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「ちい散歩」から「こころ旅」へ

★僕も好きでよく見ていた「ちい散歩」ですが、地井武男さんが病気療養のため降板、すでに加山雄三氏の「ゆうゆう散歩」が始まっています。ネットでは「存続か終了か」と、この手の番組としては異例の注目度で報道され続けていました。

いろいろ有る散歩番組(旅番組)の中で、なぜ「ちい散歩」だけがこんなに話題になったのか・・ ちょっと不思議な感じがしますが、じつは、ある友人からこんな話しを聞いたことが有ります。

ちい散歩はかったるい。早く店を紹介しろよ!って想ってしまう。アド街ック天国の方が手っ取り早い」と、彼は言うのです。

僕はこの言葉を聞いて「なるほど、そうなのか」と想いました。そう言えば、ちい散歩は他の番組に比べて、ただ歩いているだけのシーンが長いような気がします。それが彼には退屈だったのでしょう。しかし僕は逆で、店や名所紹介にはほとんど興味が無く、「アド街ック天国」の方が苦手な番組だったんです。

けっきょく、地井さんが、ただ黙々と歩いて行く姿を見ているのが好きだったのかも知れません。もっと言えば「歩いている道」「移り変わる情景」を見ているのが好きだったんです。なので寄り道して名所旧跡に感動したり、店に入って食べ歩きをするなんてシーンが始まると、急にかったるくなり「早く歩いてくれ・・」なんて想ったりするのです。

「ちい散歩」でも特に好きだったのは水曜日の「ひと駅散歩」で、これは文字通り、何処かの路線の一駅分、駅から駅までのほんの数キロ、場所によっては500mほどしかない距離を歩くと言うコーナーです。

なにしろ距離が短いので、何のハプニングもないことが多く、ムリムリ地井さんのコメントだけで終了する、なんてこともまま有りました。が、この「何も起こらない」と言うシンプルさが、僕なんかにはたまらなく面白かったわけなのです。

これはどう言うことなのかと言うと、以前このブログで「水曜どうでしょうのロードムービー的なところが好きだ」ってことを書きましたが、けっきょく「ちい散歩」も、ロードムービーの一種として見ていたのだと思うのです。

極端なことを言うと、何処にも立ち寄らず、ひたすら歩いて、「道」と「通り過ぎる風景」を放送してくれるだけいいのです。が、もちろん、それでは番組として成り立ちません。なので、立ち寄りシーンではとりあえずガマンして見ていたと言うわけです。

で、「ゆうゆう散歩」になってからはどうなのか?と言うと、残念ながらそう言う意味での面白さは半減しました。確かに加山氏は頑張ってはいますが、何せ、歩く場所が浅草だの吉祥寺だのとハデなのです。

番組の新装開店で、景気付けなのかも知れませんが、ちい散歩のように、名も知らぬ郊外を歩いてはくれないのです。「こんな何も無い町にも来てくれるんだ?」とか「ウチの近所がテレビに映った!」なんて感動が無いんです。

果たしてこれから、加山氏が旅慣れ?して来たら、そんな「見知らぬ町」にも出かけていくのか分かりませんが、確かに地味な町を歩くには、加山雄三と言うキャラクターはハデですよね。

と言うことで、残念ながら僕の好きな番組がひとつ終わってしまったのですが、その代わり最近良く観ているのが、NHK-BSプレミアムの「日本縦断・こころ旅」ですかね。これは2011年から始まったもので、視聴者から寄せられた「こころに残る風景」の手紙をもとに、火野正平氏がその場所を自転車で尋ねて回る、と言う番組です。

これは一度見れば分かりますが、「ロードムービー」そのものなんです。とにかく火野氏が自転車で走る姿を映しているだけなんです。いちおう目的地は有りますが、一般人の想い出の風景ですから、名所旧跡と言うわけには行きません。何の変哲も無い、そこらに転がっている風景の中で、寄せられた想い出の手紙を読んで、それだけで終わりなのです。

「何てことない風景だけどな。それでも人には残るんだ・・」
火野氏が目的地にたどり着いて呟いた言葉通り、何てことの無い、空と道と田舎の風景が、ただただ連続して映されるだけの番組です。

これは僕なんかにとっては、ホント、たまらん番組なんですが、逆に「アド街ック天国好き」の人にとっては、退屈きわまりないモノとも言えるでしょう。

ですが、僕と同じく「ちい散歩」のファンだった人なら、これの良さが分かるんじゃないでしょうか。その証拠、と言うわけでも無いですが、放送開始から一年たった今、「ガンバレ!」とか「ご苦労さん」などとあちこちで声をかけられ、握手を求められる姿が、ちい散歩の地井さんと似て来たような気がするのです。

火野氏本人も、あまりに多くの人が「いつも楽しみに見てるよ!」なんて言うので、「これ、サッカーのワールドカップくらい視聴率あるんとちゃうか?」なんて驚く始末で、どうも、すでにマニアは増えつつあるように想えます。

当初は、自転車好きの若くて体力のあるタレントなんか他にたくさんいるし、なぜ火野正平なのか不思議でした。が、その点についても本人が、「俳優の需要が少なくなってきたので、自転車に乗ることにしました」なんて平然と説明していて、そう言うところ、変なプライドとか、カッコつける気配が無いところが、面白い人なんだと想いました。

見ていると、高所恐怖症で橋では自転車を降りちゃうし、上り坂では息切れして歩き始めるし、農家の軽トラックを見つけてはズルして乗せてもらうなど、実にいい加減な自転車旅行なんです。

おまけにタバコは吸うし、キレイな女性を見つけると必ずチョッカイを出すと言う始末で、最近ありがちな「苦しみを耐え抜いて最後まで走り抜く、涙の感動作品」とは、ほど遠いものと言えるでしょう。(とは言え、1日に数十キロはちゃんと走ってるみたいですが・・)

しかしながら一つ感心するのは、地井さんもそうだったんですが、花の名前や動物の種類などについて、とてもよく知っているところでしょうか。そうものにウトい僕からすると、さり気なくてカッコいいなあと想うのです。(鼻歌の歌詞でもかなり細部まで覚えているんです)

と言うことなんですが、2012年の春シリーズ、津波で破壊された風景ばかりが続いた、「東北太平洋側~北海道ルート」もそろそろ終わりに近づいています。秋からは、沖縄まで向かう南下シリーズが始まるそうなので、興味を持った人は、一度見てみてはいかがでしょう。


(ちなみに、今年のブレード隊のルート「印旛沼・安食~村上」も、実は「日本縦断・こころ旅」の走行ルートを参考に、決定させてもらいました)


追伸*地井武男さんが、29日の朝、亡くなりました。この記事を書いた翌朝のことです。ちいさん、ずいぶん遠くまで散歩に行ってしまいましたなあ・・
  




  
   

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