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東京のそばつゆ

★世の中には「そば通」と言う人は多くいまして、テレビでもそう言うグルメ番組やレポーターがたくさんいて、「あの店のは最高だ」とか言う話しを聞くことがしばしばあります。

ただ僕には解せないことがひとつ有って、あれだけ「そば」について論じながら「そばつゆ」について論じる人がほとんどいないと言うことなんです。

僕もいちおうそば好きなので、時には名店と呼ばれる店に入って食べることがありますが、その内、半分くらいは「そばはいいけど、つゆが大失敗だなあ」とガッカリすることが多いのです。

そばを活かすも殺すも「そばつゆ次第」だと思っているので、これは不思議です。

昔はともかく、今では、そばの名店やそば打ち名人なんて日本中にごろごろいるので、何処へ行っても、そこそこのそばは食べられるようになりました。と言うことは、これから味の違いや決めてとなるのは「そば」そのものよりも「そばつゆ」なのではないかと思うのです。

店によっては、そばの風味を味わうために、つゆにつけず塩をまぶして食べさせるところもあるようですが、これはお品書きのひとつとしては面白いと思いますが、ちょっと「邪道」の匂いがしますね。

もともと江戸のファストフードとして定着したそば(そばきり)を、そこまでストイックに食べなければならないと言うのは、かなり息苦しいことだと思います。それに、だいたいそう言う店って、二口か三口で無くなってしまうような一握りのそばで、千円くらい取るんですよね。あれ、ボッタクリじゃないですか?

「気取ってんじゃねえよ!」と、わめきたくなりますが、まあ、ワタクシごときがいくら発言したところで、「素人が!」とまったく相手にされない事はわかっているので、そういうお店はほっといて、素人は素人なりに、自宅では自分の好きな味の「美味しいつゆ」で、気楽にいただきたいと思うのです。

その時には写真の「永坂更科のそばつゆ」が一番のお勧めです。今のところこれに代わるものは無いんじゃないでしょうか。これは東京風(江戸風)のやや濃厚な甘辛そばつゆでして、一番おそば屋さんに近い味になってます。

何種類かあって値段の違いがあるのですが、高い方が美味しいと言うわけではなく、好みの違いのようです。僕は貧乏性のせいか、一番安いつゆが一番好みでした。

ともかく、まだ知らない人は一度試してください。「なるほど!」って思うはずですよ。ウチに来たお客さんに出すとみんなビックリして、商品名をメモしたり、空き缶を持って帰ったりしてますが、最近ではそこらのスーパーでも普通の見かけるようになりました。


ただ、お勧めしながらひとつ心配があるとすれば、これは「東京風のつゆ」なので、東京出身以外の人には合わないかも知れないと言うことです。濃厚で甘辛で、落語に出て来るような、ほんのちょこっとそばにつけてたぐる(すするとは言わないんです)食べ方に向いているのです。

まあ、「つゆの味がイマイチ」と言う現状も、よくよく考えてみれば、他府県から進出して来たそば職人が増えてしまい、東京独特のつゆの味が失われつつあるのかな?とも思えて来ます。

ところで、こんなへ理屈を書くと、僕はかなり味にうるさいヤツだと思われるかも知れませんが、そんなことは有りません。むしろそう思われることって、食文化と言う観点から見れば、非常に恥ずかしいことだと思ってます。

ちなみに僕は、自分の味覚を、値段に合わせてシフト出来て、チープなジャンクフードから高級料理まで、もれなく美味しくいただける便利な舌を持っておるのですよ。



  

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