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第一回 WBC「アメリカ戦」

★初開催の「ワールド・ベースボール・クラッシック」、早朝からずっと見てました。結果は4対3で敗れましたが、素晴らしいゲームでしたね。ただあからさまなアウェイの洗礼を受けました。

「何があったかって?」、見てない人はあとでスポーツニュースを見てください。やはり国際試合では、審判は中立国から出すべきですね。かなり酷いですよ。

アメリカ人にはいいところがたくさんあって、特にゴブリンズは、日本野球ではなく彼らの「ベースボール・スピリット」に憧れて野球をやっているようなものなんです。でも、イラク戦争に見られるような「無理を通せば道理が引っ込む」みたいなところもあって、いくら国技としてのプライドがあったとしても、こう言うジャッジはホントにいただけませんな。

ただゲームとしては、何も手に付かなくなるくらいの名勝負でした。見ていて思ったのは、日本野球が失いつつあるものが、国際試合にはまだ生き残っていると言うことでしょう。それを最も感じとったのは我々素人よりも、むしろ、この試合を見たプロの日本人選手だったんじゃないでしょうか? 特に出場を辞退した選手たちです。

たとえば、2回も満塁のチャンスを迎えたのに、残念ながら、たった一本のヒットが出なかったと言う打撃陣の様子を見て、「ここであのM選手がいればなあ‥‥」と思ったのは僕だけではないでしょう。

誰とは言いませんけどね。言わずとも、この白熱したゲームを目の当たりにすれば、恐らく本人が一番「やっぱり出れば良かった」と、悔やんでいるはずなので・・ (イチロー選手も"何で辞退するんだ!"って怒ってましたよね)

開催時期や開催方法など、いろいろ問題のあったWBCですが、やっぱり国際試合はいい。そう言う感想を大いに持った3時間でした。


  

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