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若き天才の行く末‥‥

★こないだテレビで、天才脳神経外科医の話しをやってました。その卓越した手術は海外からも「神の手」と賞賛されるほどなのだそうです。が、僕が注目したのはその経歴。

・・若い頃、あまりにも技術が素晴らしく、それと相手に何でもストレートに物を言ってしまう口のきき方とが災いし、周囲が反発して、わざと日本に居づらくさせ、海外へ追いやられてしまったと言う話し。

これを聞いて、指揮者の「小沢征爾さん」のことを思い出しました。彼もまた若くして素晴らしい才能を発揮していたのですが、予期せぬ事件に見舞われます。二十歳そこそこの若僧にあれこれ指導されたり、指揮されることに反発したオーケストラのメンバーが、全員、演奏をボイコットしてしまうのです。その時の写真、無人のステージ上で独り立ち尽くす、小沢氏の姿がひどく印象的です。

深く傷ついた小沢氏を励ましたのは、「大きいことはいいことだ!」のコマーシャルソングで知られる山本直純氏でした。「お前は世界を相手にする器だ。小さな日本はオレにまかせとけ」と、海外へ送り出すことになります。もちろんその後の小沢氏の、世界的な活躍は知っての通りです。

婉曲に穏やかに物事を表現したがる日本人にとって、突如として現れる天才的な若者は、どうしても傍若無人に映るのかも知れませんね。毛嫌いされ反発されボイコットされる。そして傷心のまま海外へ行って、やっと正当な評価を得て、今度は「大先生!」などと呼ばれて帰国できるようになる・・

現在の小沢氏の活躍を見て、彼をボイコットしたその時のオーケストラのメンバーはどう思っているんでしょう。悔やんでいるでしょうか、それとも・・

もちろん僕自身だって(当時のことは知らないのですが)もしそのオーケストラの一員だったら、彼を正当に評価できたかどうか、自信はありませんけど。

だから思うんです。もしかすると今、我々の目の前に突然現れた、いけ好かない傍若無人な若僧が、後に「天才」「神の手」「歴史をかえた人物」などと評される、そういう人間の一人なのかも知れないと・・ そう思いながら、ホリエモンの行く末を案じておりますです。はい・・



  

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