スキップしてメイン コンテンツに移動

加藤栄吾・高橋フミアキ 二人展

加藤栄吾・高橋フミアキ 二人展」
(終了しました)

6月24日~29日
12:00~19:00(最終日17:00まで)
中野画廊アヴェニュー
(現在閉廊されています)

★グループ展「元気なアート展」にお越しいただいた方々には御礼申し上げます。第二部(高橋は出品せず)が七月から有りますが、その前に、6月後半から同じ画廊で二人展をやります。

今回は最大「95cm×95cm」の大きな作品も出品します。加藤氏は芸大の同期で油彩画ですが、私は前回同様オールCGペイントの絵画になります。

使用機器は、iMac 21.5インチ、
ワコムIntuos3タブレット&スタイラスペン
使用ソフト painterX
プリンター EPSON PM-4000PX(8色顔料インク)

期間は短いのですが、グループ展よりもサイズが大きく、一人の作品数が多いので、作家ごとの見応えは有るかと思います。また中野ブローウェイは「サブカルチャーの聖地」とも呼ばれているところで、画廊以外にも面白い店などがたくさん有ります。そう言った点でも楽しめるはずです。


加藤栄吾(かとう えいご)略歴

1955・埼玉県日高市生
1982・東京藝術大学大学院美術研究科 修了
個展多数 
1981 G・アートギャラリー(銀座) 
1983・84 ルナミ画廊(銀座) 
1988・1991・2000・2002・2004
わたなべ画廊(飯能市) 
2001・2002・2005 伊勢丹 そごう 三越等のデパート 
2006・2008 中野画廊アヴェニュー(中野) 
2007 京王プラザホテル ロビーギャラリー(新宿)
グループ展多数 
1984 「フォア・ボールズ展」 代々木ギャラリー 
1985 「平面・五人展」 東京藝術大学展示室 
1986 「FIVE SENSES ’86」 東京藝術大学展示室 
1988・1993世田谷美術館 
1989・2001・2002・2005・2007 埼玉県立近代美術館 
1991・2004・2005・2006 わたなべ画廊
2007 中野画廊アヴェニュー他


高橋フミアキ (たかはし ふみあき) 略歴

1958・東京板橋区生まれ 
1982・東京藝術大学油画科卒業 
1982・株式会社コンピュータグラフィックスラボ入社
1988・退社後フリーランス
雑誌、文庫本、ポスター、パンフレットなどのイラスト制作
展覧会歴
グループ展「Sight Seeing UENO」(油彩画) グループ展
「ONE DAY エキジビション」(アクリル画) 
TEAM ブンチカ2人展「B.C.展」(アクリル画・粘土オブジェ) 
わたなべ画廊企画展「アートスクランブル 2005~2007」(CG ペイント)
絵画入選歴
第8 回日本グラフィック展入選(アクリル画)
第10回日本グラフィック展入選 (アクリル画)
日本イラスレーション展入選(JACA)(アクリル画) 
クレセントコンペ'90 メイドイン大賞入選(アクリル画) 
ON PAPER GALLERY 入選(アクリル画)
東レ・デジタル・クリエーション・アワーズ2002 入選(CG ペイント) 
東レ・デジタル・クリエーション・アワーズ2005 入選(CG ペイント) 
文化庁メディア芸術祭平成15年度(第7回)審査員推薦作品(CG ペイント)




  

コメント

このブログの人気の投稿

ぐうたら?主婦は政治にくわしい

★父親がもう何年も前に定年退職して、朝からテレビを見るようになって、ちょっとしたカルチャーショックを受けたようです。 それは、「ワイドショーは政治をとても 詳しく放送する 」と言うことです。 父親は昭和一桁生まれで、その世代に有りがちな色々な偏見を持っているのですが、特にワイドショーなんてモノは、主婦が見る、くだらない芸能ネタみたいなモノばかりだと思い込んでいたらしいので、かなりの驚きだったんでしょう。 確かに最近のワイドショーは、以前より政治ネタをよくやるようになった気がします。僕の記憶によれば、発端はテレビ朝日だったと思います。 久米宏の「ニュースステーション」、田原総一朗の「朝まで生テレビ」などのヒットにより、「ニュースネタはウける」と見込んだテレ朝が、「モーニングショー」の司会に、国際ジャーナリストの「内田忠男氏」や、現・自民党参議院議員「武見敬三氏」を起用したのが始まりだったと思います。 で、これがやがて、各局のワイドショーにまで波及して行ったのです。 しかも事例に合わせて様々な専門ゲストが招かれ、それこそ芸能ゴシップ的ノリで、ニュースや討論番組では到底やらないような裏の裏まで、こと細かに解説をしてくれるのです。 たとえば今話題の「インド洋給油支援」ですが、他の国はこれを有償でやっているのに、何故か日本だけが「無償援助」、つまりダタで油をくれてやってるのを知っていましたか?。 この事は最近になってようやくニュース等で報道されるようになりましたが、ワイドショーを見てた人なら、ずうっと前から知ってましたよね?。(僕もずっと前から知っていましたよ?) おまけに政権は、「給油支援」を「国際貢献」だなんて言っていますが、これは実際には国際貢献ではなく「アメリカ貢献」なんですよね。 社会学者の宮台真司さんは、「アメリカの尻ナメ外交」なんて言い方をしてますが・・ その証拠に「たけしのTVタックル」で、あのハマコーさんが、「アメリカってのはな、冷酷な国なんだぞ!。今、給油支援をやめたらどんな制裁を受けるか!?」と、顔面を痙攣させるほど興奮して語ってましたっけ・・ 「あらら、言っちゃったよ」って思いましたね。ハマコーさん根はいい人、正直者なんだなあ・・、あの一言で「アメリカの尻ナメ支援」だってことがバレバレになっちゃいましたよね? まあ...

ブレード走行から2週間、男達の旅はまだ続くのか・・

★「ブレード隊2009延長戦」が終了して二週間が過ぎました。46km越えの激走が、すでに思い出になりつつあるのが不思議です。 これまでは終了後に「走行記」を書くのが恒例だったのですが、「ルートが決まっているサ イクリングロードの旅」は変化が少なくて、内容をムリにひねり出さなくてはならず大変なので、今回は見送ることにしました。が、やはり何か物足りない気はします。 初めて「走行記」を書いたのは、ローラーブレードで八王子から山中湖(85km)まで行った時でした。動機としては色々あったのですが、そのひとつに、負け続きの弱小チーム「ゴブリンズ」の話題作りが有りました。 当時のゴブリンズは、勝ち試合が年に一回有るか無いかの弱いチームでしたが、「鴨川キャンプ」「部費年俸制度」、「チーム内スポーツ新聞ゴブリンズレター」など、他チームには無い話題作りをして、チームの存続をギリギリでつなぎ止めていました。 「ヒドく弱いチームなんだけど、あそこに行けば、必ず何か面白いことが起こる」、そう言うイメージを作ることで、ゴブリンズの存在価値を上げよう思ったわけなのです。 で、ブレード走行を敢行し、その走行記を面白おかしく書いて、ゴブリンズレターに掲載することを思いつきました。今はこう言うウェブサイトに書くことが出来ますが、当時はコピーして郵送すると言う方法でした。 これがけっこう反響が有ったらしく、物珍しさや好奇心で、人々が集まって来るようになりました。さらに、元々はCGプロダクションの社内チームだったので、転職であちこちの会社に散らばった知り合いにも根気よく発送した結果、CG業界で「いつかゴブリンズに入団したい」と言うヤツが増えてる、と言う話しも聞くようになりました。 ずいぶん昔ですが、仕事の打ち合わせに行って帰ろうとしたら、見知らぬ坊主頭の若い男に呼び止められ、「仕事に余裕が出来たらゴブリンズに入れてください」と挨拶されたことが有りました。それが先日も対戦した「高野連」の代表・高野氏でした。けっきょく彼はゴブリンズに入ったあと自分で新しいチームを作り離れて行くのですが、かつてのゴブリンズにはそんなエピソードも有ったと言う例ですね。 ところが、良い事ばかりでは有りません。当初こそ反響を呼んだブレード走行ですが、何度も重ねて行くと...

夏の甲子園100回大会で思い出したこと

★個人的な理由で半年ちょっと更新ありあせんでしたが、そろそろまた書こうかなと言う気持ちになってきました。そんなおり、「夏の甲子園100回大会」とのことで、あちこちのテレビで「甲子園特集」を放送しているのを見まして、「そう言えば自分にも、今もなお記憶に残る夏の甲子園があったな」とブログに書いたことを思い出しました。 「夏の第55回大会」のことです。あの「怪物・江川卓」が最後に出場した甲子園での出来事‥‥。あのとき僕はと言えば、友人4人と伊豆大島の砂の浜海岸でキャンプをしていたのです。 今回は更新の代わりにその記事を「再リンク」することにしました。時間があったら下記のリンクから読んでみてください。 ↓ GOB-MESSAEGE ◎ あの夏の日、怪物くんが・・ ★今年の甲子園は面白かったです。夢中になりました。 幸い?昼間にテレビを見れる環境にいたのですが、 高校野球はあまり興味が.・・   

間違いだらけの・・

 ★今では漫画もイラストも、コンピュータで描きデータ納品することが当たり前で、納品もメールかダウンロードで先方に送るのが常識となってますが、これはまだ僕が、イラストボードに絵の具で描いていた頃の話しです。 その日は、出来上がったイラストを納品するために、都心の、とあるデザイン事務所に出かけていました。そこは皇居のお堀の近くで、ビル(マンション?)の7階でした。デザイナーに作品を手渡し、エレベーターで1階まで降りる途中のことです。 何階だったか忘れましたが、不意にエレベーターが止まり扉が開きました。乗り込んで来たのは、小太りで白髪まじりの初老の男性でした。見たことのある顔だったので、僕は反射的に、「あっ、こんにちは・・」と笑顔で挨拶してしまったのです。が、相手は怪訝そうな表情でこちらを覗き込み、それから低い声で「こんにちは」と返して来たのです。 その様子にこちらも不安になり、「顔は知ってるんだけど、ハテ、誰だったっけ?」と、背中を見ながらアレコレ考えている内に、「あっ!この人、自動車評論家の徳大寺有恒さんだ!」と想い出したのです。いろんなメディアで見ていたので、つい「顔見知り」だと思い込んでいたようです。 「しまった・・ マズかったかな?」と少しバツの悪い想いをしていたのですが、1階に到着し扉が開くと、「では、お先に」と、軽く会釈しながら外へ出て行かれたのでした。その自然な振る舞いのおかげで、後味の悪い想いをせずにすんだのです。 その「徳大寺有恒さん」が、11月7日に亡くなりました。訃報が流れた時、しばし言葉を失い、免許とりたてで車に夢中になっていた頃のことを想い出していました。 同氏の著書「間違いだらけの車選び」のシリーズがヒットしていた頃で、夢中で読みあさった記憶があります。徳大寺氏の「間違いだらけの車選び」と、三本和彦氏の「新車情報(TVK)」が、車に関する欠かせない情報源でした。 徳大寺氏の著書で一番印象に残っている言葉は、「群れて走るな!」と言う一節です。これは「間違いだらけ・・」だったのか、それとも他のエッセイ本だったのか、もう想い出すことは出来ませんが、これは今でも僕の運転の信条となっています。まあ一般道ではある程度仕方無いですが、高速などでは、極力他の車が見えないくらいの距離をおいて走るようにしています。 これは中々難しいのですが、いわゆる「金...

安物買いをしよう!

★昨年12月「TOSHIBA VARDIA 地上・BS・110度CSデジタルチューナー搭載ハイビジョンレコーダー300GB」を買いました。値段はAmazonで¥55'000-くらいでしたかね。 「ハードディスク・ビデオデッキ」が出始めの頃は、ソニー製の30GBクラスで、¥198'000- ほどしたのを覚えています。大むかし、出始めの頃のハイファイビデオと同じくらいの値段ですね。 かつて(自称)誰よりも?新し物好きだった私は、第一次AVブーム(アダルトビデオではないですよ)の時、29インチのモニターテレビとハイファイビデオを購入して、約50万円を支払いました。 しかし昨年、37インチのフルハイビジョン・デジタル液晶テレビがなんと¥150'000-で買えたのです。そしてハイビジョンレコーダー(DVD付き)が¥55'000-くらいだったから、合計約¥205'000-ですよね。もちろん、その性能は素晴らしく、かつての比ではありません(悲しいくらい・・)。本気で、「あの50万円を返してくれ〜!」と、心の中で叫んだものですよ。 パソコンもそうですね。10年くらい前、絵を描くためにパワーMac7500を導入しようとして、そのためのシステム一式で70~80万かかることが解り断念したことが有りましたが、それが今では、はるかに超える性能を持ちながら10数万程度で手に入るのです。 そんなことが続き、今や私の中では、「新しモノ好き」はむしろ「時代遅れ」を意味する言葉になってしまったのです。そしてハイテク製品は、出来るだけ出始めのハイスペックモデルは買わないように心がけるようになったのです。 今10万以下の品物を買えば、2~3年前の20~50万に相当する品物が手に入ります。最新テクノロジーは手に入りませんが、短いサイクルで交換することが可能です。50万払った人が5年我慢している間に、5回も買い替えが出来るのです。 とは思っても、店頭で見ていると、ついつい「どうせ買うなら最高のヤツを!」と、ドス黒いブツ欲が沸き上がって来るんですがね。そこはそれ、人生の修行です。心穏やかにして、深〜く瞑想し、何が一番大切なのかを自分の心に問いかけてみましょう。 ・・そんなわけで(?)、今回はブルーレイを買わ...

オレンジクリーナーを買った、ダイソーで・・

★ある年の冬、白いダウンジャケットを着て自転車で出かけようとしたら、途中で自転車のギアの調子が悪くなりまして、家に戻り、出かけた時のままの格好で、ギヤやチェーンをいじり出してしまったことが有ったのです。 自転車をいじる時は、ホントは汚れていい格好に着替えるのが原則なのですが、直したらすぐにまた出かけるつもりだったので、ついつい白のダウンのままやってしまったのです。そうしたら案の定、知らぬ間に、袖からヒジにかけてべっとりと黒い油汚れを付けてしまったのです。 その時はもうガッカリしまして、「このダウンはもう着れないなあ」とあきらめてしまったのです。それまではマメにクリーニング店に出したりしていたのですが、ガッカリし過ぎて、そんな気力も無くなっていました。で、しばらくそのままにして、古い紺色のダウンジャケットを着ていたのですが、ある時、ダイソーで物色していたら、写真の固形石鹸「スーパーオレンジクリーナー」を発見したのです。(もちろん税込み:¥108) 箱の注意書きを読むと、「オレンジオイル配合」を書いてあります。これまで「シトラスクリーナー」とか「オレンジスプレー」など、「オレンジオイル」が油分を分解することは経験上知っていましたが、あれは主にインラインスケートのベアリングの掃除などに使用したものでした。 が、これはどうも「衣類」の部分洗いに使うものらしいのです。で、なぜか「ひょっとしたら、これで白いダウンの油が洗えるかも知れないぞ」とひらめいてしまい、ダメもとで試してみることにしたのです。ついでに軽くこする用のブラシを購入し、帰宅しました。 洗面所で汚れた部分を水に浸し、オレンジクリーナーをこすり付けて泡立て、その上からブラシで汚れを削り出す、と言う感じで作業を進めると、みるみる内に汚れが流れて行くのです。それを水で洗い流してみると、驚いたことに、ほぼ油汚れが落ちていたのです。わずかに小さなうすい灰色のシミが残ってはいましたが、パッと見はまったく分かりません。 「これはいい!」と言うことで、それ以外の汚れや、襟の汗染みもこすり落とし、袖の毛糸の部分も真っ白にして・・、しかしながら、それを手洗いでゆすぐのは大変なので、もうすっかり水分に浸してしまった後だし、無謀か?とは想ったのですが、「エイヤッ!」とばかりに、洗濯機に突っ込んでしまったのです。 脱水の時にダウンジャケット...

夏の甲子園の危機?

★「今年の夏はとにかく暑い!」と言う声があちこちから聴こえて来ますが、印象深かったのは、あれほど暑さに強いはずの甲子園球児にも、とうとう熱中症の選手が出始めたと言うことでしょうか。 今までは応援団や審判がやられたと言う話しはあったんですが、今年は埼玉の予選で数名が倒れたと聴いているし、本番の甲子園では、特に先発投手が8回9回あたりで、熱中症による脱水症状で、足の痙攣に見舞われると言うシーンが数回有りました。 そのせいか、まだ少数ですが「もやは夏の甲子園は危険だ」との意見が出始め、評論家の中にも「ドーム球場での開催も考慮する時期なのかも知れない」と言い始める人が出て来たようです。甲子園のベンチは冷房が効いているとの話しを聴いたことがありますが、それでも間に合わない状況になりつつあるのかも知れないです。 まあ、「甲子園球場」と言う象徴的な場所以外での開催と言うのはかなり難しいような気もしますが、しかし、猛暑の夏は今年だけでは終わらない、これからは毎年のように続くのだ、と言うことは、みな、薄々感じているんじゃないでしょうか。 今年の甲子園で話題の出来事と言えば「某高校の選手のカット打法」が、反則打撃だと警告された件ですかね。これには世間のさまざまな反応が有りまして、「ルール上問題は無い」とか「対応する時期が遅すぎる」などと、批判する声がずいぶんありました。 私は正否を判定する立場には無いのですが、個人的に想ったのは、対戦が進むにつれ、熱中症の症状に見舞われる投手が多発したことが、審判団に決断を迫らせたのではないか、と言うことでした。 この選手の成績を調べてみると、彼一人だけで、相手投手に30球~40球も投げさせる傾向にあったようです。そうなると、たった1試合で途方も無い球数を投げてしまう恐れも有り、あの、毎日のように続いた35~40度クラスの猛暑下では、場合によっては重大な健康上の問題を起こしかねません。 しかも、カット打法を長引かせた結果、後半、相手投手が足の痙攣を起こして退場せざるを得なくなった様子を見て、カット打法を行なった選手とメンバーがベンチ内で高笑いをしている姿がカメラに映されてしまったのですね。これ非常に印象が悪かったです。(こう言うのは高校野球をスポーツニュースなどダイジェストの数分で見ている人には...

東京スカイツリー見学

★東京スカイツリーの日時指定チケットが抽選発売されると言うことで、何気なく8カ所申し込んでおいたら、5月30日の1カ所4名分が当たりました。 何気なくだったんですが、いちおう、6月は梅雨で天気が悪そうだし、7月は暑くて出歩くのがおっくうだ、と言うことで、どうせ当たるなら5月、それ以外なら「まあいいや」と言うことは考えました。 と言うことで、当たった30日の朝は幸運にも快晴、現場に到着する10時頃にはやや雲が出て来ましたが、そこそこいい感じの天気です。 着いて、まず驚くのはその巨大な外観ですね。車などで浅草付近から眺めたことは何度も有りましたが、間近で見上げると、やはり圧倒されるような迫力が有ります。 さて、まずは展望デッキに昇ります。第一展望台の「展望デッキ」は、その時点で東京タワーのアンテナより高いと言うので、「わざわざ上の展望回廊まで行く必要も無いだろう」と想っていたのですが、デッキに昇ってチケット売り場を見たら、そんなに待たずに買えそうなので、さらに上へ行くことにしました。 で、昇ってみたら正解でした。下の展望デッキは室内が暗く、窓が逆光で疲れる感じなのですが、「展望回廊」の方は全体に光が入って明るく、はるかに外が見やすいのです。なので、これから訪れる人には、ぜひ「展望回廊」まで昇ることをおススメします。 それと、意外に役立ったのが望眼鏡でした。8倍~10倍くらいの物を携帯していけば、地平線や水平線付近が良く見えて楽しいですよ。 もちろんツリーには東京タワーに有ったようなコイン式の望遠鏡は有りません(東京タワーも数年前に撤去されたそうですが) ところで、展望回廊を歩き回っていたら、その内、妙な感覚に襲われました。何となくフラーッフラーッと、めまいと言うか、体がよろめくようで、まっすぐ歩きづらい感じになったのです。ですが、気分が悪いわけじゃ有りません。ただフラつくだけなのです。 急に気圧が下がったせいだろうか、とか、気づかない周期でゆっくりと揺れているんだろうか、など、いろいろ考えましたが、原因は不明でした。ただ、同行した者も同じことを言っていたし、周囲にいた人たちの雑談からも「なんか、フラフラしない?」と言う声が聞こえていたので、自分だけじゃなかった、と言うことは確かです。 テレビなどで...

年賀状のホントの意味

 ★今年もまた年賀状の用意をする季節となりました。最近はLINEだのメールだのがあるので、わざわざ紙のハガキに書いて出す、なんて面倒がる人も多いようです。かく言う僕も、友人知人からは、どちらかと言えば「あまり年賀状を出さない人間」として見られているかも知れません。 しかしですね、じつは、自分にはある信念?のようなモノがあって、そうなっているのです。「年賀状とは、遠く離れた友人どうしが、年に一度手紙を出し、互いの消息を確かめ合う」これが、年賀状の始まりなのだそうなのです。僕はこの本来の役割のために年賀状を出したいと思っているのです。 なかなか会う機会も無くなった古い友人同士が、一枚のハガキを頼りに互いの消息を確かめ合い、新しい年の健康を祈る、それが年賀状の本来の役割りなんです。 ところが現状はどうでしょう。いつでも(ひょっとしたら毎日?)顔を会わせる人ばかりが年賀状をやり取りし、遠く離れた人に対しては、「会わなくなってもう三年になるから、そろそろ出さなくてもいいかなあ」などと、フェードアウトで知らんぷり、ってのが実情ではないでしょうか。 へそ曲がりの僕はこれに反発したかったのです。現在進行中の友人知人よりも、むしろ離れて縁遠くなった人にこそ年賀状を出そう!。そんな「年賀状本来の使用法」に則って行動したかったのです。 しかしながら、これはウマく行きませんでした。親しい人からは筆不精だと思われ、縁遠くなった人からは「忘れたころに突如舞い込んだ年賀状」に戸惑ったような返信が届いたり・・。そのビックリしたようなコメントを読み、何か迷惑をかけたような心境になって、次からはつい遠慮してしまうのです。 現代社会においては、年賀状本来の姿を復活させることは困難なのだと言うことを思い知らされました。で、結果として僕は、はたから見れば「あまり年賀状を出さない人間」になってしまったのです。 もともと僕は「絵描き」の端くれなのですが、そういう芸術家気質の人間のやることは、なかなか世の中に受け入れられないモノではありますね。僕の場合「物事の原初を大事にする」と言う信念、気質がありまして、それが行動の根本になっていることが多いのです。 この間テレビで、ラグビー日本代表監督として大躍進させた「エディ・ジョーンズ氏」が、大勢のラグビー関係者の前で講義をしている場面に出くわしました。そこに出席...

「おくりびと」と「つみきのいえ」

★「第81回アカデミー賞」で「おくりびと」が外国語映画部門のオスカーを受賞し、大変な話題になっていますが、短編アニメーション部門の加藤久仁生監督(31)「つみきのいえ」の受賞も素晴らしかったですよね。 この作家は以前「shockwave」と言うサイトにて「或る旅人の日記」と言うのを発表し、それを見て、とても良い作品だったので、こちらのサイトでも紹介したことが有りました。 そのアニメ作家が、やがてアカデミー賞を取るまでになるとは思いませんでしたが、自分の見立ては正しかったと、「やっぱりな」と言う気持で嬉しく思いました。 「つみきのいえ」は受賞ニュースの映像でしか見て無いのですが、なんとなく「或る旅人の日記」の方をもう一度見たくなり、サイトを訪問してみたら、「shockwaveサービス終了」と言うことになっていました。いろいろな理由で立ち行かなくなったのでしょうか。 それにしても、喜びと、ある種の寂寥感を覚えた一日でした。