★ここ数日間、春先の風の強い日が続いていましたが、こういう風が吹くと、いつも聴きたくなる曲があります。
ずいぶん昔の曲ですが、山下達郎の「風の回廊(コリドー)」です。この曲は、当初「HONDAインテグラ」のCMに使われたこともあり、タツロウファンの間では(自分もそうですが)恰好のドライブソングとして愛された楽曲でもあったのです。
YouTube「HONDAインテグラ・CM:風の回廊(コリドー)」
ちょっと聴いただけだと、むかし去って行った恋人への想いを歌っているように想えます。つらい別れだったが、年月を経て傷も癒え、今ではむしろ懐かしい記憶として蘇る・・
アレンジが車のテンポと合っていて、「つむじ風」も疾走する車をたとえている感じがするし、なので、もしかすると男は、車を運転しながら恋人を想い起こしているのではないか、そんな解釈も出来るのです。
ところが、よーく歌詞を読んでみると、少し違和感を感じるのです。
「陽だまりに 髪をとかす 今でも君はそこにいる」
この「陽だまりに 髪をとかす」と言うところが、どうも、穏やかで、落ち着き過ぎていて、快活な若い女性の描写という感じがしないのです。
むしろ僕は、自分が子供のころに見ていた祖母の姿を思い出していました。母親の実家が農家だったんですが、そこに泊まりがけで遊びに行くと、毎朝必ず、祖母が結っていた長い髪をほどき、朝日の差し込む縁側に正座してとかし始める、そんなのんびりとした姿がありました。子供心にそれが印象に残っていて、この曲を聴いたとき、歌詞に触発されダブって見えて来たわけなのです。
そんなある日、タツロウ氏のFM番組で、「風の回廊(コリドー)」に関する意外な話しを聞きました。それよれば、この曲は「子供のころ母親に連れられ何度も行った、風の強い上野公園の博物館の記憶である」と言うのです。
この話しを聞いて「なるほどな」と想いました。そう言うことならば、微妙な違和感も納得が行くではありませんか。
たとえば「陽だまりに 髪をとかす」の「君」を、恋人ではなく母親に置き換えれば、あるていど年齢の行った女性の仕草だと想えるし、以後の歌詞もスッキリ意味が通って来るのです。つまりこの曲は、失恋ソングの形を借りた、「母親を回想する歌」かも知れないと言うわけです。
タツロウ氏の母堂がご存命か否か知らないので、うかつな事は言えません。が、音楽を志すにあたり、両親と激しく対立した時期もあったとのことですから、そんなアレコレを含めての母親からの独り立ちは「涙さえ見せないで去って行った」であり、ヒットを飛ばし成功した今となっては「遥か遠い日の後姿 なんて優しく蘇る」と歌いたかったのかも知れません。
確かに、恋人との数年前の日々を想い出すにしては、「遥か遠い」との言い方は、文字通り遠すぎるんです。むしろ「数十年前の子供のころ」と解釈する方がしっくり来るのです。
僕もかつて四年間、上野の大学に通い続けていたのでよく分かるのですが、上野公園と言うのは、春先になると、とにかく強い風の吹き抜ける広場で、横断するだけで疲労困憊してしまうような、そう言う場所でした。
たとえばそんな日に博物館に行って、薄暗くひっそりとした通路に立てば、天井のあたりから「ビョーッ!」という、恐ろしいような風の唸りが聞こえて来る、その感じは確かに、「風の回廊(コリドー)」と言うタイトルにふさわしい情景だと想えるのです。
タツロウ氏も何かの折り、何十年ぶりかで博物館に向かったのかも知れません。そのとき聴いた春先の強い風の音、博物館の扉へと続く通路は、遥か遠い、少年の日々へとつながる記憶の回廊だ、そんな風に想ったのではないでしょうか・・・
なんて、勝手に深読みをしてしまうのです。
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