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手術後の王監督

★王監督の手術が成功したと言うことで、まずは一安心ですな。

ところで「手術の翌日に病室を5回歩いた」と言うことが医師団の記者会見で発表され、その回復の早さを各メディアが驚きと共に報道してましたけど、これは現代医学では当たり前のことで、珍しいことではない気がするのですが、どうですかね。

数年前、ウチの父も大腸ポリープで入院し、6時間くらいの摘出手術を受けたのですが、やはり翌日には歩いていました。いや、歩かされてましたよ。

術後、ゆっくり寝ていてはいかんそうです。専門的なことは分かりませんが、すぐに歩き出さないと患部が変な風に癒着したり、回復が遅くなったりするので、それらを防ぐ意味で朝起きたらすぐに歩かされるのだそうです。

特にお年寄りほど、筋力が弱ってそのまま寝たきり老人になってしまう恐れがあるため、ムリにでも起こされるものだそうです。

でも、その父の姿を見たときにはさすがにビックリしましたよ。ドラマやなんかでは、手術後すぐに起き上がろうとする頑固な患者を見つけた看護士が、「何してるんですか!ムリしちゃダメじゃないですか!」と一括するシーンをよく見ます。

そのイメージがあったので「どうなってんの?」と思ったわけなのですが、あれはじつは大昔のことなんだそうです。今ではすぐに起こして歩かせるのが医学の常識で、お産なんかでも、昔は産後1週間は寝かされたそうですが、現在ではやっぱりすぐ歩かされるようですね。

まあ、そんなようなことなので、身内の誰かが初めて入院・手術した時は、よくよく心した方がいいですよ。そう言うものだと思って見舞いに行かないと「病人になんてひどいことをする病院なんだ!」なんて勘違いをすることになりかねません。

じっさい、お年寄りが「看護士に虐待を受けた」と家族に告げ口し、病院側に詰め寄るなんてことも有ったそうですな。


  

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