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バッティングのコツ?

★プロでも素人でも、今まで打てなかった人が突然打ち始めたりすると、「何かをつかんだのかな?」などと思うことがありますよね。昨年のイチロー選手(オリックス)の最多安打の時とか、今年の広島・新井選手のホームラン量産とか。それらにはやっぱり「コツ」みたいなものがあったらしいですよ。

もちろん我々素人がそれを聴いて、すぐに草野球に応用できるとは限りませんが、いくつかテレビや新聞に書かれたことで、役に立ちそうなことがあったので、今度の練習の時にでも、試してみませんか?


1/【利き手の甲を立てる】

これは僕が実際に試してみて成功したヤツですが、巨人戦の解説で、デーブ大久保氏が小久保選手の打席で言ってたことです。

「右手の甲が寝ている、もっと立てないと強い打球が打てない」。小久保選手は右打者なので、左打者ならば左手になります。この手はボールをミートしようとすると、甲が寝て地面に向きます。そうするとバットのヘッドが下がって、ボールの下を擦り、凡フライになることが多いと言うのです。

「なるほど」と思った僕は、左手が地面と垂直になるように構え、出来るだけ立てたままでミートするよう心がけました。(あくまで「意識」と言う意味。実際には最後まで垂直のままと言うのは不可能です)

すると、ミートが正確になり、アッパー気味だったのが自然にレベルスイングに修正され、ライナー性の強い当たりが出るようになりました。肉離れで出場した城北中央の試合。あの2本のヒットはまさにこれでした。(こう言うことを自慢げに告白するとたいてい打てなくなるんですが・・)


2/【グリップに小指をかける】

広島カープ新井選手の話しです。彼はもともと長打力があったんですが、しばらくスランプになり、少しフォームを改造したそうです。僕がテレビを見て気づいたのは、グリップの位置が胸のあたりから肩のあたりに上がったことですね。

で、本人が言うには、バットを持つ時、小指をグリップにかけるようにしたそうです。これによって、バットが握りづらくなり、結果としてヘッドスピードが速くなったそうです。

逆説的ですが、握りづらくすることで手首でコネらないようにする、つまり手打ちになることを防いでいるんですね。これは阪神にいる金本選手のアドバイスによるものだそうですが、古くは田淵選手がそうだったし、イチロー選手も小指をグリップにかけていますね。手首が強すぎてコネるクセのあるバッターに効果のある矯正方法でもあるようです。


3/【バットを短く持つ(or 短いバットを使う)】

最後はバットを短く持つことです。ふつうに考えれば「短く持つ」とは、「長打力を犠牲にして、ミートを確実にする」と言うイメージだと思います。つまり多くの人は「長く持った方が長打が出る」と思っているわけです。が、実際にはそうとも言い切れないようです。

何故かと言うと、短い方が、遠心力の関係で長く持ったときよりヘッドスピードが速くなるんです。ボールを遠くへ飛ばす原動力はヘッドスピードなので、理屈で言えば長打力が増すと言うことになるはずです。

その証拠と言うわけではないですが、あのホームランバッターの代表である王選手も、グリップを指1本〜2本分くらい短く持って打ってました。テレビで「王選手の懐かしの映像」が出たら良〜く見ておいて下さい、あとメジャーでは、かのホームランバッター「バリー・ボンズ選手」も同じく指一本分短く持ってました。

それから元ヤクルトのハウエル選手(後に巨人)が、日本に来て調子が上がらない時、彼が長めのバットを使用しているのを発見したコーチから、1インチ短いバットを使うことを勧められたそうです。それを実践したところ、突如としてホームランを量産するようになったと言うのです。

その結果にハウエル選手は、「10年早く日本に来ていたら、私の野球人生はもっと素晴らしいものなっていたはずだ」と語ったくらい喜んだそうです。その後、同選手はメジャーに復帰、代打の切り札として活躍しました。

さらに、逆の話しでは駒田選手(巨人〜横浜)が挙げられます。彼はデビュー当時多くの満塁ホームランを打ち、「満塁男」などと呼ばれ、その長打力が魅力でした。

ところが、レギュラーに定着してから「もっとホームランを増やそう」と長いバットに代えたところ、パタっと長打が出なくなったのです。それ以来、元の長さに戻しても感覚が戻らず、横浜に移ってからは「中距離バッター」と言うイメージの方が強くなってしまいましたよね。

ちなみに、僕も短く持つ派です。ビヨンドを使っている時も指2本は空けてます。さらに以前木のバットを使っている頃は、拳ひとつ短く持ってました。で、それが面倒くさくなって「いっそのこと短いバットを使えばいい」と思うようになりました。そこでアメリカで手にいれたのが、80cm32インチ)の短い木製バットです。

普通はだいたい84cmですから、4cmも短いわけです。芯をくり抜いていない硬式用なので(アメリカに軟式用は無い)、重さがだいたい740g、通常の長さの軟式用バットと同じくらいの重さになります。これで打っていた頃が一番遠くまで飛んでいて、年間20試合で4本の柵越えを打つことが出来ました。

硬式用バットを軟式で使用してよいのか?と言う疑問があるかも知れませんが、軟式野球の規則では「木製バット」に関して、木製である限り、硬式用であろうが問題はありません。

*軟式用バットの使用ルール
一本の木材で作った木製バットのほか、竹片、木片などの接合バットであること。木製については公認制度を適用しない

あと、ライナー性のヒットになるか平凡なフライになるかは、ミートの時のほんの数ミリの違いだと言われますが、バットを短く持つか長く持つかで、スイングの時のヘッドの高さが変わります。手に持った重さの違いで、ヘッドが数ミリ上下するわけです。ようするに重力の影響です。

「どうも当たり損ねのフライが多い」と言う人は試してみる価値があると思いますよ。短く持つと軽くなってヘッドが上がり、ボールの下を擦ることが少なくなります。ただ、大人になると「短く持つのは少年野球のやること」と言う先入観が働いて、その余計なプライドが邪魔するんですけどね。

まあ、いろんな事が試せるのが草野球の面白さでもあるので、セオリーだとか固定観念にとらわれず、いろいろやってみませんか?



  

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