

池谷は監督の言葉にうなずき、静かにマウンドを降りて行きました。その姿を、バックネット裏の7人は無言で見送っていたのです。

けっきょく試合そのものは、ヤクルトがさらに1点を追加し、5対0で松岡投手が完封勝利を納めるのです。が、試合終了まで誰一人として席を立つことはありませんでした。その熱心な姿?に心動かされたのか、イニングの合間には、球場からのサービスで、全員に熱いコーヒーが届けられたのです。

そうして試合が終了すると、ヤクルトの選手全員がバックネット前に駆け寄り、一列に並んで「ありがとうございました!」と、深々と頭を下げました。僕たちは拍手でそれに答えるのです。

それから席を立ち、通路を抜けて行くと、今度は出口付近で広島の選手が一列に並び、僕たちを待ち受けていました。7人はそれぞれ選手に声をかけたり握手を求めたりと、別れを惜しむかのように、一歩ずつ出口へ足を進めるのでした。

表に出ると、冷たい雨の匂いがして、深い夜が広がっていました。街灯の明かりには、雨が霧状に降り注いでいるのが見えています。何人かは信濃町駅に向かっていましたが、その時にはもう、僕は女子高生二人の姿を見失っていました。

「まあ、いいか・・」とは想ったのですが、あと一回くらい姿を見てから帰りたい、そういう気持ちも無くはなかったのです。少しだけそんな心残りを感じながら、いつしか信濃町駅にたどり着いていたのでした。


その後、池谷投手は、地元の広島市民球場でようやく20勝を達成し、最終的には最多勝と沢村賞を獲得。終盤こそ苦しんだものの、投手として最高の栄誉を手にしてシーズンを終了しました。

そして僕はと言えば、長いスランプを脱出?したのか、研究所のコンクールで何とか一位を取り、その勢いのまま翌年の受験に合格、苦しみ抜いた二年間の雪辱を晴らすこととなったのです。

その喜びが一段落したころ、ふと彼女たちのことを想い出しました。そして久しぶりに神宮球場へ行ってみることにしたのです。

しかし、どんなに見回しても二人を見つけることは出来ませんでした。そうして春が過ぎ、初夏のころになっても、とうとう、あの二人の姿を見ることは有りませんでした。


「つまり、あれが彼女たちの、ラストゲームだったのだ・・」

あれから数十年が過ぎましたが、今でもシーズンの終わりが近づくと、時折り想い出すことが有ります。朝から小雨が降り続いていた神宮球場。バックネット裏に集まった7人。そしてその7人に、丁寧に頭を下げてくれた両チームの選手たち・・

神宮球場の広島戦は、今やカープ女子と呼ばれる若い女性ファンで一杯になるそうで、同じカープ・ファンとしては嬉しい限りですが、少しだけ場違いな感じもしないわけでは有りません。

「僕たちが熱狂したカープは終わった。
これからのカープは、もう彼女らのモノなんだ」

マエケンや堂林や、丸などに熱い声援を送る彼女たちは、むかしむかし、巨人の強力打線に、ストレート1本で立ち向かう男がいたことを知りません。20勝目前でスランプに陥り、あの神宮のマウンドから無念の降板をしたことも・・、そしてその姿を、じっと見守っていた少女たちがいたことも・・

あの女子高生二人は今ごろどうしているのでしょう。今でも神宮球場に来るなんてことが有るのでしょうか。ひょとすると気づかないだけで、今年たまたま見に行ったあの日、人混みのなか偶然、僕が座ったすぐ近くにいたのかも知れません。あの時、不思議なくらいシンクロしていた僕たちなのです。まったくあり得ないことじゃないと想いますが・・?

ただし、もし奇跡的にそんなことが有ったとしても、残念ですが、僕にはたぶん見つけ出すことは出来ないのです。何しろ、あのとき僕の心に深く刻まれたはずの、可憐で透き通るような少女たちの姿は、今ではもう、五十の大台に乗った、立派な「オバさん」になってるはずなので・・




  

コメント

このブログの人気の投稿

ジャイアント馬場伝説

★先日、元プロレスラーの「山本小鉄さん」が亡くなりました。子供の頃は、野球よりもプロレスに熱中していたので、やはり感慨が無くはありません。それと、あのころ僕たちの回りで飛び交っていた「ジャイアント馬場伝説」と共に、記憶の奥底に残っている名前でもあるのです。 僕が小学生だったころ、近所の子供らの間で、あるウワサが広まりました。家からすぐ近くに小さなパン屋さんがあったのですが、そのパン屋に、ときどき「ジャイアント馬場」が訪ねて来るらしい、と言うのです。 「もし近くに大きな黒塗りの外車がとまっていたら、その日は必ずジャイアント馬場が来ている、しかも馬場はデカ過ぎて後部座席に横倒しにならないと乗れないのだ」と・・ 僕はその話しに驚き、戦慄してしまいました。ですが、実際にその巨人の姿を見たと言う子供はおらず、まるで伝説のように、ウワサ話しだけが大きくなって行ったのです。 ところが、ある夏休みの夜、僕は初めてその「大きな黒塗りの外車」を目撃することになりました。パン屋のすぐ近くにはお寺が経営している幼稚園が有って、その園庭で毎年盆踊りが行われていたのですが、その盆踊りの夜に、例の大きな黒い外車がパン屋に横付けされていたのです。 ちょうどその夜は盆踊りの最終日で最後に花火が打ち上げられることになっていました。その花火を、隣の家の女の子と一緒に見ようと言う約束をしていたのですが、その「外車」を発見してしまった僕は、車の様子が気になって仕方が無く、頻繁に踊りを抜け出しては「ジャイアント馬場」が現れないかと見張っていました。 しかしとうとう花火が始まってしまい、約束を守るため花火見物に集中していたら、運悪くその十数分の間に車は何処かへ走り去ってしまったのです。けっきょく馬場のウワサが本当だったのか、確かめることは出来なかったのです。 が、その数ヶ月後くらいだったと思います。駅前の一等地に、例のパン屋の姉妹店がオープンすることになり、なんと、その特別ゲストとして「ジャイアント馬場」と、かの「山本小鉄氏」それに「アントニオ猪木」が来店することになったのです。 まさか!?と思いました。そして町のあちこちに立った告知看板を見ながら「ぜったいに馬場を見に行こう!」と思っていたですが、その時も何だかんだと用事が出来て、やはりジャイアント馬場を目撃することは出来なかったのです。翌日の...

「まゆゆ」引退・・

 ★「今ごろかよ!」って言われそうですが、元AKBの神セブンと呼ばれた一人、渡辺麻友さんが芸能界を引退しました。 昨年(2020)のことです。しかし、芸能界では大物タレントのコロナ死や自殺など、衝撃的なニュースが相次ぎ、ファン以外ではそれほど?話題にならなかったような気がします。しかし僕にとってはちょっと興味深い存在だったので、少し書いておこうかと思いました。 単刀直入に言うと、「音楽の価値観を一変させられた?」とでも言いましょうか、彼女が歌った一曲に、これまで培って来た音楽の感性を一撃で破壊されてしまった、そんな存在だったのです。(大袈裟か・・) かく言う僕は、もともと若い頃はアイドルと言うモノには興味がありませんでした。自分で言うのもナンですが、変わり者だったし、多少歌にも自信があったので、当時のヘタウマアイドル歌手はどうでもいい、と言うのが本音でした。 世間では「歌のうまいアイドル」として評判だった「松田聖子さん」でさえ、僕が聴いた限りでは微妙に音を外していて、それが気になってダメだったのです。 周囲の人たちは、その「説」を信じませんでしたが、彼女がアメリカ進出を試みた時、向こうのプロデューサーから「音程が外れている。このままだとアメリカでは通用しない」と、長期間のレッスンを受ける予定との芸能ニュースを見た時、ひとり「ほらね!」と思ったものでした。(ただし、帰国後は素晴らしい歌手に変貌していましたよ、念のため) では、そんなだった僕を、還暦近くなって、一変させてしまった一曲とは何かと言うと、「まゆゆ」が歌う、その名も「麻友のために」でした。 どうですか?。声質は典型的な舌足らずの「アイドル系ガールボイス」で、一見ヘタそうに聴こえるのですが、注意して聴くと、しっかり音を外さずに歌い切ってることが分かるのです。しかもサビの部分、低音からいきなり高音に飛ぶ高低差の激しい曲にもかかわらず、後半になってもしっかり音程を保ち続けている・・  かつてのアイドル嫌いの僕は、「AKB48」と言うのは、とりあえず可愛い女の子をたくさん集めて、一度に大勢で歌わせれば歌のマズさはごまかせるってやり方だ、と思っていました。なので、これを聴いた時、「あれっ?」と思ったんです。 「ちょっとこれ、ホントは、歌の上手い女の子なんじゃないの?」と興味が湧いたんです。音程があまりにフラット...

雪の降る日に、東京で・・

★先日は東京でも雪が降りまして、交通の大混乱が起きました。この様子について「雪が降っただけで大騒ぎする東京都民は学習しろ!青森県民がマジギレ」という記事がありました。 「あのねぇ・・、東京の人は雪が降っただけで大騒ぎするけど、青森とか東北の人からしたらね、雪は“降る”もんじゃなくて“降り続ける”もんなの!。1日降ったぐらいでギャーギャー騒ぐな!」 「今日ぐらいの雪なんて青森じゃ11月にはフツーに降ってることが多いから、コケたりする人が多くて逆に笑っちゃうわ(笑)。ちゃんと滑り止めのブーツはけよってね」 「もし青森に東京都民が一斉に移住したら冬で絶滅しちゃうでしょ!。熱帯魚じゃないんだからもう少し勉強した方がいいよ。量は変わるけど毎年降ってるんでしょ?。学習したら?」 どうもツイートのコメントのようですが、こんな感じだそうです。気持ちは分かりますが、けっこうなカン違いがあるんですよね。 じつは、東京都民の70%は東京の人間じゃないんです。 ほとんど他府県からやって来た人々なんですよ。で、さらにその内の半分以上は東北、雪国出身の人なわけです。なので青森県民が「マジギレ」した相手は、確率的には東京の人間じゃない可能性が高い、それどころか同じ雪国出身の可能性だってある?ってことなんです。(もう少し勉強した方がいいよ?) たとえば、東京の職場や草野球チーム?など何でもいいんですが、10人くらい集まったグループで、試しに一人一人出身地を尋ねてみてください。その割合は、だいたい「東京3・地方7」くらいになるはずです。 ちなみに僕の両親も秋田県の豪雪地帯の出身で、親戚もほとんどが秋田出身者です。でも東京に住み着いて数十年が過ぎますとね、いつの間にか東京の季節感を学習し、それが普通になってしまうものなんですよ。 で、なまじ「雪国出身」という自負があるので、「このくらいの雪、何でもない」と出かけ、途中で立ち往生してしてしまうなんて事がよく有るんです。(両親は「雪質が全然違うから」と言いわけしてますが・・) それから、雪以外でも、別の件でも似たようなカン違いの話しがあります。 大阪人は東京に対してものすごくライバル意識があって、事あるごとに 「東京の人間は冷たい。ツンとして愛想が無くてキザな感じ」なんて批判するのをよく見かけます。ですが、あれも、彼らが言う「冷たい人たち」って、たいていは...

ダブルレッグスタンドを付けた?!

★新しい自転車が来てから、少しずつ野球仕様に改造しております。左の写真を見て分かるように、二股のセンタースタンドに付け替えました。 ネットショップ「サイクルベースあさひ」で見つけ、ずっと付けたいとは思っていたのですが、取り付け可能なのか調べたくてもなかなか実物を見る機会が無く、二の足を踏んでいたのです。 ところが色々な自転車サイトを見てみると、取り付けボルトの太さが10mmであると分かり、ほぼ90%取り付け可能だと言うことが分かって来ました。今回の自転車マリオン・クラッシックには、センタースタンド用の台座とボルト穴が有り、そのボルト穴の径が10mmだったんです。 ◎ダブルレッグスタンド しかし、最終的には実物を見てみないと何と言えないので、ネットショップでいきなり買うわけにも行かず(値段が¥4000くらいするので‥‥)、あちこちの「サイクルベースあさひ実店舗」を探し歩いて行くと、三つ目の店「所沢店(横山氏宅から500m。高橋宅から10km)」で「ダブルレッグスタンド」の実物を発見しました。 それをよく観察してみたところ「何とかなりそう」なので、その場で購入することにしました。付属のボルトでは長過ぎるので、途中で近所のドイトへ寄って、短いキャップボルトと8mmのアーレンキーを購入、帰宅してさっそく取り付けてみました。 それがこの写真です。アルミ合金で、金ノコで簡単に切れるので丁度いい長さにカットしてあります。その先端にキャップを付けるのです。 折りたたむとこんな感じになりますね。立てる時は広がっていますが、たたむとチェーンと反対側に二本とも格納されます。フレームにもクランクにも干渉しないよう、うまいこと作られています(スイス製だそうです)。 最初は見た目が「ゴツいなあ」と思っていましたが、取り付けてみるとそれほどでも無いですね。総重量が500gと言うことですが、カットした分と、バカでかい取り付け金具を使わなかった分、軽くなっていると思います。 後ろから見るとこんな感じですね。直立してます(両足の長さをそろえてカットするのが大変)。これで、野球用具の重たい荷物を載せてもグラつくことが無いでしょう。コンビニでスポーツドリンクを買っている内に転倒していた、なんてことも無くなるわけです。 ...

友人の展覧会に行って来た、八高線に乗って・・・

アトリエ棟 ★もう一ヶ月ほど前のことですが、埼玉県小川町まで行って来ました。小川町は手すき和紙で有名なところだそうですが、そこにアトリエを構え在住する大学時代の友人が、個展を開くと言うので行くことにしたのです。 会うのは卒業以来で、久々の20年ぶり、再会と小旅行とを楽しんで来ました。個展を開いた場所は普通のギャラリーではありません。以前倉庫だった建物を改造したものです。 40年前までカレー粉製造工場だったところをアトリエとして借り、その隣の材料倉庫をギャラリーとして自力で改造したそうです。どちらも木造合掌づくりで、行ってみると、もうそれだけで味わいのある建物でした。 右アトリエ・左ギャラリー 作品はいわゆる「現代アート」です。一般の人々には「難解」「独りよがり」と思われがちですが、我々アーティストにとっては、その奥底に隠された謎?を読み解くことがひとつの喜びでもあるのです。 彼の作品も、一見クールで無機質に見えますが、その奥には叙情的と言ってもいいくらいの情感が隠されていました。それは、あえてのんびりとしたこの土地の環境の中で制作を続ける、と言う行為からも充分理解できるのです。 小川町は田舎への入り口と行った感じの町でした。あまり田舎独特の風の匂いがしなかったのが物足りなかったのですが、これは季節がらだったのかも知れません。 ギャラリー内 ただ、今回は残念ながらあちこち散歩できませんでした。時間が無かったと言うこともあるのですが、下調べが足りなかったんです。あとで調べてみたら小川町はいろいろ見所があったんですよね。 TBSで日曜日の早朝5時15分からやっている「東京ウォーキングマップ(番組は終了しました)」と言う地味な番組があるのですが、こないだ偶然目が覚めて、偶然チャンネルを合わせたら「小川町」のことをやってまして(東京とは言っても東京近郊まで取材してます)それを見たところ、けっこう面白そうな田舎町なんですよ。せっかく1時間に1本しか無い八高線に乗ってわざわざ行ったのに、もったいないことしました。 近所の図書館 次回は自転車で、泊まりがけで行こうかと思ってます。距離がだいたい片道50kmあるので、日帰りと言うのはキツそうです。 50kmとは驚くかも知れませんが、本格的なサイクリストなら何でもない距...

1「土手の上で、夢の中の約束」

★ Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 2021年の春頃、 僕は一つの夢を見ます。ほぼ忘れかけていた人の夢と言 う、何の変哲もない出来事のはずでした。しかしそれは、その後、約一年間に渡って続く、「少し不思議な巡り合わせ」の、始まりの夢だったのです。 * ・・そこは何処かの土手で、芝生で覆われたなだらかな地面の上に、男女数人で座っています。僕の左隣りには小柄な若い女性が座っていて、まるで独り言のように話しかけて来るのです。 「あたしいま、風俗で働いてるの」 その言葉に、 僕は少なからずショックを受けていて、すぐには返事ができません。大学の学費を親に頼らず、全部バイトで稼ぐと言っていた彼女ですが、そこまでして・・とは思いませんでした。 返事が出来ず思いを巡らしていると、次に彼女はこんなことを言いました。 「歯が抜ける女の子はキライですか?」 その声に口元を見ると、あちこち抜けてしまった歯茎が見えていました。僕は愕然としながらも、それを悟られまいと明るく、 「だいじょうぶ。インプラントと言う手もあるよ」 と言いました。 僕の右隣りの女性も「そうそう、インプラント」と言ってくれて、それを聞いた僕は少し落ち着きを取り戻します。 何処か体が悪いんじゃないのか?と思ってもう一度見ると、 彼女は やはり顔色が悪いのです。おまけに 痩せていて、とにかく見すぼらしいのです。僕が覚えている 、明るく健康で弾けるような若さの彼女ではなくなっていました。 しかし・・ 「でも、だいじょうぶ、オレはずっと変わらないから」 そう言い切ってしまうと、さっきまでの動揺がウソのように晴れやかな気持ちになっていました。 ここまでに至る、彼女との出来事を思い出していたのです。美術大学で初めて言葉を交わした日・・、ローラー・スケートが共通の趣味だと分かった日・・、それから・・ 「オレはずっと変わらない」 僕の言葉が届いたのかどうか・・、 彼女はスッと立ち上がると、 「もう行かなくちゃ」と、 夕暮れ迫る土手の上を、小走りで何処かへ行って しまったのです。 ・・と、そこで目が覚めました。夢だったんです。 さらに 少しずつ意識がハッキリして来ると、その夢の中の彼女が、もうこの世にはいない人なのだと言うことも思い出していました。今からざっと37年 前、27歳 の若 さで亡くなってしまった人なので...

風邪で寝込んで超リアルな夢を見た

★先週の土曜日に風邪をひきまして、でもまあ何とかなりそうだったので、そのまま東大和の球場まで草野球の練習に行きました。運動をしているウチはマヒしてるようであまり感じなかったのですが、家に帰ったその夜から完全にダウンしました。 熱も無いし、それほど咳がひどいと言うことも無いのですが、やたら眠いのです。翌朝、目が覚めて1、2時間パソコンに向かったと思ったら、また凄く眠くなって布団にもぐってしまうと言う感じで、一日の大半を眠って過ごしたんです。 で、ようやく、今日あたりから意識がハッキリして来たのですが、眠っている間、たくさん夢を見ました。ほとんどはどうでもいい雑夢でしたが、その中で一つだけ、とてもリアルな夢がありました。 僕は、誰だ分からないのですが、とても懐かしい友人?とおぼしき二人と歩いているのです。やがて、下町の小さな店がたくさん立ち並ぶ、とても細い路地を抜けて行くと、辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていました。 さらに暗闇を歩いて行くと水辺に出ました。川なのか、池なのかよく分からないのですが、真っ暗な水辺で、僕たち三人はまるで子どもようにはしゃいで遊ぶのです。その時ふと、僕は夜空を見上げました。すると、見渡す限りに無数の美しい星々が輝いていたのです。 ・・とまあ、こんな風な夢でした。それが非常にリアルだったのです。普通の夢は目が覚めると、「ああ、夢か・・」とリアル感がどんどん薄れ、夢の内容もどんどん忘れて行くものですが、そう言うんじゃないんですね。 リアルさが異常なほど感覚に残って、不思議な記憶として時間が過ぎるほどハッキリして来る。そんな感じでした。 目が覚めた後は、とてもいい気分でしたが、あとひとつ間違えば、恐ろしい悪夢に変わってしまうような、そんな妖しい危うい雰囲気も有りました。 そう言うリアルな夢を誰でも一度は見たことがあるはずですが、心霊研究では、じつはそう言う時って、魂が 一時的に 肉体を抜け、「幽界」をさ迷っている状態なんだと言う話しを聞いたことがあります。 なるほど・・、あれが「幽界」だとすれば、確かに「そうだ」と思えるような、不思議な現実感のある世界でした。でも、だとすれば、気になるのは一緒に遊んだあの二人、いったい誰だったんだろう?と言うことですね。 ・・ところで、このごろは、「ゆうかい」とタイプして変換す...

TOPEAK(トピーク)のライドケースを付けた

 ★このところ世の中は「iPhone6」の話題で持ち切りですが、僕のiPhoneはまだ6どころか5でもなく、4sのままなのです。じつは一度水没させて修理に持ち込み、別のものと交換することになったので、その分バッテリーの寿命が伸び、現在まで使い続けることになったのです。iPhoneの修理は基本的に全取っ替えとのことで、持ち込まれたヤツをオーバーホールして、別の修理時に交換品として出すらしいです。 で、iPhone6が出たら、4sはアップルのラインナップから外されるとのことで、今、ショップでは4s用のアクセサリー類が非常に安くなっておるのです。それに釣られて、ついついこれを買ってしまいました。ホントなら4000円くらいするやつですが、1000円ほどで(送料無料!)で購入することが出来ました。(写真は拡大できます) 「TOPEAK ライドケース」とは、スマホを自転車用ナビとして使用するためのホルダーです。もちろんこれまでも、いろんなiPhone用ホルダーを取っ替えひっかえ試して来たのですが、なかなか「これだ!」と想うものに行き当たらず、今に至っていたのです。 何がダメだったのかと言うと、自転車と言うのはかなりの振動があるので、まずは「絶対に落ちないもの」でなければなりません。ところが、落ちにくいものは得てして「外しにくいもの」であることが多いのです。 サイクリング中にトイレに行きたくなったり、コンビニに入るときなど、盗難に用心する必要があるので、外しにくものは実は不便でしょうがないのです。 そしてまた、iPhoneをケースに入れたままだと、ホルダーにハメられないものが多く、自転車に乗るたびにケースから出さねばならず、面倒だったりします。あとは、見た目がゴツくなりやすいこと。iPhone装着時はまだいいのですが、外したあとハンドルにホルダーだけが残ると、どうにも見た目が悪いのです。 そんないろんな条件を考慮して行って、最後に行き着いた製品がこの「TOPEAK ライドケース」でした。が、いかんせんこれにも欠点が有ったのです。 それは値段が高いと言うこと。確かにモノはいいが、これに4、5千円出すと言うのは、チト痛い‥、と想って迷っていたら、iPhoneモデルチェンジのため4s用がどんどん値下がりして来たことから、これは買い時だ!と言うことになったわけなのです。(赤い棒の...

究極のペイントシステム

★絵の話しをしましょう。絵を描くとはどう言うことなのか・・ 簡単に説明すると、頭の中で思い描いた映像を、紙なりキャンバスなりに定着させる作業です。その時、頭に浮かんだイメージを100%忠実に描ければ、これはもう物凄い作品が出来上がるはずなんですが、現実はそうはいかない。 人間はアナログで出来てますから、脳がイメージした情報が、神経を、そして指先に伝わるまでに、どんどん劣化して、最終的に画面に現れるビジュアルは、絵描きがイメージしたものとは、かなり異なったものとなってしまうのです。 そこで石膏デッサンとか写生とか、さまざまなモノを見て描く修行をくり返し、イメージを損なわずに定着させる能力を養うわけですね。 ところで、ずいぶん前ですが、K君という超能力者と言われている青年が、「念力写真展」を開いたと言う話しを聞ききました。この話しに私は「なるほど」と思いましたね。 念写とは、その信憑性はさておき、頭で思い描いたイメージを印画紙に定着させると言う点では、「絵を描く行為」と非常に似通っているのです。これは私のような凡人には到底無理な話で、ある意味うらやましくもありした。 ところが、しばらくして「人間の脳波をビジュアルに変換する」実験をしている大学の研究室があると言う話しを新聞で読んだのです。その記事によれば、すでに「あ」の文字をコンピュータの画面に描き出すことには成功している、とあったのです。 驚きました。もしこのままうまく行けば、究極のペイントシステム、ホントの意味の「念写ぺインター」が完成するのではないか?!と期待は膨らみました。・・が、それ以後何年たっても話題にならないので、研究はかなり難航しているものと思われます。 しかしこの可能性は、私の想像力を大いに刺激してくれました。もしも、人間のイメージをコンピュータが瞬時に再現してくれたら、まったく新しいタイプのアーティストが登場することになります。 もちろん念写のように一枚絵を描くこともいいですが、処理能力を上げれば動画再生も可能になって来るはずです。 そうすれば、作家の頭の中を「動く映像」によって表現するこが出来ます。これまでアニメやビデオアートなどでやっていたことを、リアルタイムで上映することが出来るわけです。 さらにこれを、オムニマックスにするとか、バーチャルリアリティ再生するとかすれば、観客を集めて、壮大なアート...