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母親が亡くなる時に起こった不思議な出来事

★今年もお盆の時期がやって来ました。じつは2018年は、母が2月、父が10月にと相次いで亡くなりまして、その二人分の後始末?に追われ、長い間ブログをお休みしていたのです。で、ようやくメドがついて来まして、再開することになったのですが、やっぱり最初は「この話題」かな・・と思った次第なのです。

2018年の2月初めでしたか、夕食後、母親と世間話しをしている最中、妙なことを言い始めたのです。・・それは以下のような言葉でした。

「あとはお前の好きなようにやっていいから。自分のやりたいように生きていけ」

記憶にある限り、人生訓だとか、改まったモノの言い方を聞いたことが無かったので、ビックリして、返事も出来ず、まじまじと母親の顔を見てしまいました。・・そして、その十日後ぐらいだったと思います。突然、母が僕の目の前で倒れたのです。

1分前まで、ごく普通に話しをしていたその姿のまま、突然胸を押さえたかと思うと、僕の目の前で意識を失ったのです。大急ぎで救急車を呼び、日赤病院に運び込んだのですが、その時にはすでに息絶えていました。担当の医師によれば、「倒れた時点で、ほぼ即死の状態だった」とのことでした。

母親の死因は「急性大動脈解離」。確か、アンパンマンで声優をしている女性が、首都高速で運転中に突然亡くなったと言う、あの死因も同じ、大動脈解離だったと記憶しています。

当初は、「体調も普通だったし、思いもしなかったなあ・・」
と呆然としていたのですが、しばらくしてから、あの夕食の後の妙な「人生訓?」を思い出し、もしかしたらあれが「虫の知らせ」と言うヤツだったのだろうか、と言う気がして来たのです。

で、通夜だの葬儀だのの合間に、集まった親戚と話しを聞いているうちに、僕以外にも、いろいろ「予兆」を感じた人がいたようだ・・、と思い知らされたのです。


従兄弟の嫁さんから聞いた話し

「今にして思えば・・」とはよく聞く話しですが、最初に話しをしてくれたのは、従兄弟の嫁さんでした。彼女によれば、母が亡くなる数日前に会った時、「妙な違和感」を感じた、と言うのですが・・・

従兄弟夫婦はウチのすぐ近くに住んでいて、その嫁さんは母を慕い、時々訪れては長々とお喋りをする「茶飲み友達」だったのです。そうして帰るときはいつも、母親が玄関から見送るのが常でした。

が、その日に限っては違っていました。何を思ったのか、母はサンダルを履き、表に出て、彼女について行こうとしたのだそうです。

2月の一番寒いときだったので、「おばさん、いいよ寒いから」と言うのも聞かず、母は家の前の路地を彼女と一緒に歩き、曲がり角までついて来て、そこからずっと彼女の姿が見えなくなるまで立っていたと言うのです。

数十メートル先の街道に出る寸前で振り返ると、母はまだそこに立っていたそうです。そしてそれが、彼女が見た母の最後の姿でした。


10年間続いた習慣が途絶えた朝

次はまた別の話しです。

母親が亡くなる当日のこと、およそ19時間前の早朝、僕は、母親を埼玉の伊奈町に住む叔母夫婦(母の妹)の家へ連れていくため、車の準備をしていました。

母は月に一度、仲の良い叔母を訪ねて食事をし、ついでに地元の美容院に立ち寄ってパーマを当ててもらうのが習慣になっていたのです。それはもう20年ほど続いていました。

元々最初の10年は、一人で電車で出かけていたのですが、ある年の猛暑の夏、熱中症になって一週間ほど寝込んだことをきっかけに、僕が埼玉まで、車で送り迎えをするようになったのです。

僕も、母が用事を済ませている間、叔母の家を起点に車を走らせ、埼玉・群馬など地方の美術館を訪れたり、巨大ショッピングモールや、ホームセンターを物色すると言う楽しみを発見し、月に一度の息抜き的ドライブとして、気づけば10年ほど続いていたのです。

その10年間、まったく変わらなかった母の習慣がありました。それは、片手で押すカートバッグを必ず持参すると言うことでした。それが、その日だけは違っていたのです。カートを自分の部屋に置きっ放しにし、手ぶらで車の後部座席に座ろうとしていました。

「あれ?、カートは?」と尋ねると、
「ああ・・、もういらないから、積まなくていいよ」
と、気のない声で答えたのでした。

約10年間、一度たりとも手放さなかったカートを置いて行くことに、妙な違和感を覚えつつも、「まあいかか」と運転席に乗り込んだのでした。


叔母が見た母の異変?

ウチから、叔母の住む埼玉の家までは片道約40km、多少の渋滞はありますが、車で2時間ほどで着きます。カートを積まないこと以外は、いつものように7時出発で9時過ぎには叔母の家に着いていました。

その時です。叔母の家のドアを開け、母を先に入らせてから履物を脱いでいると、突然、
「どうしたの?!、姉さん!。そんなにゲッソリ痩せて?!」
と、大きな叔母の声が聞こえたのです。顔を上げると、叔母が青ざめた表情で立っていました。

そして、「ねえ?、・・ひどく痩せたよねえ!?」
と、震える声で叔母は僕に問いかけたのですが、よく意味が分からず、
「うーん・・、毎日見てるから、変わったようには思えないけど」
と答えたのです。

ところがその後、母がリビングの椅子に腰掛ける頃には、どう言うわけか、いつもの母の顔に戻っていた・・、と叔母は言うのです。叔母は納得がいかない様子で、何度も母の顔を見ながら、「おかしい・・、何でさっきあんな風に見えたんだろ」と繰り返していました。

叔母が一瞬見たのは、いわゆる「死相」と言うものだったんでしょうか?


いつもと違う美容院での別れの挨拶

それでも僕は、「何か異変が起きている」とは思っていませんでした。光の加減で変な風に見えたのだろうと思っていました。が、もう一人、母親の異変?に気付いた人物がいたのです。埼玉に行くたびに訪ねる美容院の女性でした。

それは、パーマが終わり店を出る時のことだったと言います。その美容院は予約制なので、一週間くらい前に電話で予約をするのです。なので、パーマが終わって店を出る時には、いつも「それじゃ、またね」とか「また連絡するね」と言うのが、20年近くも続いた合言葉になっていたのです。ところがその日だけは違っていたと言うのです。

「それじゃあ、さようなら・・」
母はそう言って、何故か深々と頭を下げたそうなのです。その言葉、去って行く後ろ姿に、美容院の女性は、妙な胸騒ぎを覚えたと言うのです。

そうして、その別れの挨拶から約10時間後、午後11時ごろだったでしょうか。母は倒れ、息を引き取りました・・


・・こんな風に「虫の知らせ」とも言うべき、いつもと違う行動や言動をしていたのですが、母本人が具体的に、自分の死を予知したとか、予兆を感じていたと言うことは無かったと思います。

じつは、その数ヶ月前から父親の足腰が弱って来て、2018年1月には「介護認定2」を受けていました。母は父の姿を見ながら、「これから、いろいろ準備しなきゃね」などと、数年先の父との生活を案じていたからです。

つまりは、すべて無意識の行動・言動だった、と言うことになるわけです。


誰もいない部屋で、人感センサーが何かを感知

母が入っていた互助会のお陰で、何から何までやっていただきまして、葬儀初心者?としては大変助かりました。そうして火葬を終え、四十九日・納骨の準備を進めていたころ、いくつか不思議なことがありました。

その一つは、一言でいうと、
「誰もいないはずの部屋で、人感センサーが反応した」
と言うことでした。

要介護認定を受けた父ですが、それでもトイレや風呂は一人で出来ていました。しかし、その場所へ行くまでの足取りが危うく、転倒の恐れがあり、特に夜のトイレは心配だったので、父の部屋に、人感センサーでチャイムが鳴る装置を仕掛けていたのです。

父が夜中に、トイレへ行こうとモゾモゾ動き始めると、センサーが感知して、僕の部屋の無線チャイムを鳴らす、と言う具合です。

このセンサーは、母が亡くなる1ヶ月ほど前から設置していました。電気の消費も少ないし、スイッチを入れ忘れると大変なので、通電したままにしてありました。つまり、母の葬儀の一ヶ月前から四十九日が来るまでの、少なくとも約2ヶ月間は、ずっと人感センサーは付けっ放しになっていたことになるのです。

そしてある日の昼間のこと・・。僕は二階でパソコン作業をしていました。すると、12時近くになったころ、その「ワイヤレス人感センサー」が、誰もいないはずの、一階の部屋で何かを感知したのです。

父は茶の間でテレビを見ているはずだったので、突然鳴ったチャイムに、「まさか一人で歩き回ってんのか?」と訝しく思い、階段を降りて寝室のドアを開けました。

ところが、センサーの有る部屋には誰もいなかったのです。父は、やはり茶の間でテレビを見ている最中で、CMらしき音声が遠くから聞こえていました。

「おかしいな・・」と思い、足を踏み込んでみると、自分の動きが感知されたらしく、二階から小さくチャイムが聞こえて来ました。

いわゆる赤外線センサーなので、何かの熱源が有るのではないかと探ってみたのですが、それらしき物は見当たりませんでした。北向きの和室で、障子を閉めてあるので、明るい日光が差し込むということも有りません。

「まさかなあ・・(母親が?)」と思いながら自分の部屋に戻りました。

その日はそれ一回のみで、あとは鳴ることは有りませんでした。 しかしながら、四十九日を待つ間、計3〜4回くらいでしょうか、同じように「チャイムが鳴り、行ってみると誰もいない・・」そんな現象を繰り返し体験することになりました。


天井裏で動き回る得体の知れないモノ

別の日、これもまた四十九日を待つある日のこと・・・

夜中、確か午前1〜2時くらいだったと思います。人感センサーのチャイムに起こされて父のトイレに付き合っていた時、何気なく、母の遺骨がある部屋を覗いてみると、天井裏を複数の何かが「ガサ、ガサ、ガサ、ガサガサ・・・」と這いずり回る音がしていたのです。

それは、聞いたことの無い不気味な音でした。

たとえば子供のころ、安アパートの天井を、ネズミが走る音なら聞いたことがあります。また鳥が屋根の隙間に巣を作り、何かに驚いて羽ばたく音も知ってます。が、それらとはまったく違う種類の音でした。

そもそも音がしているのは、二階の天井ではないのです。一戸建ての一階の天井裏です。そこにどれほどのスペースがあるのか知りませんが、こんな、あちこち動き回るモノが入り込む隙間などあるのでしょうか?

ではいったい何なのか?。「得体の知れない寒気がするような感じ」から、あることを思い出しました。「ひょっとすると、"魑魅魍魎(ちみもうりょう)"の仕業ではないか?」。脳裏にそんな言葉が浮かんだのです。

あれは、水木しげる氏の漫画で見たと記憶しています。亡くなった人の遺体や遺骨を安置していると、低級な霊魂や動物霊など「魑魅魍魎」の類が面白がって集まって来る・・、と、そんな話しです。

「くそ、母親の安息が妨げられて堪るか!」とは思ったんですが、しかし、僕には霊能力?は有りません。そこで「どうやったら追っ払うことが出来んだ?」と考えいていたら、母が好きでよく見ていた、「オーラの泉」の江原啓之氏のことを思いついたんです。

母は、江原啓之氏の著書も何冊か購入していまして、パラパラと見せてもらった時に、その本の巻末に、結界を張って魔除けをする「結界キット?」なるモノが付録になっていたのを思い出しました。

で、母の部屋の本棚から取り出し、ハテどんなもんか?と思いつつ、能書きに従って「結界キット」なるモノをセットし、粗塩を撒いて、柏手を打ったり合掌したりしてみました。

・・するとどうでしょう。それを境に、天井裏の這いずり回る音はパタリと消えてしまったのです。以降、四十九日を過ぎて、年を超え、現在に至るまで、まったく音はしていません。・・と言うより、この家を建ててから数十年、天井からあんな気味の悪い音がしたのは、あの夜たった一回きりだったのです。

最初はマユツバだなあ、と思っていた「結界キット」ですが、やってみたら、なかなか効き目あり?と言う気がしました。


・・以上が、母親が亡くなった時に起こった不思議な?出来事のいくつかです(まだまだ色々ありました)。人によっては「不思議でも何でもない。こじつけでしょ」と言うかも知れませんが、まっ、それはそれで構いません。

僕としては、母の死から8ヶ月後に起こる「父親の死」に際し、そのあまりに何も起こらない平凡な?死にぎわと比較し、母の死には色んなことが起こったなあ・・と言う感慨として、ここに書かせてもらっただけなのです。

子供のころから、不思議大好き心霊大好きだった息子のために、母親が最後の置き土産として、ささやかな「怪異現象」を起こしてくれたのではないか?、そんな風に思ったのです。


・・さて一方の父ですが、母の納骨が終わった直後、不安視していた「転倒事故」が現実となり、頭を打って出血、救急搬送されました。

CTスキャンの結果、「硬膜下血腫」が見つかり、緊急入院手術ということになりました。「頭蓋骨に穴を開けて血の塊を抜く」と言うことで、医者の説明を聞きながら「ドラマ『JIN - 仁』で見たヤツだな」と、一人納得していました。

手術で一命は取り留めたものの、今度はリハビリが必要と言われ、国分寺のリハビリ病院に入院し、5ヶ月間の理学療法を受けることになりました。しかしその頃には認知症も発症し、急激に記憶が薄れて行きました。最後には、親戚も友人も分からず、僕一人だけしか判別できなくなっていたようです。

そうしてある時から父は、「秋田に帰る」と、繰り返し言うようになりました。秋田県(旧・大曲市)は父の故郷だったのです。それは面会に行くたびに続きました。

さらに、どのくらい過ぎた頃でしょうか、「秋田に帰る」から、今度は「秋田行きの切符買ってこい」に変わりました。で、僕の方も、「分かった分かった、今度買ってくるから」と言うのが常になっていました。

そんなことが数ヶ月続くと、また父のセリフが変わりました。
「秋田行きの切符、買ったか?」
「買って来い」から「買ったか?」になっていたのです。

そこで僕も、方便で答えました。
「切符、買ったよ」

「切符、買った」との返事に、まさか安堵したとでも言うのでしょうか。それから二日後の早朝、病院の看護師から、父が高熱を発して意識不明になったと言う電話を受けたのです。

けっきょく父は眠ったまま・・
(たぶん秋田行き新幹線こまちの夢を見ながら?)
約1ヶ月後、静かにこの世を去りました。


・・以上が、2018年、僕の身に起こった出来事なのです。


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*これは実際に有った話しです。そのため、文章中に登場する人物の名前は、筆者・高橋を除いて全て仮名にしてあります。・・なお、できれば前編「二年前の殺人事件の話し」から読んでいただければ、より興味深い展開になるかと思います。 ◎ 前編「 二年前の事件の話し 」 ★まず最初に、何故この話しを再アップしようと思ったか・・ (これは元々1990〜1993年の出来事で、当時すでに別の媒体で発表しています) 僕はこれまで、不思議な体験をすることが時々あって、これらを「みんなに教えたらきっと面白がるだろう」と思い、いくつかをブログに載せて来ました。ですがある時、気づいたのです。 どの話しもけっきょく「自分一人の主観」でしか無く、信じない人に「作り話でしょ?」と言われたらそれまでだと・・ そこで昔「*ゴブリンズ・レター」に載せたこの話しを思い出したのです。 これを読んでもらえれば、少しは他の「不思議な話し」にも信憑性が増すのではないだろうか・・ なぜなら、 唯一この話しには、客観的証人となりうる人物が登場するからです。それが、僕が参加していた草野球チーム「GOBLINS」に、新メンバーとしてやって来た「飯沼君」でした。 * ゴブリンズ・レターとは? 草野球チーム「GOBLINS」の会報のこと。まだネットの無い時代、メンバー間の情報交換を郵送で行ってた。その紙上に時折り高橋がエッセイなどを書くことがあり、その一つが 『二年前の殺人事件の話し』だった。 それは「二年前の殺人事件の話し」を*ゴブリンズ・レター紙上に書いて間もなくのこと。ある日曜日にかかって来た、ゴブリンズ飯沼君の電話から始まります・・ * 昼食後、坂を下って行くと、キャプテン高橋は豆腐屋のお爺さんに、 「それ(ローラー・ブレード)は何ですか?」 と捕まった。色々説明して、最後に、 「鴨川まで行きます」と言うと、 「鴨川?、じゃあもう、じきです。お気をつけて」 と丁寧にお辞儀をされた。有り難う。お元気で長生きしてください。一期一会、袖擦り会うも他生の縁。 飯沼君とは何の因果か解りません 。   これは1992年の夏、ゴブリンズ・レターに書いた、『 千葉-鴨川ブレード走行記 』の中の一説である。このとき僕は、ある不思議な感覚の中にいた。 『なぜオレは、今コイツと一緒にいるんだ?』 年齢は一回りも違う。野球要員としてメンバーが会...

DVコンバータを買った & Apple社雑感

★「DVコンバータ」を買いました。これで、今まで録り溜めたビデオテープをデジタル化し、DVDにして保存しようと言う目論みなのです。 再放送もしない商品化もされていない、貴重な?ドラマのコレクションを持つ僕としては、以前から計画していたことなのですが、なかなかいい製品が見つからず二の足を踏んでいました。 で、ついこないだ気分が再燃し、探してみたらこれが見つかったと言うわけなのです。で、さっそく使ってみたところ、読み込みや編集は簡単でとても便利なのですが、DVDに焼く時間が非常に長い。一枚6時間くらいかかります。これがネックですね。パソコンの能力にもよるのでしょうが、一気にDVD化にすることは出来ません。気長にやるしか無いです。 でも、工夫すれば使い道はいろいろあって、こないだは録画した音楽のライブビデオを取り込んで、そこからサウンドファイルだけを取り出し、iTunesに入れることも出来ました。 この調子ならLPレコードの音も?と思ってやってみたのですが、当初はうまく行きませんでした。やはり映像と同調していないとダメなようです。そこでビデオを流しながら、音はレコードにつなぐと言う方法でやったら、何とかうまく行きました。 ともかくは、Macに対応していて良かったです。MacではiMovieと言う編集ソフトと連動させて使いますが、この手のものは、Windows版しか無くてガッカリ、なんてことも多いモンなんです。 そう言えば、iPodはWindows版も出て、Appleの方から歩み寄ったって感じが有りますが、そのお陰で随分売り上げを伸ばしましたね。 今ではMacよりもiPodの方が主力商品になってしまいました。そしてこれからは、「iPhone」がiPod以上に主力になって行くんでしょうが、こないだ面白いニュースを目にしました。 突然iPhoneが大幅に値下げされて、最初に高額で購入したユーザーからクレームが殺到したと言うのです。 これを聞いてちょっとビックリしました。Appleではこんなことは普通に有ることなので、何で今さら?と思ったのですが、けっきょくほとんどが「iPhone」を購入した「Windowsユーザー」からのクレーム、「常識的な消費者の反応」が起こったと言うわけなのです。 Apple製品と言うのは、予告も無く突然大幅な値下げ...

二年前の事件の話し

★1990年のある日、僕の家に刑事が訪れました。やがて彼によって語られる事件の内容は、その後に起こる、不思議な出会いの始まりでもありました。 これは1990年に僕の周辺で実際に有った出来事です。それをその二年後の1992年に書きました。それで「二年前の・・」と言うタイトルなのです。つまりこれは、当時の記事の「再アップ」になります。念のため、筆者・高橋以外の登場人物は仮名・伏せ名にし、ショート・ストーリー風にしてあります。 * 「じつは・・、 殺しが有りましてねえ」 その男は挨拶もせず、片手で首を絞めるような仕草をして見せた。 それは、僕が久しぶりに車を洗っている時のことだった。洗い終わり、ワックスの用意をしていると、警察手帳を見せながら門を開け、彼は勝手に入って来た。本物の刑事を目にするのは小学生時代の三億円事件以来だったが、まさか今度は、「殺人事件」でやって来るとは・・ 「弟さん、いますか?」 そう聞かれて、僕は一瞬言葉を失なった。 「すみませんがねえ、ちょっと話し、聞きたいんですよ。1時間か2時間、お願い出来ませんか?」 僕は、嫌なことを想像していた。 弟?人殺し・・? だが刑事は、じっと僕の目を見たまま、それ以上喋ろうとはしなかった。そしてその視線は、僕の心の中を読み取ろうとしているかのように想えた。 解りましたと、玄関のドアを開けようとすると、刑事は後ろから、 「村下って奴が殺ったんですがね、どうやら弟さんがそいつと親しくしていたようでね」と付け加えた。 「お兄さん、何か聞いてませんか?」 「あ、いえ、何も・・」 戸惑いながらも、少しほっとしていた。 僕の弟は日産の武蔵村山工場(2001年閉鎖)に勤めている。一週間ごとに昼勤と夜勤がシフトされるのだが、今日は夜勤明けで寝ていた。勤め始めの頃は寮に入っていたが、年齢制限でつい最近追い出され、今は親元に戻って来ていた。 僕はアパート暮らしで、たまに家に置きっ放しの車を洗いに戻って来るだけなのだが、偶然にもこの日、居合わせたのだった。親は共に仕事へ出掛けていなかった。 弟を起こして刑事に紹介する時も、何故か刑事は、終始僕の表情を探っていた。僕はその様子から、刑事が弟を少なからず疑っているのだと言うことを察した。 「お兄さんもいてください」刑事は言った。 彼は身内の微妙な表情の変化を見定めようとするつもりなのだ。 し...