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47歳で天国へ行った二人

★じつは、昨年2005年は、11月に、中学から親交が続いていた友人が急死しまして、草野球のゲームを1試合休ませてもらいました。

ところがそれから二ヶ月たたないうちに、クリスマスイブの日にまた一人、中学時代の友人が亡くなったと言う知らせがありました。彼らとは中学時代「少年墓場放浪団」というバカなグループを作り、夜中に墓地をうろつき回ったりした仲間でした。みな昭和33年生まれの47歳です。

で、26日の月曜日には多摩葬祭場まで出向き、最後の見送りをして来たのです。そんなショックと慌ただしさの入り交じった年の瀬でした。

ですが、二人目の葬儀から大晦日までは一週間くらいしか有りませんでしたが懐かしい友人達と会ったせいでしょうか、友人が死んだと言うのに、なぜか日に日に心がとても安らいで来るのです。参列者の大半が中学時代の友人で、僕にとってはみな約30年ぶりでの再会だったのです。

そんな気持ちで彼らの顔を思い浮かべていると、「何んだかんだ言っても、オレたちは一番いい時代を生きて来たのかも知れないなあ」と、ぼんやり思っていたような気がします。

戦争は無かったし、子供の頃には、東京でも森も川も豊かで美しく、生き物も一杯で、どの家族も貧乏だったけど、親からの愛情がをっぷりと受け、虐待なんて聞いたことが無かった。学校からの帰り道、子どもが突然さらわれて血まみれになって殺されるなんてことは全然なかった、それどころか、日中にドアに鍵をかける家だって稀だったし・・

そんな時代でしたから、そんな時代を充分に生きて楽しんで、そうして死んだ二人は、むしろ幸せだったと言えるんじゃないか、そのようにも思えるのです。

参列者の中にかつて漫画仲間だった二人も見つけました。二人とも初心の通りアニメやイラストの仕事を続けていたことを嬉しく思いました。その一人は新年早々、1月5日〜24日の間、「スワロウデイル・アンティークス」と言う、横浜青葉区のアンティーク家具のお店でイラスト展をやるそうです(江田駅の近く)。

じつはそのお店も中学時代の友人がオーナーの店だと言うことで、みんなそれぞれに頑張って来たのだなあと、何だかとても誇らしい気分になったのです。イラスト展をやっている内に時間を見つけて「自転車」で行って来ようかと思います(現在は目黒に移転)。
◆スワロウデイル アンティークス

その漫画仲間だった一人は、最近パソコンなどを駆使して自作の歌を録音し、CDを作ったそうです。昔は漫画同人誌さえコピー機が無くてまともに作れない時代でしたから、自宅で自主制作CD(レコード?)を作れるなんて夢のまた夢でした。

小川に素足を突っ込んでカエルを追いかけていた子供らが、今では、そんな最先端ハイテクの恵みをも享受しているのです。

ただ不思議なことに、大人になって数十年間ジャズしか聴いて来なかったはずの彼が作った曲は、聴き手の耳には何故か、「フォークソング」に聴こえてしまうのです。中学のころに全盛時代を迎え、本人も一時はのめり込んだ「フォークソングの魂」が、心の奥底に生き残っているからなんでしょうか?




  

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