★太宰治生誕100周年だそうです。なんか、今でも人気があるみたいで、各地でいろんな催し物が計画されているようです。
かく言う私も、十代の頃はかなりノメリ込んでいたので色々気になります。あのころ、書店に出ている物ならほぼ全作品を読んだのではないでしょうか。何しろ、社会科のテストの時、「太宰府」と書かなければならない回答欄に、無意識に「太宰治」と書いてしまったほどでした。
今は、どんな世代にどんな風に人気があるのか分かりませんが、ただ、読み方次第では、やはり危険な傾向のある作家ではないかと思うので、あまり大騒ぎするのもどうかと言う感じがします。
私も当時は、ちょっと芸術家気質で人一倍多感な?少年だったことも有り、読めば読むほどひどく気が滅入って来て、やがて「死」のイメージがチラついて来るのを感じていました。まあ平たく言えば、太宰文学によって自殺傾向に持って行かれるって感じでしょうか。
ですが、そんな時に出会った作品が「富嶽百景」でした。
「富士には、月見草がよく似合う」
のセリフで有名なあの作品ですが、正直言って最初は戸惑いました。この作品はそれまでのように破滅的ではなく、それどころか、あまりに人の心の暖かさが有り、決意が有り、そして希望が有りました。太宰が、人間として立ち直って行こうとする力強さに満ちていたのです。
なので、読み終えた時には今までに無い大きな感動に包まれ、個人的には「最高傑作かも?」と思ったのです。
が、文学作品としては少々甘口過ぎるのではないかとも疑っていたのですが、しかし後に、太宰の恩師である井伏鱒二氏も「これは傑作である」との評価を与えていたことを知り、なるほど、まあまあオレの鑑賞眼もマンザラではないな、などど自画自賛したものでした。
そうして「富嶽百景」の感動が薄れぬ間に、これまたヒューマン小説?の傑作「津軽」を読み、さらに太宰作品に「真っ当な人間らしさ」を見出した結果、知らない内に「死の影」から、自分の心が遠のいていることに気がつきました。
しかし同時に、「最高傑作」を読んでしまったのですから、それ以後、他の太宰作品を読んでもあまり面白さを感じなくなってしまった、・・それも正直な気持ちでした。
あの頃の自分を思うと、今でも若い人たちに人気がある?らしい太宰治が、どんな読まれ方をされているのか気になります。単純に「共感できる」と言う程度ならいいんですが、人によってはあの頃の自分同様、「死の影」が忍び寄ると言うことも充分に考えられるのです。それが「富嶽百景」や「津軽」で止まればいいんですが、その先の先の暗闇へ行ってしまわないとも限りません。
テレビで「桜桃忌」の報道をしてまして、そこに訪れ、インタビューを受けていた高校生らしき少年の様子が、あまりに陰鬱で影が薄い感じがしたので、あの時代の自分と重なり、心配で気になって仕方無いのです。
「太宰治100周年キャンペーン」を企画する出版社も映画会社も、この不況の中、儲けることに必死で、そんな気弱な人間の感受性のことなんか考えてるヒマなんて無いのでしょうね。(ある出版社には、太宰専門のプロジェクトチームが有るそうですよ。??スゴいですね)
それと、太宰治本人がこの状況を知ったらどんな風に思うのか、ちょっと聞いてみたいような気もします。富嶽百景に登場する「私」のように、「内心ひどく狼狽する」のか、それとも、ようやく本来の評価をされたと自慢げに喜ぶのか・・
ただ当時、あれほど欲しがっていた「芥川賞」を太宰からかっさらって行った「石川達三氏」の作品が、今では知る人も少なく、書籍はほとんど絶版となっている事実・・
そしてむしろ、無冠のまま放蕩を繰り返した太宰作品の方が、延々と生き残り続けていると言う事実に、何とも言えない感慨を覚えているだろうことは、たぶん間違いないのであります。
コメント
コメントを投稿