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夏の甲子園の危機?

★「今年の夏はとにかく暑い!」と言う声があちこちから聴こえて来ますが、印象深かったのは、あれほど暑さに強いはずの甲子園球児にも、とうとう熱中症の選手が出始めたと言うことでしょうか。

今までは応援団や審判がやられたと言う話しはあったんですが、今年は埼玉の予選で数名が倒れたと聴いているし、本番の甲子園では、特に先発投手が8回9回あたりで、熱中症による脱水症状で、足の痙攣に見舞われると言うシーンが数回有りました。

そのせいか、まだ少数ですが「もやは夏の甲子園は危険だ」との意見が出始め、評論家の中にも「ドーム球場での開催も考慮する時期なのかも知れない」と言い始める人が出て来たようです。甲子園のベンチは冷房が効いているとの話しを聴いたことがありますが、それでも間に合わない状況になりつつあるのかも知れないです。

まあ、「甲子園球場」と言う象徴的な場所以外での開催と言うのはかなり難しいような気もしますが、しかし、猛暑の夏は今年だけでは終わらない、これからは毎年のように続くのだ、と言うことは、みな、薄々感じているんじゃないでしょうか。

今年の甲子園で話題の出来事と言えば「某高校の選手のカット打法」が、反則打撃だと警告された件ですかね。これには世間のさまざまな反応が有りまして、「ルール上問題は無い」とか「対応する時期が遅すぎる」などと、批判する声がずいぶんありました。

私は正否を判定する立場には無いのですが、個人的に想ったのは、対戦が進むにつれ、熱中症の症状に見舞われる投手が多発したことが、審判団に決断を迫らせたのではないか、と言うことでした。

この選手の成績を調べてみると、彼一人だけで、相手投手に30球~40球も投げさせる傾向にあったようです。そうなると、たった1試合で途方も無い球数を投げてしまう恐れも有り、あの、毎日のように続いた35~40度クラスの猛暑下では、場合によっては重大な健康上の問題を起こしかねません。

しかも、カット打法を長引かせた結果、後半、相手投手が足の痙攣を起こして退場せざるを得なくなった様子を見て、カット打法を行なった選手とメンバーがベンチ内で高笑いをしている姿がカメラに映されてしまったのですね。これ非常に印象が悪かったです。(こう言うのは高校野球をスポーツニュースなどダイジェストの数分で見ている人には分かりませんよ)

そんなおり、高校のアメフト選手が、試合中に熱中症で亡くなると言う事故が報道されましたよね。たぶんあの辺から、高野連および審判団は何らかの対策を考えていた、そんな気がしてならないのです。

結果、異例の「大会途中での警告」と言う形を取った、と私は勝手に推測しておるわけです。「なぜ大会が始まる前に警告しておかないんだ!」と言うのが大方の批判理由ですが、上記のように考えると、少し理屈が通って来るような気がしませんか?

足ていどで済めばいいですが、筋肉が痙攣すると言うことは、心臓も筋肉なわけで、場合によっては「心室細動」の恐れもあり得るのです。と言うより、足の痙攣は、心臓を守るために身体が発した警告症状と見るべきですね。

もしも症状が心臓にまで達して、最悪のケース、相手投手が意識を失って倒れたら、取り返しのつかない「悔恨の甲子園」になってしまうし、もちろんカット打法を行なった当の選手にとっては「一生の心の傷」となって残る恐れも有るわけです。

そしてこれは、あくまで私の考えに過ぎませんが、「カット打法は卑怯者の作戦」だと思います・・(すみません!)。

日本人は昔から「ルールの拡大解釈」を得意にしています。そして、そのルールの隙間を狙った作戦を発見することが「賢い」と思い込んでいる気がするのです。で、そのよりどころとなっているのが、「宮本武蔵」の物語のような気がします。

佐々木小次郎との決闘で、わざと時間に遅れて来るとか、太陽を背にして逆光で見えにくくするとか・・。でもこれって、武士道精神じゃないですよね?。「卑怯者」ですよね?。巨匠:吉川英治氏には失礼なんですが、こんなのは「サムライ」じゃないと思います。

こうなると「大量得点をしたチームが盗塁をするのは相手に対しての無礼」「相手のプライドを傷つけてまで勝つ必要はない」などと考える、アメリカのベースボール・スピリッツの方がよっぽど「武士道精神」に近いんじゃないか、そんなガッカリな話しになってしまいそうで、とても悔しいんです。

ただ、それだけの話しなんですけどね・・






  

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