スキップしてメイン コンテンツに移動

母親が亡くなる時に起こった不思議な出来事

★今年もお盆の時期がやって来ました。じつは2018年は、母が2月、父が10月にと相次いで亡くなりまして、その二人分の後始末?に追われ、長い間ブログをお休みしていたのです。で、ようやくメドがついて来まして、再開することになったのですが、やっぱり最初は「この話題」かな・・と思った次第なのです。

2018年の2月初めでしたか、夕食後、母親と世間話しをしている最中、妙なことを言い始めたのです。・・それは以下のような言葉でした。

「あとはお前の好きなようにやっていいから。自分のやりたいように生きていけ」

記憶にある限り、人生訓だとか、改まったモノの言い方を聞いたことが無かったので、ビックリして、返事も出来ず、まじまじと母親の顔を見てしまいました。・・そして、その十日後ぐらいだったと思います。突然、母が僕の目の前で倒れたのです。

1分前まで、ごく普通に話しをしていたその姿のまま、突然胸を押さえたかと思うと、僕の目の前で意識を失ったのです。大急ぎで救急車を呼び、日赤病院に運び込んだのですが、その時にはすでに息絶えていました。担当の医師によれば、「倒れた時点で、ほぼ即死の状態だった」とのことでした。

母親の死因は「急性大動脈解離」。確か、アンパンマンで声優をしている女性が、首都高速で運転中に突然亡くなったと言う、あの死因も同じ、大動脈解離だったと記憶しています。

当初は、「体調も普通だったし、思いもしなかったなあ・・」
と呆然としていたのですが、しばらくしてから、あの夕食の後の妙な「人生訓?」を思い出し、もしかしたらあれが「虫の知らせ」と言うヤツだったのだろうか、と言う気がして来たのです。

で、通夜だの葬儀だのの合間に、集まった親戚と話しを聞いているうちに、僕以外にも、いろいろ「予兆」を感じた人がいたようだ・・、と思い知らされたのです。


従兄弟の嫁さんから聞いた話し

「今にして思えば・・」とはよく聞く話しですが、最初に話しをしてくれたのは、従兄弟の嫁さんでした。彼女によれば、母が亡くなる数日前に会った時、「妙な違和感」を感じた、と言うのですが・・・

従兄弟夫婦はウチのすぐ近くに住んでいて、その嫁さんは母を慕い、時々訪れては長々とお喋りをする「茶飲み友達」だったのです。そうして帰るときはいつも、母親が玄関から見送るのが常でした。

が、その日に限っては違っていました。何を思ったのか、母はサンダルを履き、表に出て、彼女について行こうとしたのだそうです。

2月の一番寒いときだったので、「おばさん、いいよ寒いから」と言うのも聞かず、母は家の前の路地を彼女と一緒に歩き、曲がり角までついて来て、そこからずっと彼女の姿が見えなくなるまで立っていたと言うのです。

数十メートル先の街道に出る寸前で振り返ると、母はまだそこに立っていたそうです。そしてそれが、彼女が見た母の最後の姿でした。


10年間続いた習慣が途絶えた朝

次はまた別の話しです。

母親が亡くなる当日のこと、およそ19時間前の早朝、僕は、母親を埼玉の伊奈町に住む叔母夫婦(母の妹)の家へ連れていくため、車の準備をしていました。

母は月に一度、仲の良い叔母を訪ねて食事をし、ついでに地元の美容院に立ち寄ってパーマを当ててもらうのが習慣になっていたのです。それはもう20年ほど続いていました。

元々最初の10年は、一人で電車で出かけていたのですが、ある年の猛暑の夏、熱中症になって一週間ほど寝込んだことをきっかけに、僕が埼玉まで、車で送り迎えをするようになったのです。

僕も、母が用事を済ませている間、叔母の家を起点に車を走らせ、埼玉・群馬など地方の美術館を訪れたり、巨大ショッピングモールや、ホームセンターを物色すると言う楽しみを発見し、月に一度の息抜き的ドライブとして、気づけば10年ほど続いていたのです。

その10年間、まったく変わらなかった母の習慣がありました。それは、片手で押すカートバッグを必ず持参すると言うことでした。それが、その日だけは違っていたのです。カートを自分の部屋に置きっ放しにし、手ぶらで車の後部座席に座ろうとしていました。

「あれ?、カートは?」と尋ねると、
「ああ・・、もういらないから、積まなくていいよ」
と、気のない声で答えたのでした。

約10年間、一度たりとも手放さなかったカートを置いて行くことに、妙な違和感を覚えつつも、「まあいかか」と運転席に乗り込んだのでした。


叔母が見た母の異変?

ウチから、叔母の住む埼玉の家までは片道約40km、多少の渋滞はありますが、車で2時間ほどで着きます。カートを積まないこと以外は、いつものように7時出発で9時過ぎには叔母の家に着いていました。

その時です。叔母の家のドアを開け、母を先に入らせてから履物を脱いでいると、突然、
「どうしたの?!、姉さん!。そんなにゲッソリ痩せて?!」
と、大きな叔母の声が聞こえたのです。顔を上げると、叔母が青ざめた表情で立っていました。

そして、「ねえ?、・・ひどく痩せたよねえ!?」
と、震える声で叔母は僕に問いかけたのですが、よく意味が分からず、
「うーん・・、毎日見てるから、変わったようには思えないけど」
と答えたのです。

ところがその後、母がリビングの椅子に腰掛ける頃には、どう言うわけか、いつもの母の顔に戻っていた・・、と叔母は言うのです。叔母は納得がいかない様子で、何度も母の顔を見ながら、「おかしい・・、何でさっきあんな風に見えたんだろ」と繰り返していました。

叔母が一瞬見たのは、いわゆる「死相」と言うものだったんでしょうか?


いつもと違う美容院での別れの挨拶

それでも僕は、「何か異変が起きている」とは思っていませんでした。光の加減で変な風に見えたのだろうと思っていました。が、もう一人、母親の異変?に気付いた人物がいたのです。埼玉に行くたびに訪ねる美容院の女性でした。

それは、パーマが終わり店を出る時のことだったと言います。その美容院は予約制なので、一週間くらい前に電話で予約をするのです。なので、パーマが終わって店を出る時には、いつも「それじゃ、またね」とか「また連絡するね」と言うのが、20年近くも続いた合言葉になっていたのです。ところがその日だけは違っていたと言うのです。

「それじゃあ、さようなら・・」
母はそう言って、何故か深々と頭を下げたそうなのです。その言葉、去って行く後ろ姿に、美容院の女性は、妙な胸騒ぎを覚えたと言うのです。

そうして、その別れの挨拶から約10時間後、午後11時ごろだったでしょうか。母は倒れ、息を引き取りました・・


・・こんな風に「虫の知らせ」とも言うべき、いつもと違う行動や言動をしていたのですが、母本人が具体的に、自分の死を予知したとか、予兆を感じていたと言うことは無かったと思います。

じつは、その数ヶ月前から父親の足腰が弱って来て、2018年1月には「介護認定2」を受けていました。母は父の姿を見ながら、「これから、いろいろ準備しなきゃね」などと、数年先の父との生活を案じていたからです。

つまりは、すべて無意識の行動・言動だった、と言うことになるわけです。


誰もいない部屋で、人感センサーが何かを感知

母が入っていた互助会のお陰で、何から何までやっていただきまして、葬儀初心者?としては大変助かりました。そうして火葬を終え、四十九日・納骨の準備を進めていたころ、いくつか不思議なことがありました。

その一つは、一言でいうと、
「誰もいないはずの部屋で、人感センサーが反応した」
と言うことでした。

要介護認定を受けた父ですが、それでもトイレや風呂は一人で出来ていました。しかし、その場所へ行くまでの足取りが危うく、転倒の恐れがあり、特に夜のトイレは心配だったので、父の部屋に、人感センサーでチャイムが鳴る装置を仕掛けていたのです。

父が夜中に、トイレへ行こうとモゾモゾ動き始めると、センサーが感知して、僕の部屋の無線チャイムを鳴らす、と言う具合です。

このセンサーは、母が亡くなる1ヶ月ほど前から設置していました。電気の消費も少ないし、スイッチを入れ忘れると大変なので、通電したままにしてありました。つまり、母の葬儀の一ヶ月前から四十九日が来るまでの、少なくとも約2ヶ月間は、ずっと人感センサーは付けっ放しになっていたことになるのです。

そしてある日の昼間のこと・・。僕は二階でパソコン作業をしていました。すると、12時近くになったころ、その「ワイヤレス人感センサー」が、誰もいないはずの、一階の部屋で何かを感知したのです。

父は茶の間でテレビを見ているはずだったので、突然鳴ったチャイムに、「まさか一人で歩き回ってんのか?」と訝しく思い、階段を降りて寝室のドアを開けました。

ところが、センサーの有る部屋には誰もいなかったのです。父は、やはり茶の間でテレビを見ている最中で、CMらしき音声が遠くから聞こえていました。

「おかしいな・・」と思い、足を踏み込んでみると、自分の動きが感知されたらしく、二階から小さくチャイムが聞こえて来ました。

いわゆる赤外線センサーなので、何かの熱源が有るのではないかと探ってみたのですが、それらしき物は見当たりませんでした。北向きの和室で、障子を閉めてあるので、明るい日光が差し込むということも有りません。

「まさかなあ・・(母親が?)」と思いながら自分の部屋に戻りました。

その日はそれ一回のみで、あとは鳴ることは有りませんでした。 しかしながら、四十九日を待つ間、計3〜4回くらいでしょうか、同じように「チャイムが鳴り、行ってみると誰もいない・・」そんな現象を繰り返し体験することになりました。


天井裏で動き回る得体の知れないモノ

別の日、これもまた四十九日を待つある日のこと・・・

夜中、確か午前1〜2時くらいだったと思います。人感センサーのチャイムに起こされて父のトイレに付き合っていた時、何気なく、母の遺骨がある部屋を覗いてみると、天井裏を複数の何かが「ガサ、ガサ、ガサ、ガサガサ・・・」と這いずり回る音がしていたのです。

それは、聞いたことの無い不気味な音でした。

たとえば子供のころ、安アパートの天井を、ネズミが走る音なら聞いたことがあります。また鳥が屋根の隙間に巣を作り、何かに驚いて羽ばたく音も知ってます。が、それらとはまったく違う種類の音でした。

そもそも音がしているのは、二階の天井ではないのです。一戸建ての一階の天井裏です。そこにどれほどのスペースがあるのか知りませんが、こんな、あちこち動き回るモノが入り込む隙間などあるのでしょうか?

ではいったい何なのか?。「得体の知れない寒気がするような感じ」から、あることを思い出しました。「ひょっとすると、"魑魅魍魎(ちみもうりょう)"の仕業ではないか?」。脳裏にそんな言葉が浮かんだのです。

あれは、水木しげる氏の漫画で見たと記憶しています。亡くなった人の遺体や遺骨を安置していると、低級な霊魂や動物霊など「魑魅魍魎」の類が面白がって集まって来る・・、と、そんな話しです。

「くそ、母親の安息が妨げられて堪るか!」とは思ったんですが、しかし、僕には霊能力?は有りません。そこで「どうやったら追っ払うことが出来んだ?」と考えいていたら、母が好きでよく見ていた、「オーラの泉」の江原啓之氏のことを思いついたんです。

母は、江原啓之氏の著書も何冊か購入していまして、パラパラと見せてもらった時に、その本の巻末に、結界を張って魔除けをする「結界キット?」なるモノが付録になっていたのを思い出しました。

で、母の部屋の本棚から取り出し、ハテどんなもんか?と思いつつ、能書きに従って「結界キット」なるモノをセットし、粗塩を撒いて、柏手を打ったり合掌したりしてみました。

・・するとどうでしょう。それを境に、天井裏の這いずり回る音はパタリと消えてしまったのです。以降、四十九日を過ぎて、年を超え、現在に至るまで、まったく音はしていません。・・と言うより、この家を建ててから数十年、天井からあんな気味の悪い音がしたのは、あの夜たった一回きりだったのです。

最初はマユツバだなあ、と思っていた「結界キット」ですが、やってみたら、なかなか効き目あり?と言う気がしました。


・・以上が、母親が亡くなった時に起こった不思議な?出来事のいくつかです(まだまだ色々ありました)。人によっては「不思議でも何でもない。こじつけでしょ」と言うかも知れませんが、まっ、それはそれで構いません。

僕としては、母の死から8ヶ月後に起こる「父親の死」に際し、そのあまりに何も起こらない平凡な?死にぎわと比較し、母の死には色んなことが起こったなあ・・と言う感慨として、ここに書かせてもらっただけなのです。

子供のころから、不思議大好き心霊大好きだった息子のために、母親が最後の置き土産として、ささやかな「怪異現象」を起こしてくれたのではないか?、そんな風に思ったのです。


・・さて一方の父ですが、母の納骨が終わった直後、不安視していた「転倒事故」が現実となり、頭を打って出血、救急搬送されました。

CTスキャンの結果、「硬膜下血腫」が見つかり、緊急入院手術ということになりました。「頭蓋骨に穴を開けて血の塊を抜く」と言うことで、医者の説明を聞きながら「ドラマ『JIN - 仁』で見たヤツだな」と、一人納得していました。

手術で一命は取り留めたものの、今度はリハビリが必要と言われ、国分寺のリハビリ病院に入院し、5ヶ月間の理学療法を受けることになりました。しかしその頃には認知症も発症し、急激に記憶が薄れて行きました。最後には、親戚も友人も分からず、僕一人だけしか判別できなくなっていたようです。

そうしてある時から父は、「秋田に帰る」と、繰り返し言うようになりました。秋田県(旧・大曲市)は父の故郷だったのです。それは面会に行くたびに続きました。

さらに、どのくらい過ぎた頃でしょうか、「秋田に帰る」から、今度は「秋田行きの切符買ってこい」に変わりました。で、僕の方も、「分かった分かった、今度買ってくるから」と言うのが常になっていました。

そんなことが数ヶ月続くと、また父のセリフが変わりました。
「秋田行きの切符、買ったか?」
「買って来い」から「買ったか?」になっていたのです。

そこで僕も、方便で答えました。
「切符、買ったよ」

「切符、買った」との返事に、まさか安堵したとでも言うのでしょうか。それから二日後の早朝、病院の看護師から、父が高熱を発して意識不明になったと言う電話を受けたのです。

けっきょく父は眠ったまま・・
(たぶん秋田行き新幹線こまちの夢を見ながら?)
約1ヶ月後、静かにこの世を去りました。


・・以上が、2018年、僕の身に起こった出来事なのです。


コメント

このブログの人気の投稿

ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帳」を見たら・・

 ★先日、タイトルの書いていないDVDを何枚か見つけまして、「ハテ、何を録画したんだっけ?」と見てみると、2013年にフジテレビで放送した「ビブリア古書堂の事件手帳」でした。 これはチマタでは「月9ドラマ史上最低の視聴率」などと散々な言われ方をしたヤツですが、僕の感性によれば、地味で小品ながら中々の出来映えだったと想ってます。 逆に、すごい視聴率をマークした「半沢直樹」などは、もちろん全部拝見した上で言わせてもらえれば、あれは、すごく面白かったけど、見終わった後味が「大げさな水戸黄門」みたいだった、と想いました。 さて「ビブリア古書堂」ですが、元々は小説が原作で、主人公、古書堂の若い女性店主「篠川栞子(剛力彩芽)」が、鋭い洞察力と推理力で、一冊の古書をめぐる謎を解いて行く話しです。 相手役に「五浦大輔(EXILE AKIRA)」。この五浦大輔と言う男は、ひょんなことからビブリア古書堂のアルバイト店員になるのですが、何と「本が読めない男」と言うムチャな?設定なのです。強引に本を読もうとすると、貧血やめまいを起こしてしまうと言うことになっているのです。 「これ、視聴者は理解できるのかな?」と、少し不安になりました。フツウの人にとって、本がまったく読めない人間なんてリアリティを感じないかも?と想ったのです。ですが、こういう人ってホントにいるんですよ。何故そう断言できるかというと、僕自身がかつてそうだったからです。 あれは十代、ちょうど中学生の頃でした。ドラマの五浦君は「めまい・貧血」と言うやや病的な症状のようですが、僕の場合はそうじゃなくて、ふわーっと、いつの間にか別のことを考えてしまうと言う妄想癖でした。 詳しくいうと、本を読もうと文字を追っていくうち、何かの単語に気を取られてしまうのです。するとその単語にまつわる色んな連想が沸き上がり、ついには、文脈とは関係の無い妄想の世界に入り込んでしまう、と言う感じでした。途中ハッと我に返り、「いけない、文章を読まなければ」と、戻そうとしてももうダメで、どんどん本と関係のない空想の中に入り込んでしまうのです。 後々分かることなんですが、これは「雑念恐怖症」と言う、神経症の一種だったようです。(今もこう呼ぶのかは不明です)。人によっては、本に集中できないことに深く悩み、余計に症状を悪化させてしまうことも有るようです。 僕の場...

7「回想,真夜中のローラー・スケート」

前回までのお話し →  「37年越しの・・、墓参り」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 東京芸術大学  1979年〜1982年 美術学部絵画科 油画アトリエ・・ 芸大同期の女子、Rさんとの初めての会話は、とても唐突でした。 「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」 それまで、挨拶しかしたことの無かった女の子が、ある日、大学の、僕がいるアトリエにやって来て、いきなり重たい紙袋を手渡してそう言ったのです。中を見ると、10数枚のLPレコードが入っていました。「ジミ・ヘンドリックス」「エアロスミス」「ジャニス・ジョップリン」などなど、ロックの名盤ばかりでした。 この前日、大学の友人たちとアトリエ前の階段に座って雑談し、「ロックバンドを作ろうぜ!」と言う話しになったのです。とりあえず僕はギターが弾けるので誘われたのですが、弾くのはアコースティックギターで、フォークソング派でした。 それで、「オレ・・、ロックは良くわからんな」と、弱気な発言をしていたら、次の日になって、小柄な彼女が重たい紙袋を抱えてやって来たのです。 「全部あげるから、これ聴いてロックの勉強しなよ」 「全部って・・、ええっ?、貰っていいの?」 彼女が、僕らの雑談を傍らで聞いていたことは知っていました。が、突然レコードの束を渡されるとは思いませんでした。 「あげるよ。この辺はもう聴かないから。いま凝ってるのは達郎だから」 「タ、ツ、ロ、ウ・・?」 「山下達郎、知らないの?。それなら、今度テープに録ってあげるよ」 ・・それが、僕たちの会話の始まりでした。 それから少しずつ話しをするようになり、「ローラー・スケート」が共通の趣味だと言うことも分かって来ました。そして当時、発売されたばかりの新型ローラー・スケートの話題になりました。フレームにエラストマー素材を噛ませ、サスペンション構造になった物がアメ横で売られていると言うのです。(スケボーと同じ構造です) 「じゃあ、今度それ買って、いっしょに滑ろうか?」 と、盛り上がりました。しかし子供の玩具とは違い、数万円する代物だったので、買うとなると、それなりの思い切りが必要でした。 それからどのくらい経ったのか、季節は確か初夏のころ、浪人時代からの友人S君が僕のところへやって来ました。「Rさんがローラー・スケート買いに行くって...

6「37年越しの・・、墓参り」

前回までのお話し →  5「二通の手紙、二つの返信」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★教会の牧師様からの連絡で、37年前に亡くなった女の 子と、彼女のご両親が眠るお墓の場所が分かりました。しかし、用事や天候の影響で、実際に墓地を訪れるまでには二週間ほどかかってしまいました。 八王子の「東京霊園」までは、ウチから車で1時間半くらいです。圏央道に乗り、ちょっとしたドライブ気分で車を走らせ、ほどなく到着しました。 とても広い霊園でした。中まで道路が通り、季節の行事の際には周回バスも走るそうです。いちおう霊園地図も用意しましたが、カーナビが効いたので、ギリギリまで難なく辿り着くことが出来ました。 駐車スペースに車を停め、そこから花を持って徒歩で向か います。今回は、近所の花屋で自分で選びました。キリスト教の墓参では、主に白い色の、ユリ、カーネーション、スプレーマムなどでアレンジする、と「冠婚葬祭」の本に書いてあったのですが、仏式が中心のここの売店には無さそうな気がしたのです。 そして間も無く教会墓地の前に着きました。 37年ぶり・・、でした。 1985年10月に祭場で拾った彼女のお骨、一度は遠く離れ、長い年月を巡り巡って・・ 2022年4月7日、何故かこの地で再会することになりました。目の前の、この固い納骨堂の中にあの子はいるので す。それも、ご両親の遺骨と一緒に ・・ 最初の印象で、ここで良かったと思いました。綺麗で広くて落ち着いた場所で。特に今日は、二週間遅れが幸いして、ちょうど桜が満開になっていました。 「いま、確かに安らかにしている」 素直にそう思える場所に彼女はいたのです。 墓前に、まずお花と、Nさんが作った陶器の「白の器」を置きました。そこにウチから持参した水筒で「水」を注ぎます。 キリスト教式では「お花とお祈り」だけだそうですが、そこはそれ、僕は仏教徒だから・・(ニセモノだけど?)お水は上げないと、どうもしっくり来ないのです。 それに、ここまで僕の「道しるべ」になってくれたのは「Nさん」だからです。彼女がいなければ、到底ここまで辿り着くことは出来ませんでした。なので、ぜひNさんが作った器でお水を上げたいと思っていたのです。 お花を供え、お水を上げ、長い時間手を合わせ祈っていると、 「こんなシーン・・、むかし、何かの映画で見た...

5「二通の手紙、二つの返信」

前回までのお話し →  4「ついに墓地に辿り着く。ところが・・」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2022年、2月17日。鎌倉の寿福寺を訪れ、37年前に若くして亡くなった女性の墓参りをしようとしたものの、すでにお墓は無くなっていました。東京に転居した母親の手によって、何処かの墓地に改葬されたと言うのです。 そのおり寿福寺で、母親の転居先が東京の「日の出町」だと教えられた僕は、まず「Googleマップ」で場所を確認してみることにしました。すると、ストリートビューには綺麗な白い家が現れました。さらに門の部分を拡大して見ると、確かに表札には○○との苗字が見えました。 車庫には乗用車が停まっていました。80歳を越えていると言うお母様が運転するとは思えず、もしかすると、どなたか親族の方と同居しているのかも知れないと想像しました。 ただし、ストリートビューの写真は「2019年」のまま更新されておらず、それを見た僕はふっと思ったのです。 「この2年ほどの間に、何も起こっていなければいいが」と・・ まず、母親宛に手紙を書いてみようと思いました。ありのままを正直に・・、2021年、何度も見るようになったご息女の夢の話しから、芸大時代のローラー・スケートの話し、鎌倉寿福寺での出来事、そしてこの住所に辿り着いたいきさつを・・ とにかく怪しまれぬよう、失礼にならぬよう、慎重に何度も読み返しては書き直し、出来あがるまで結局二週間もかかってしまいました。そして最後に身分証明として、東京芸大の卒業証書 のコピーも同封しました。 返事はなかなか来ませんでした。3月3日に投函して、一週間過ぎてもまだ来ません。最近は土日に配達しないそうなので、その分だけ遅れているのだと自分に言い聞かせましたが・・。いや違う、母堂を不快な気持ちにさせてしまい、破り捨てられたのだ?・・などなど、様々な想いが去来しました。 ・・それでも中々来ることはなく、 「頑張ってはみたけど・・、どうやらここまでかなあ」 と、少しずつあきらめの気持ちになって行った3月12日、土曜の夕方、スマホに着信があったのです。 見知らぬ番号でしたが、出てみました。 「私、◯◯様から遺言執行人を依頼されました、弁護士の◯◯と申しますが・・。高橋様からのお手紙を転送先で受け取りまして、お電話差し上げました」 と言うの...

正義感の強い人々

★こないだラジオでこんな話しを聴きました。 TBS の詠六助さんの番組で、作家の「水上勉さん」のことを「みずかみ・つとむ」と言ったところ、聴いていた人たちから「 " みずかみ " ではない。 " みなかみ " と読むのだ」と、抗議やら忠告やらの電話が殺到したそうです。 僕はそのむかし文学少年だったのでよく知っているのですが、あの作家は詠さんが言った通り、「みずかみ」と言うのが正しいのです。つまり、まったく見当違いの抗議だったと言うわけです。 そしてもう一つ。経済ニュース番組で「小豆」のことを「しょうず」と読んだところ、「あれは " あずき " と読むのだ。テレビ局はアナウンサーにどんな教育をしてるんだ!」と、これまた抗議の電話が殺到したらしいです。 この「小豆(しょうず)」とは、じつは経済用語だそうでして、「大豆(だいず)」に対して「小豆(しょうず)」と読むことで分かりやすく伝達する、経済業界では当たり前の読み方だと言うことなのです。なので、これまた間違いではないのです。 驚くのはその行動力なんです。たとえ本当に間違っていたとしても、わざわざ電話するまでに至るその行動力?、すごいです。面倒くさがりの僕にはちょっと想像がつきません。むしろその気力に恐怖心を覚えてしまいます。 たとえば松本サリン事件の時も、現場近くに住んでいた「河野さん」が犯人扱いされましたが、あの時の抗議の電話とか、嫌がらせの手紙なんかすごかったそうです。これはちょっと想像以上の、相当な恐怖だったと思いますよ。 ただ、後々疑いが晴れると、何人かの抗議をした人たちから、「間違って申し訳ないことをした。すみません」と言う、お詫びの電話や手紙が来たそうなんです。 (じつは「お詫びの言葉」を寄せたのはほんの数名で、その他の数百?数千?の人たちは残念ながらだんまりを決め込んだそうですが) とは言え「詫びる」と言う行為から察するに、こう言う的外れの抗議も、単に異常にヒステリックな人がする事と言うわけではなく、あまり強すぎる正義感の為せるわざ、と言うことは有るようです。 すごく " いい人 " ではあるが、思い込みが激しく、自分だけが完全な正義だと勘違いしている、そんな...

二年前の事件の話し・異聞

*これは実際に有った話しです。そのため、文章中に登場する人物の名前は、筆者・高橋を除いて全て仮名にしてあります。・・なお、できれば前編「二年前の殺人事件の話し」から読んでいただければ、より興味深い展開になるかと思います。 ◎ 前編「 二年前の事件の話し 」 ★まず最初に、何故この話しを再アップしようと思ったか・・ (これは元々1990〜1993年の出来事で、当時すでに別の媒体で発表しています) 僕はこれまで、不思議な体験をすることが時々あって、これらを「みんなに教えたらきっと面白がるだろう」と思い、いくつかをブログに載せて来ました。ですがある時、気づいたのです。 どの話しもけっきょく「自分一人の主観」でしか無く、信じない人に「作り話でしょ?」と言われたらそれまでだと・・ そこで昔「*ゴブリンズ・レター」に載せたこの話しを思い出したのです。 これを読んでもらえれば、少しは他の「不思議な話し」にも信憑性が増すのではないだろうか・・ なぜなら、 唯一この話しには、客観的証人となりうる人物が登場するからです。それが、僕が参加していた草野球チーム「GOBLINS」に、新メンバーとしてやって来た「飯沼君」でした。 * ゴブリンズ・レターとは? 草野球チーム「GOBLINS」の会報のこと。まだネットの無い時代、メンバー間の情報交換を郵送で行ってた。その紙上に時折り高橋がエッセイなどを書くことがあり、その一つが 『二年前の殺人事件の話し』だった。 それは「二年前の殺人事件の話し」を*ゴブリンズ・レター紙上に書いて間もなくのこと。ある日曜日にかかって来た、ゴブリンズ飯沼君の電話から始まります・・ * 昼食後、坂を下って行くと、キャプテン高橋は豆腐屋のお爺さんに、 「それ(ローラー・ブレード)は何ですか?」 と捕まった。色々説明して、最後に、 「鴨川まで行きます」と言うと、 「鴨川?、じゃあもう、じきです。お気をつけて」 と丁寧にお辞儀をされた。有り難う。お元気で長生きしてください。一期一会、袖擦り会うも他生の縁。 飯沼君とは何の因果か解りません 。   これは1992年の夏、ゴブリンズ・レターに書いた、『 千葉-鴨川ブレード走行記 』の中の一説である。このとき僕は、ある不思議な感覚の中にいた。 『なぜオレは、今コイツと一緒にいるんだ?』 年齢は一回りも違う。野球要員としてメンバーが会...

4「ついに墓地に辿り着く。ところが・・」

前回までのお話し →  3「今ごろ?”facebook”を初めてみた」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2022年2月17日、午前8時半ごろ。僕は鎌倉にあるお寺「寿福寺」の参道を歩いていました。久しぶりに第三京浜から横浜横須賀道路へと車を走らせ、下に降りてから数キロの山道を越えやって来たのです。 2021年の春ごろから、僕は、37年前に若くして亡くなった、大学同期の女性の夢を何度も見るようになりました。そして、その彼女の墓参りに行きたい衝動にかられるのです。 そこで、手がかりを探してネット検索すると、偶然、やはり同期の女性NさんのWebサイトが見つかります。 Nさんは、彼女の訃報を知らせてくれた人でした。もしかして?との思いからメールで連絡を取り、理由を伏せたまま、こ ちらも2021年12月、37年ぶりの再会を果たすのですが・・ しかしながら、本来の目的だった「夢の事情」をNさんに打ち明けるのは、再会してからさらに二ヶ月が過ぎたころでした。 始めたばかりの「facebook」を見ていたところ、 年が明けた 2022年2月、Nさんがまた別の展示をすると言う告知がアップされていたのです。 天気予報では、その展示の二日目あたりに「東京が大雪の恐れ」との話しだったので、晴天間違い無しの初日にそこへ向かうことにしました。 その会場で二度目に会 ったとき、ついに堪えきれなくなり、笑われるのを覚悟で、恐る恐る「夢の事情」を説明してみたのです。すると笑われるどころか、むしろNさんは少し驚いて、 「それならそうと早く言ってよ!  あなた、あの子に呼ばれてるのかも知れないよ!」 と、強く叱咤するのでした。 Nさんから「Facebook」を勧められたとき、「もしや、何かがシンクロしているのでは?」と感じた通り、Nさんはやはり 僕が探していた、 ''お墓の場所を知っている人'' でした。 それどころか、当時何年もお墓参りに通 っていた人物、と言うことが判明するのです。 もし「Facebook」を始めていなければ?、Nさんとの再会もその場限りで、二度目に会って「夢の事情」を語るチャンスは無かったかも知れません。 「お墓は、鎌倉、寿福寺の墓地だよ。すぐに行ってあげて!」 と、半ば尻を叩かれる形で、墓参りを決意をすることになりました。そ...

3「今ごろ?''facebook''を始めてみた」

前回までのお話し →  2「どっこい、夢はまだ続いていた・・」 Index 「意味のある偶然の一致 20.7~22.4」 ★2021年の12月、急に「facebook」を始めることになりました・・ 2004年に立ち上げられたと言われる「facebook」ですが、話題になった当初からずっと関心が無く・・、って言うより、どっちかと言うと避けて来たはずなのに、どう言うわけか、とうとう始めることになってしまったんです。 今回はその理由について、簡単に書いてみたいと思います。 じつは、僕は、十代のころ、ずっと強迫神経症に悩まされて来ました。次から次へと、主な神経症のほとんどを経験したのかも知れません。 中でも「群衆恐怖症・閉所恐怖症」が特に酷く、その後遺症とでも言うのでしょうか、今でも「人混みが苦手・閉じた空間が苦手」が少し残っているのです。で、「facebook」及び「SNS」と言うものを知った時(普通の人には理解できないと思いますが)僕は「軽い恐怖」を感じたのです。 アカウントを作らなければ中に入ることが出来ない・・ 外から中の様子を探ることさえ出来ない・・ 初めから開かれているブログなどとは全く違う、この、他を寄せ付けない閉ざされた世界は、僕にとって「閉所恐怖症」をフラッシュバックさせるに十分でした。 さらに日本での普及率ですが、2020年調べで、「facebook」利用率は、インターネット利用者の内の「約34%」でしか無いのです(最高時は約40%)。これも不安要素でした。利用率がたとえば「LINE」のように80%を越えていれば、ある程度解放感もあるのですが、34%と言う低さは、より「閉鎖世界」の印象を強くしてしまいました。 そしてもう一つ、「facebookは成功者のツールである」と言う説。これはあるIT評論家のコラムからですが、一時、時代の寵児と騒がれたあるIT起業家が、事業に失敗して電話もメールも断ち、消息不明になってしまったと言う話し・・ が、人格が素晴らしく尊敬できる人物だったので、 IT評論家は「ぜひ、もう一度いっしょに仕事がしたい!」と、探し回ったのだそうです。 で、ふと、とにかく新し物好きだった彼なら、当時発表されたばかりの「facebook」に絶対飛びつくはず、facebookで彼を見つけ、事業再建の後押しがしたいと、来る日も来る日も探したそう...

東北楽天敗退・・

★ひょっとしたら?と淡い期待をしましたが、やはり東北楽天はダメでした。まあ、これが実力と言うものなのでしょう。 が、プロ野球人気低迷のこの時期、これだけの盛り上がりを見せてくれたのはスゴかった。これを失ってしまうのは残念ですね。何しろ、スポーツ新聞の扱いが、勝ち抜けた巨人より楽天の方が大きかったくらいなんですから。 それでもセリーグが中日ドラゴンズでなくて、巨人だったのがせめてもの救い?でしょうか。私はもともとは強烈なアンチ巨人なんですが、それでも、今年の中日のWBC拒否は納得が行かなかったので、今回だけは巨人に頑張って欲しかったのです。 もちろん落合監督以下、中日関係者は、「あくまでも選手の意思」と否定していますが、苦しい言い訳ですね。何より、このところの落合監督の、あのケンカ腰の試合後インタビューがそれを物語っています。あの件での原監督との対立が、相当頭に引っかかってたってことでしょう。 WBCでの二連覇と言うのは、日本のプロ野球史において、かなり重要な出来事だったと思います。あの代表メンバーは確実に歴史に名を残すだろうし、それに行けるチャンスが有りながら行かなかった中日の選手にとって、「千載一遇のチャンスを棒に振った」くらいの悔いとなってしまうかも知れません。ヤンキースの松井選手なんかもそうですね。あれ以来、すごく頑張っていい成績を残しているのに、なんか影が薄いような感じがしてなりません。 それに比べて、楽天の選手たちの、何と影の濃いかったこと!。CSの間ずっとテレビ中継に引き寄せられてしまったくらいです。なので、岩隈投手やマー君以外にも、ずいぶん名前を覚えましたよ。 で、名前と同時に、いろんな選手の打撃フォームを興味深く見せてもらったんですが、印象的だったのは、楽天打者の多くが「脇を閉めて構えている」と言うことでした。 自分で野球をやる人なら分かると思いますが、バッティングで構えた時、右バッターなら右脇、左バッターなら左脇を閉めるか開けるかで、スイングがかなり違って来るんです。 昔はよく「脇を閉めろ」なんて指導されたもんですが、今ではイチロー選手を始め、だいたいのバッターは、余計な力が入らぬよう 脇を開けて構え、インパクトの瞬間だけ強く閉める傾向に有ります。 その方が腕の自由度が増し、いろんな球種...

東松山市へ行って来た、自転車で・・

★ 1月10日(土)に「原爆の図」で有名な「丸木美術館」に行って来ました。友人がそこでグループ展をするとのことで、招待状をもらっていたのです。 ◎ 原爆の図 丸木美術館 展覧会は11月から開かれていたのですが、なかなか行けないまま、年末年始でゴブリンズDVD.vol2の制作と発送に時間を取られ、けっきょく最終日の10日に行く事になってしまいました。で、野球のシーズン前の自主トレもかねよう言うことで、今回も自転車で行くことにしました。 場所は埼玉県東松山市の下唐子と言うことろです。都幾川という川沿いに有ります。地図で調べると、山道を避けた最短の距離で、片道約43kmだということが分かりました。距離は何とかなりそうですが、問題は天気です。前日の天気予報では、晴れるが北風が強くなるとのことでした。 8時30分ごろ出発して気温は3℃くらい。ダウンジャケットで出たのですが、熱いだろうかと心配していたら、寒くて大変でした。下もジーパンの上に防寒用のパンツを履いています。写真はすでに入間川の八瀬大橋です。風はそれほどもなかったのですが、橋の上はさすがにスゴく、3枚写真を撮ってブレてないのはこれだけでした。 橋の向こう側付近です。天気は上々ですが、かなり寒いです。これを降りてしばらくすると関越自動車道とぶつかり、そこを過ぎて狭山市から鶴ヶ島市に入ります。出来るだけ最短をと、この辺で細い住宅街に入るのですが、住宅街は道に迷う危険が大きいので、注意が必要です。と、思っていたら案の定迷ってしまいました。 しかしこのアクシデントは、持参した地図を見ながら何とかリカバリーに成功、予定の道に復帰しました。とりあえず一安心ですが、辺りはどんどん広々として来て、その分風が強くなって来ました。が、まだまだ時速20km以上をキープしたまま前進しています。 ですが、道に迷ってホントに大変だったのは、坂戸市に入ってからでした。途中まで関越自動車道づたいなので、高速道路を目印にしていたのですが、鶴ヶ島JCで間違って「圏央道」沿いに進んでしまったのです。写真は圏央道の測道です。風も吹かないし日が当たってポカポカで、気持ち良過ぎてボーッとしていたようです。 どうもオカしいと思い地図を見ても合致する場所が無いのです。で、ここで活躍したの...