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ある草野球サイトの閉鎖

★このごろはインターネットのサイトで知り合い、初めて対戦するチームも増えています。もちろん我が草野球チーム・ゴブリンズもその恩恵にあずかり、頻繁に使わせてもらっています。

で、どこの草野球サイトが一番便利なのかと言うと「草野球なんでも広場」と言うところなのです。ところが、ゴブリンズが夏休みで少し見ないウチに、突然「9月いっぱいで閉鎖」と言うことになっていました。

原因を簡単に言えば・・

「高校野球の、大差がついて敗戦濃厚な試合で、相手投手がノーヒットノーランを達成しそうなピッチングをしている時、ノーヒットノーラン逃れのためだけにセーフティー・バントをすることは正当なプレーか?。もっと正々堂々とバット振って戦うべきではないか?」

と言う議題が炎上、「ノーヒット・ノーラン逃れのバントはやって当たり前」と言う書き込みが大勢を占めてしまったからだと言うのです。

で、けっきょく「日本の野球好きの考え方はこんなものなのか。そんな野球観しかもたないヤツらのための草野球支援サイトなんて、運営する気力が失せてしまった」と、サイト管理人さんが怒ってしまったようなのですね。

そこまで感情的にならなくてもいいのになあ、と思いつつも、似たような考えを持つ僕としては、分からないでも無いとは感じました。

もちろん高校野球と言うのは実は特種な世界で、この件だけを取り上げて批判することは出来ないのですが、むしろ、書き込みをした連中のたとえ話や、「ルール内であれば、何をやったっていい」的な発言が、管理人さんの逆鱗に触れてしまったようなんです。

たとえばこんなのが有りました。象徴的だと思ったので転載しときます。(無断ですが書いた相手も匿名なのでいいでしょう)

「イチローがメジャーで大量リードしている終盤に盗塁をし、相手チームからマナー違反だということで次の日にぶつけられたのと同じぐらい意味がわかんない」

これだけ「メジャー」が日本でメジャー?になっても、こう言う人ってまだまだいるんだな、と思いました。

こう言うことについて、僕はよく柔道と比較して考えます。現在の柔道の国際試合を見ていると、あくまで一本勝ちにこだわる日本選手に対し、故意に反則を誘発するような動きをし、反則ポイントを稼ぐことで勝とうとする外人選手がいたりして、「おいおい、それじゃあ柔道じゃないんだよ!」と、目を覆いたくなる場面があります。あの状況を野球に置き換え、反対の立場で考えるとよく分かるのです。

つまり「柔道には柔道の精神」、「ベースボールにはベースボールのスピリッツ」があるような気がするんです。柔道が「一本勝ち」と言う本来の姿で勝ってこそ、最も素晴らしい勝負になるように、ベースボールにも素晴らしいスポーツとなりうる「本来の姿」があるはずなんです。

このサイトの管理人さんも、そう言うこと言いたかったんじゃないですかね。少なくとも、こないだサッカー日本代表がオウンゴールで勝った時、「あれは本当の勝利ではない!」と、勝ってなおサポーターがなじったように、野球ファンにも「そんなベースボールは見たくない!」と、もっと気骨を見せて欲しかった、そう思ったんじゃないでしょうか。

それにしても、このサイトが無くなるのはゴブリンズにとっても痛手です。「草野球なんでも広場」は構成が良く出来ていて、非常に使い安く便利なのです。最近のゴブリンズの初対戦チームは100%ここで探したチームなんですよ。そのお陰で、毎週のように試合を組めているわけなのです。

今後は代替サイトが出来るらしいとのウワサもあって、その点では何とかなりそうなのですが、今回の「炎上」の書き込みをざっと読んでみて、「こんな古い考え方のチームってまだたくさん有るんだ!」と言うこともよーく思い知らされました。

もちろん個人の意見はそれぞれ有っていいと思うんですが、無償で善意だけで草野球サイトを運営してくれてる管理人に対し、たとえ反論で有ろうとも、礼儀や言葉遣いがまるでなってないと思うんです。

つまり日本人が本来持っていたはずの、礼儀正しき「日本の精神」さえも失った、民度の低い人たちってことになりますかね。




  

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