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日本のスポーツ元年

★こう言うのってどう思いますか。

「秋以降に日韓再戦を希望 韓国野球委」

WBCで、予選・決勝含めて総勝利数で韓国が日本を上回ったのに、最終的に勝ち数で劣る日本が優勝したことに不満を持った韓国が、決着?を付けようとぶち上げた提案です。

一説に「国際試合は国と国との代理戦争だ」と言う見方もあり、韓国との間には民族的なしこりもあるのですが、僕はですね、たとえ日本が逆の立場だったとして、こう言う再戦で勝利してホントに嬉しいのか、とても疑問な気がしたのです。

昔、岡本綾子さんが全盛時の1984年に「ナイスボギー事件」がありました。簡単に言うと、全米女子ツアーの公式戦に指定されていた広島のマツダクラシックで(ネットで調べました)、最終日、岡本選手と優勝争いをしていた選手が、勝敗を分けるパー・パットを外しました。その時、なんと日本人ギャラリーの中から、「ナイスボギー!」との声が聞こえたのです。

熱狂的な岡本ファンだったんでしょうが、紳士のスポーツであるべきゴルフの公式戦で、相手の失敗を喜ぶような声援は、有ってはならない暴言なのです。

岡本さんは大声を出し「なんてことを言うのか!」と涙ながらに訴えました。けっきょく逆に相手の選手になだめられ、涙を堪えながらのパッティングとなったのですが、この事件は、スポーツニュースや翌日の新聞に大きく取り上げられました。

これはその後、岡本選手が勘違いをしたんじゃないか?とか、色んな説が飛び交ったのですが、ほとんどは日本人の恥を隠すための、自己弁護の言葉にしか過ぎませんでした。

大事なことはそんなことじゃないのです。あの事件を目撃して、多くの日本国民は大いに反省したのです。「本当のスポーツマンシップとは何か?」「国際試合とは何か?」を・・・

プロレスに代表されるように、戦後の日本では長い間、外人選手を「悪役」に見立て、彼らを倒すことによって、敗戦の屈辱を払拭して来たのです。しかし経済的にも文化的に高度成長を遂げた日本は、スポーツにおいても、もう一段高いステージに登りつめる必要に迫られていました。

それを気づかせてくれたのが、「ナイスボギー事件」での岡本選手の涙の訴えだったのです。あれ以来、多くの日本人のスポーツを観るレベルが変わったような気がするのです。勝者を尊敬し敗者の健闘を讃えると言う、本来あるべきスポーツの姿にです。

極端な説かも知れませんが、あの日が、本当の意味の、「日本のスポーツ元年」だったんじゃないか?。個人的にはそんな風に思っているのです。

あれからもう約20年ですか・・・。そんなことを考えながら「日韓再戦」の記事を見ました。「決着」と言いながら、これは遺恨試合なのではないですか。そこにはスポーツマンシップが有りますか。もしやるなら、ちゃんとしたスポーツにして欲しいとは思います。



 Commented by <#6> at 2006-03-22
韓国の気持ちもわからなくないですね。日本が逆だったらどうだったかと思うとちょっと怖い気もしますが。誤審で騒がれているボブさんも日本が優勝して良かったと思っているんじゃないですか。
秋に韓国戦が開催されたとしても盛り上がらないでしょうね。千葉マーリンズが優勝したアジアリーグで韓国に頑張って欲しいと思いますが。
Commented by <高橋10> at 2006-03-23
似たようなケースとしては、シドニーオリンピックの時の女子ソフトボールがありましたね。予選リーグで、日本が最強のアメリカを破って一位通過。あの時も負け無しの6連勝をしたはずです。ところが決勝戦で、そのアメリカにたった1敗しただけで銀メダルに終ってしまったんです。あの時の日本のマスコミにも似たような論調が見受けられましたが、でも「オリンピックの悔しさは、オリンピックでしか晴らせない」と、宇津木監督は語ったのです。だから韓国には、WBCの悔しさをWBCで晴らして欲しいですね。もっともそれまでちゃんとWBCが継続されていればの話しですが‥‥

  

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