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あるグラウンドにまつわるイヤな話し

★そのグランドは多摩川の河川敷にあります。A面からF面まで、全部で6面有ります。

ゴブリンズでもある時期までは頻繁に使用していたのですが、ここ最近はほとんど使わなかくなりました。この先も(誘われた時は別ですが)あまり使うことは無いと思います。それは、ゴロのほとんどがイレギュラーになってしまう状態の悪さと、ある「裏話」が理由です。

そこは「15時 - 17時」が最終の時間帯なのですが、不思議なことに、「17時終了なのに、17時ちょうどに駐車場が閉まってしまう」のです。ふつう社会人の常識では、17時終了なら17時30分に門を閉めるとか、17時に閉めたいなら16時30分を最終にするとか、いろいろ工夫するもんです。

ところが管理所からは、無情にも「閉じ込められたくなければ、試合を30分早く切り上げて、閉門までに出てください」なんてことを言われます。

30分早く終了すると言うことは、つまり試合前ウォームアップの15分も引くと、2時間の予約で実質1時間15分しか使用できないと言うことになります。派遣審判の方も「バカげてる」と驚く始末で、まずその辺のエピソードからして、そう言う常識の通じない「エリア51?」みたいな空間だと言うことがお分かりいただけるかと思います。

ですが、問題はここからです。ある時ここで試合を組んだのですが、確保した時間帯が「15時 - 17時」でした。で、当日、管理所へ行って何面かを尋ねると、指定されたグラウンドは何と「E面・F面」でした。

僕は「え〜!?」と血の気が引きました。と言うのも、その「E面・F面」だけはひどく離れた場所に有るんです。距離は1kmちょっと。駐車場から歩いて15分、歩きの遅い人だと20分近くもかかってしまうのです。

となると、もし開始直前に到着してしまったら、そこから徒歩15分、着替えてウォームアップするのに15分、結果、試合開始は15時30分になってしまうのです。ウチのメンバーだけならまだしも、相手チームもこの状況を伝えなければならないのですが、当日ではもう遅すぎるんです。

さらに終了時間が問題です。駐車場が閉まる前に出るため、最低でも5分前までに車にたどり着くには、「グラウンド整備に10分、着替え荷物撤収に5分、歩き時間15分」とすると、合計35分前には試合を終えなければなりません。

グラウンド確保時間120分から、それら合計時間を引き算すると、
「120分 - 30分 + 35分 = 55分」
となり、試合時間はたった「55分」しか無いと言う、何とも理不尽な話しとなってしまうのです。何ですかこれは?!。いったいどう言うことなんだ?!って話しですよね。

僕は、その日ばかりでなく、常々このことが引っ掛かっていました。グラウンドまで遠いのは仕方ないけど、もし前日に遠い「E面・F面」だと分かっていれば、早めに集合するなど対処が出来るはずなんです。

そこである日、思い切って管理所に電話してみました。ところが相手の返事は「当日にならないと分からない」の一点張りで、こちらの意見はまったく眼中に無いって感じでした。

その強情さに頭に来て、「E面・F面」の実態を説明して答えを求めると、最後には「我々には権限が無いので・・」と言い出し、その区の施設全体を統括する「センター」に電話するようにと言われました。

ムカつきがおさまらなくなっていた僕は、「今日は徹底してやるぞ!」と言う気になり、その「センター」に電話して同じように状況を説明してみました。

すると、最初は「決まりなので」とかわされていたのですが、こちらのケンマクが伝わったのか、最後には「次回の会議の議題にするので、結果は後日お知らせします」と言うことになりました。そう言われては引き下がるしか無いので、連絡先を教えて電話を切りました。

しかし、それから僅か数分後、さっそく電話がかかって来ました。出てみると「区のスポーツ振興課」と名乗る、腰の低そうな穏やかな口調の人でした。で、またまた同じことを初めから終わりまで説明すると、その人は言いました。

「おっしゃることは確かにごもっともです。ですが、こちらには様々な理由が有り、やり方を変更することは出来ないのです。どうかご理解ください」と、とにかく低姿勢で「お願いします」を繰り返すばかりでした。

その態度が本音なのか、演技なのかは分かりませんが、それ以上声を荒げて追求するのも大人げないと思い、電話を切ることにしました。ただ、事前に何面かを教えるのはムリだが、「E面・F面」になるか否かは尋ねて良いと言う許可は得ることは出来ました。

その許可に意を強くして、もう一度管理所に電話しました。「スポーツ振興課」のエラい人?のお墨付きが出ているので、何しろ強気です。「E面・F面」なのか、それ以外なのか、渋る管理人から強引に聞き出しました。


・・とまあ、かつてこんなことが有ったんですが、その「たらい回し?」の間に、チョコチョコと、本音と言うか裏話しと言うか、「実態」と呼べる事柄を聞き出すことが出来ました。

そのグランドは、ある軟式野球連盟の力が強く働いている場所で、当日の朝、いきなり管理所に「今日試合をやるから◯面を用意しておくように」と言う形で指示があるのだそうです。

連絡を受けた管理所では、予約していたチームを外して地の果ての?「E面・F面」に追いやり、連盟チームのために、A面〜D面の近場のグランドを用意することになります。

これらの行為は不定期ですが、行われるときは決まって当日の朝なので、当然、前日に何面になるかを予約済みのチームに教えることが出来ないわけです。それどころか、当日、管理所の窓口までやって来て、そこで初めて何面になるか判明する、と言う始末です。

この、接待試合なのか何なのか分かりませんが、その野球連盟には、区の「スポーツ振興課」、つまりお役所に口利きが出来るほど権力を持った人物が存在するということになります。

これを「世の中とはそう言うものだ」と、物わかりの良いフリをするほど僕は素直な大人になり切れていないのです。なので、不愉快極まりなく、今ではすっかりあの「河川敷のグランド」を使う気持は無くなってしまったと言うわけなのです。

ただ、あそこを「ホームグランド」として、とても愛着を持っているチームもあるようなので、あえてグラウンドの名称は言いませんが、ここまで書いたら、もうほとんどバレているようなもんですか? 



  

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