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真空広角打法・・?

★ずっと昔「キックボクシング」と言うものが全盛のころ、「沢村忠」と言う無敵のキックボクサーがいました。どれだけ強かったかと言うと、241戦232勝(228KO)5敗4分・・。この戦績からご理解いただけるでしょうか?

キックボクシングとは「ムエタイ(タイ式ボクシング)」のことで、沢村選手の対戦相手もほとんどがムエタイの選手でした。

で、その時の彼の必殺技が「真空飛びヒザ蹴り」と言う、何ともアニメじみたネーミングの技だったのです。これがどんな飛び蹴りなのかと言うと、狙いを定めてから飛び上がるのではなく、「飛び上がってから相手のスキを見つけ、そこを攻撃する」と言う技なのです。

すぐれた格闘家と言うのは、相手のほんのちょっとした身のこなしから、何処を狙われているか瞬時に予測しガードできます。ところが飛び上がっても狙われている場所が分からないとなると、相手は予測もガードも出来ず、混乱している間にやられてしまうと言うことになるわけですね。

この沢村の大技を見て、キックボクシングの解説者であり、お寺の住職でもあった「寺内大吉さん」が、「これは、沢村の精神が無になっているため、相手が殺気を見抜けないのだ。修験者で言えば完全なる空の境地。つまりこれは、真(まこと)の空、真空飛びヒザ蹴りである」と言うことでのネーミングだったようです。

もちろんこれは、沢村選手の類いまれな跳躍力があって、初めて実現できた技でもあります。バスケットボールの神様、「マイケル・ジョーダン」がジャンプすると、滞空時間の長さで宙に浮いているように見える、あれと似ています。・・そういえばあれ「エアジョーダン」って言いますね。「エア」とはようするに「空?」のことですか?

・・・何でこんな話しをするのかと言うと、2005年のキャプテン高橋のバッティングに引っかかるものがあったからであります。まあ、強引に結びつけたと言う方が正しいのですが・・

昨年は28本のヒットを打ちましたが、結果としてけっこう広角に打ち分けることが出来たと思います。メンバーからも「流し打ち上手いですね」なんて言われたこともありました。ですが昨年の場合、じつは自分の狙いとは関係なく打球が方々に散らばった、と言う方が正しかったのであります。

ようするに、引っ張ったつもりがレフト方向へ飛んだり(左打ちです)、流すつもりがライトオーバーのホームランになったり、そんなちぐはぐな感じでした。これは打者としてはある意味「不本意」と言えなくもないのですが、逆に相手の守備陣にしてみれば非常に守りにくかったとも言えると思います。

特に上手い野手ほど、バッターの一瞬の身のこなしや、バットの出かたで打球の方向を見抜く力を持っているので、と言うことは、バッター本人にも飛ぶ方向が分からないのだから、相手守備へのかく乱効果があったのではないか?、そうやって稼いだヒットも何本かあったのではないか?、そう思ったわけなのです。

しかしまあ、打撃の調子と言うのは、何故か年を越したとたんに変わっしまうものです。2004年チーム首位打者の新間選手が、2005年シーズン初めは絶不調に陥ったと言う例もあったし、キャプテン高橋も昨年のような広角打撃は期待できないかも知れません。

この現象はプロでも同様で、それが新人の場合には「二年目のジンクス」なんて言われたりします。「徹底的にデータ分析されるから」と言うのが理由だそうですが、データ分析とは無縁の素人の経験上?、それだけでは無い何かが有るような気はします。

ところで、沢村選手のその後なんですが、引退とともにマスコミから姿を消し、自動車整備工の資格を取って、整備工場を開いたんだそうです。で、それに必要な資金だけを残して、ほとんどのファイトマネーを恵まれない子ども達のために寄付してしまったと言うことです。

しかもトロフィーとか賞品の類いは全て倉庫か何処かに押し込めてしまったので、つい最近まで、彼のお子さんたちも「父親がキックボクサーだった」と言うことを知らなかったようです。

彼のその後が気になったあるライターが追跡取材をしたところ、インタビューに応じた沢村氏は、「有名になろうとか金儲けとかにはまったく興味が無かった。ただ格闘家として、キックボクシングの道を極めたかった」と語ったんだそうです。

これを聞いて僕はハッとしました。当時ボクシングが「正道」で、キックボクシングとは「邪道」、ある意味「見せ物」みたいなものだと勝手に決め込んでいたのですが、どうもそれは大きな間違いだったみたいですね。

沢村忠こそ本当の意味の格闘家で、今の、大口を叩いて相手を威嚇したりするボクサーとかいますが、あれなんか、やたら吠える小汚い野良犬のように見えてしまいます。




  

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