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幻の八幡様

★夏の思い出と言えば、こんなことも有りました。これは不思議な話しでは有りませんが、自分の勝手な空想で、少しだけ不思議じみた?記憶となって残っているお話しなのです。

小学校2年のころのことです。通っていた「保谷第一小学校」の通学路を、学校の北側へたどって行くと、駄菓子屋が一軒あって、その先はずっと雑木林になっていました。さらにその林の中のジャリ道を進んで行くと、畑や田んぼが現れ、小川が流れていて、やがて子供たちに「八幡様」と呼ばれていた、深い静かな森にたどり着くのです。

その森に案内してくれたのは「T君」と言う少年でした。彼はちょっと知恵遅れで、授業には集中できず、いたずらばかりしている子供だったのですが、クラスで一番の虫取り名人だったのです。夏になるとせんべいの四角い空き缶に、数十匹のクワガタを捕まえて来ては友だちに配っていました。普段はいたずらをされ嫌っている女の子たちも、この時だけは嬉しそうにクワガタを受け取っていたものです。

ある日、友だち数人が「T君が八幡様に連れてってくれる」と言うので、私もついて行くことになりました。彼らはT君から、虫のたくさん捕れる森が「八幡様」と言うところだと聞き出したのです。そして日曜日、僕たちは虫取り道具を抱えて自転車に乗り、T君の後をついて行きました。

果たしてそこは、夏の少年たちにとって天国のような場所でした。捕れたのは虫だけではなく、小川ではメダカやフナやドジョウ、ザリガニ、カエル、オタマジャクシなど、ほんとうにたくさんの小動物を捕ることが出来ました。日が暮れて薄暗くなるまで、私たちはそれこそ、時間の経つのも忘れて夢中で捕り続けたのです。

別れ際にT君が「化けガエル」の話しをしました。家で飼っている時、カエルがお腹を膨らませて仰向けに水面に浮いたら、それは化けガエルなのだと。そしてそうなったら最後、その夜、必ず恐ろしい夢を見てしまう・・・

私はその話しにすっかり凍り付いてしまったのですが、私のカエルには何事も起きませんでした。その代わりY君のうちで化けガエルが出たそうで、翌日の学校ではその話しで持ちきりになっていました。

その夏休み、私たちはT君の後を追って「八幡様」に入り浸っていました。たくさんの獲物を持ち帰り、飼い切れない物は近所の友だちに配ったりしていました。するとある時、隣の家の一年生の男の子が「八幡様に連れて行って欲しい」と言い出したのです。私は得意満面で案内することにしました。

ところが、二人で自転車を走らせ、いつものように道をたどって行くのですが、どうしても「八幡様」に行き着くことが出来ないのです。何度も引き返し、道順をやり直してみるのですが、何処まで行っても、あの森を見つけることが出来ません。ついには道に迷ってしまい、泣きそうになりながら何とか家に戻ったと言う始末です。

すっかり自信を無くしてしまった私は、あとになって、こっそり一人で「八幡様」に行けるか試してみたのですが、やはり迷ってたどり着くことは出来ませんでした。どうしてなのかは解りません。ただそこで初めて、「八幡様」に行く時は、「いつもT君に案内されていた」と言うことに気づいたのです。

それからと言うもの、「T君について行かなくてはならない」と言うことが煩わしくなり、また、一人でたどり着けなかったことを知られることも恥ずかしく、次第に「八幡様」から遠ざかって行ったのでした。



・・あれから40年近くの時が流れ、「八幡様」のことはすっかり忘れていました。ところがある年、ゴブリンズ(草野球チーム)のA君が野球で骨折したとき、彼を車に乗せ、家まで送ったことがありました。そのおり、彼が住んでいるマンションを訪れたのがきっかけで、あの時の記憶が甦って来たのです。

なんと偶然にも、ちょうどそのマンションの建っている辺りが、かつて「八幡様」へと続く雑木林が有った場所なのです。

そのことに気づいた私は、後日、預かっていた物を届けにA君宅を自転車で訪ねた帰り、ものは試しと、あの「八幡様」への道をたどってみることにしました。

・・が、数十年が経って道はほとんど舗装道路になっており、雑木林も消えていました。ところどころに残るケヤキやクヌギが面影を残してはいますが、たくさんの住宅が立ち並ぶだけで、あの田んぼも、森も、小川も・・

いや、コンクリートのフタをして遊歩道となった川の跡、暗渠なら見つかりました。これがあの、清らかだった小川の成れの果てなのだとしたら、そうなのかも知れません。けっきょく、「ここが八幡様だ!」と特定できる痕跡は、ついに見つけることは出来なかったのです。

・・いいえ、と言うより、私はまた、あの少年時代と同じように、道に迷ってしまったのかも知れません。もともと私は、ひとりでは「八幡様」にたどり着けない少年だったのですから。だから、ほんとうはすぐそこに「八幡様」への入り口が有ったはずなのに、私の愚鈍な眼がそれを見つけることが出来なかった、それだけのことなのかも知れません。

しかし、何も見つけることが出来ないまま保谷市(現・西東京市)を抜け、新座市との市境に差し掛かった辺りで自転車を止めている時、とても妙な錯覚にとらわれてしまったのです。

もしかしたら、「八幡様」なんて場所は、本当はこの世に存在しなかったのではないだろうか?。じつはほかの友だちも私と同様、ひとりで「八幡様」へ行こうとして、人知れず失敗していたのかも知れない・・

つまりあれは、T君にしかたどり着くことの出来ない、不思議な、幻の森だったのではないのか、と言う空想的な疑問です。

だとしたらT君は、まるで「風の又三郎」のような少年で、ひょっとすると、今でも少年のままの姿で、たったひとり、あの不思議な森の中で遊んでいるのかも知れません。音のしない、深い深い森の、日が暮れる時刻まで・・・

これは妄想です。が、だとしても遠い昔ボクは、あの「八幡様」へと続く道の途上で、大切な友だちとはぐれてしまった、それだけは確かなのです。


◎ かつて八幡様の入り口が有ったはずの五叉路




   

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