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予知されたタイムリー(ガリレオ先生とセキグチ少年)

★1974年、超能力者を名乗るユリ・ゲラーと言う男が来日、テレビに出演して、念力でスプーンを曲げたり、壊れた時計を動かしたりして日本中を驚かせました。 それを見ていた子供たちも影響され、日本のあちこちで超能力少年、超能力少女が現れました。中でも、関口君と言う小学生の能力は突出していて、何度もワイドショーや雑誌で取り上げられ、ユリ・ゲラー以上の脚光を浴びるようになって行ったのです。 ・・これはその頃に聴いた、奇妙な野球中継の記憶です。 ある日曜日の午後、当時、中学生で広島カープのファンだった僕は、いつものように趣味の油絵を描きながら、ラジオの野球中継を聴いていました。そこにゲストとして、関口少年が招かれたのです・・・ * 「予知されたタイムリー」 (ショート・ストーリー風に・・) 本当に、世の中は変わってしまった。彼はテレビの超能力特集番組を見ながら、そんなことを考えていた。同時に、もしあの少年が、今の時代に現れていたなら、あんな事件にはならなかったのかも知れない、とも思うのだった。
 彼は某ラジオ放送局アナウンス部の管理職。今はもう現場を退いた身で、マイクの前に座ることも稀である。 彼は、野球の実況中継をするのが夢でこの仕事についた。その直後から巨人の9連覇時代が始まり、王、長嶋らを中心とした空前のプロ野球ブームを迎えることになる。 しかし、毎試合が名勝負とは限らない。平凡で退屈な試合だっていくつも有る。むしろその方が多いくらいだ。そしてあの日も、本当はそんな無数の、平凡な試合の一つとして終わるはずだったのかも知れない。 日曜日のデイゲーム、巨人対広島。 グラウンドでは両チームのウォーミングアップが続いていた。 いつものように、解説者と打ち合わせを済ませたあと、今日は、隣に座っているゲストの少年に話しかけ、ご機嫌をうかがう。 少年は「関口君」と言って、念力でスプーンを曲げたと騒がれている子供だ。 アナウンサーはその子が巨人ファンであり、熱烈な森捕手(元西武監督)のファンであることを聞き出した。それから、放送が始まってからの手順を解りやすく説明して、時間が来るのを静かに待つようにとも伝えた。 間もなく放送が始まる。 「さあ、今日は解説の◯◯さんの他に、大変なゲストをお招きしています。こんにちは!」 「こんにちは・・」 少年はぼそりと答える。 「今日のゲストは、あの有名

この夏の怪異現象

 ★今年は終戦から70年とのことで、いつもより多くの特集番組をやっていたような気がします。原爆についても同様、記念式典の中継やドラマなど、いろいろありました。ウチの母親もそれらを見ていたようなのですが、ふと、妙なことを言い出したんです。 「原爆ドームって中に入れるの?。あのてっぺんは展望台か何か?」 と尋ねるのです(母は広島を訪れたことが無い)。「急に何を言い出すのか」とよく聞いてみると、テレビを見ていたら、原爆ドームを映したときに、破壊され剥き出しになったドームの鉄骨の中に「黒い人影」が見えたと言うのです。それは明らかに鳥などではなく、人の形をしており、左右にゆっくり動いていたと言うのです。 もちろん原爆ドームは、内部はおろか敷地内に入ることさえ出来ません。いわんや「展望台」のわけが有りません(僕はかつて訪れたことがあります)。では母親が見たものは何だったのか?。物理的に何か映っていたのなら、中継していたスタッフも気づいただろうし、話題にもなったでしょう。なら、母親だけが感じ、見たものだったのか・・ 念のため言っておきますが、見ていたテレビは、今どきの47インチの大きな液晶テレビですから、大映しの鮮明な映像だったことになります。僕が一緒に見ていたのなら、見間違いか、あるいはこの世のものでは無い何者か?だったのか、判別できたと思うのですが、残念ながら、見ていなかったので何とも言えません。 が、ホントに何かがいたのだとしたら、未だ浄化されていない霊体の可能性もあるので、いろいろ気にはなりました。ウチの母親には少し変わったところが有り、子供のころから様々な怪異現象を経験したようなので、またもや?と言う可能性は否定できないのです。 ★その母親のことで、ここ数年、初めて知ったことがありました。どうも母は「宝くじを毎回 小さく当てるらしい」と言うことなんです。2、3年前から、「細かい文字を見るのが面倒だから」と、購入した宝くじを、僕が頼まれて確認するようになったのですが、やってみると、どの宝くじでも、だいたい3000円以上は当たっていることに気づいたのです。 両親とも、いつも決まって二束20枚購入するのですが、父親は下一桁の300円、それが二枚当たって600円くらいが通例なので、そんなもんだと思ってました。しかし母親の方は、20枚のうち最低でも3000円以上、大きいときは10

今年のめんつゆは、これにする!

*最近、写真の「ヤマキ・鰹節屋のだし・めんつゆ」と言うのに凝ってます。いろんな「つゆ」や「スープ」を試すのが好きで、これもその趣味?の一環で、試しに購入してみました。 今まで自分の中では、数ある「つゆ」の中でもあまりに一般的、ちょっと地味で、それほど興味の対象には思えなかったのですが、「増量中」キャンペーンにそそられ買ってみたのです。 で、スーパーで揚げたての「揚げ玉」を買い、それでタヌキ蕎麦を作ってみることにしました。すると、つゆを温めている間に思わぬ異変?が起こりました。 キッチンに、「おそば屋さんと同じ匂い」が立ち込めて来たのです。ガラッと店の戸を開けた瞬間に食欲をそそられる、東京のおそば屋さんの甘辛の匂いだったのです。 もちろんどんなつゆでも、温めればダシや醤油の匂いが立ち込め、そこそこの匂いにはなりますが、この「ヤマキのつゆ」はそのレベルを越え、子供のころ、たまの贅沢で親に連れられて行った、おそば屋さんの懐かしい記憶さえ呼び起こす?ほどだったのです。 で、思わず「ああっ、これはたまらん!」とガゼン乗り気になって、生そばを茹で、タヌキ蕎麦に仕上げて食べてみると、味も「おそば屋さん」にとても近い味で、中々美味しかったですね。 さらに「もりそば」ではどうだろう?と言うことになって、後日試してみたら、いつも食べている「永坂更科のそばつゆ」よりは薄味にはなりますが、クセの無い味なので、むしろ2015年はヤマキで行こうかなと思いました。 ・・ただ、前にも書きましたが、僕が探しているのは、あくまで「東京(江戸?)の蕎麦つゆの味」なのです。なので、地方出身の人の口には合わないかも知れないので、強くお勧め、というわけでは有りません。 ◎東京の そばつゆ(2009年) *あと「冷麦用・そうめん用」としては、西友オリジナルの「みなさまのお墨付き・そうめんつゆ」がとても美味しいので、2015年のメインにすることにしました。 当たり前ですが、そば用と比べると甘みが少なめで、さっぱりしています。冷麦の薬味としては、ミョウガが一番好きなので、ミョウガの風味が生きるつゆとして、これはいいと思います。あと付け合わせに、ザク切りにした「新生姜」なんていかがでしょう? まあ、冷麦用とそうめん用では、麺に絡みつく量の違いで、つゆの濃度に多少差があるようですが、自分の場合は、まあ、どっちでもいいっ

続・自衛隊サンダーバード化計画

 *先日、ネパールで大地震があって、各国から救助隊が向かったと言う報道があったとき、ある解説者の、「もっと、自衛隊の戦闘能力ではなく、災害救助の優れた能力を世界にアピールするべきではないか?」との発言を耳にしました。 こう言う考え方はじつは僕もずっと持ってまして、ブログで「自衛隊サンダーバード化計画」なんてのを書いたことがあります。少し前には田中康夫氏も「自衛隊をサンダーバードにするべき」と語っているのを聞きまして、同じように考える人は随分いるのではないか、と認識を改めるようになりました。 僕が「自衛隊サンダーバード化計画」を最初に書いたのは、ブログを始める以前のこと、自分でアップしたホームページの中でのことです。それに少し加筆してブログに転載したのですが、ブログは2005年から始めたので、原文を書いたのは2005年以前と言うことになります。 が、ネットで調べられる限りでは、「自衛隊のサンダーバード化」と言うのは、言い方こそ違え、1990年代辺りから言われ始めていたらしく、語り口も論理的で、単なる「夢物語」とは言い切れないものがあったようです。つまり決して新しい考え方ではないと言うことなのです。 僕にとっては、大災害が起こるたびに思い浮かぶことで、ブログに転載したのも中国の四川大地震が起こったのがきっかけでした。今回も、ネパールのなかなか進まない救助活動を歯がゆく思い、ついつい言いたくなってしまったのです。とは言え、同じことを何度書いてもキリが無いので、とりあえずは過去の記事をリンクしておくだけに留めます。 ◎ 自衛隊サンダーバード化計画 こんな話しを書くと、どうしても「夢想家」と言われそうで、自分でもやや自嘲気味に書いているのですが、でも、ホントに夢を見ているのは誰なんだろう?、なんて思ってしまうこともあるのです。 先日、総理がアメリカへ行って、尖閣諸島をめぐる日米安保条約の適用について日米双方で確認したとのことで、大喜びしてたようですが、これちょっとカラクリが有るんですよね。日米安保条約で肝心なのは、「日本国の施政の下にある領域(であることが条件)」という項目なんです。 つまり、たとえば、尖閣諸島を日本が実効支配している間は、アメリカが援護してくれますが、仮に、一夜にして何者か?が上陸して日本を追い出し、ひとたび「日本国の施政の下にある領域」でなくなってしまった

ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帳」を見たら・・

 ★先日、タイトルの書いていないDVDを何枚か見つけまして、「ハテ、何を録画したんだっけ?」と見てみると、2013年にフジテレビで放送した「ビブリア古書堂の事件手帳」でした。 これはチマタでは「月9ドラマ史上最低の視聴率」などと散々な言われ方をしたヤツですが、僕の感性によれば、地味で小品ながら中々の出来映えだったと想ってます。 逆に、すごい視聴率をマークした「半沢直樹」などは、もちろん全部拝見した上で言わせてもらえれば、あれは、すごく面白かったけど、見終わった後味が「大げさな水戸黄門」みたいだった、と想いました。 さて「ビブリア古書堂」ですが、元々は小説が原作で、主人公、古書堂の若い女性店主「篠川栞子(剛力彩芽)」が、鋭い洞察力と推理力で、一冊の古書をめぐる謎を解いて行く話しです。 相手役に「五浦大輔(EXILE AKIRA)」。この五浦大輔と言う男は、ひょんなことからビブリア古書堂のアルバイト店員になるのですが、何と「本が読めない男」と言うムチャな?設定なのです。強引に本を読もうとすると、貧血やめまいを起こしてしまうと言うことになっているのです。 「これ、視聴者は理解できるのかな?」と、少し不安になりました。フツウの人にとって、本がまったく読めない人間なんてリアリティを感じないかも?と想ったのです。ですが、こういう人ってホントにいるんですよ。何故そう断言できるかというと、僕自身がかつてそうだったからです。 あれは十代、ちょうど中学生の頃でした。ドラマの五浦君は「めまい・貧血」と言うやや病的な症状のようですが、僕の場合はそうじゃなくて、ふわーっと、いつの間にか別のことを考えてしまうと言う妄想癖でした。 詳しくいうと、本を読もうと文字を追っていくうち、何かの単語に気を取られてしまうのです。するとその単語にまつわる色んな連想が沸き上がり、ついには、文脈とは関係の無い妄想の世界に入り込んでしまう、と言う感じでした。途中ハッと我に返り、「いけない、文章を読まなければ」と、戻そうとしてももうダメで、どんどん本と関係のない空想の中に入り込んでしまうのです。 後々分かることなんですが、これは「雑念恐怖症」と言う、神経症の一種だったようです。(今もこう呼ぶのかは不明です)。人によっては、本に集中できないことに深く悩み、余計に症状を悪化させてしまうことも有るようです。 僕の場合、あま

オレンジクリーナーを買った、ダイソーで・・

★ある年の冬、白いダウンジャケットを着て自転車で出かけようとしたら、途中で自転車のギアの調子が悪くなりまして、家に戻り、出かけた時のままの格好で、ギヤやチェーンをいじり出してしまったことが有ったのです。 自転車をいじる時は、ホントは汚れていい格好に着替えるのが原則なのですが、直したらすぐにまた出かけるつもりだったので、ついつい白のダウンのままやってしまったのです。そうしたら案の定、知らぬ間に、袖からヒジにかけてべっとりと黒い油汚れを付けてしまったのです。 その時はもうガッカリしまして、「このダウンはもう着れないなあ」とあきらめてしまったのです。それまではマメにクリーニング店に出したりしていたのですが、ガッカリし過ぎて、そんな気力も無くなっていました。で、しばらくそのままにして、古い紺色のダウンジャケットを着ていたのですが、ある時、ダイソーで物色していたら、写真の固形石鹸「スーパーオレンジクリーナー」を発見したのです。(もちろん税込み:¥108) 箱の注意書きを読むと、「オレンジオイル配合」を書いてあります。これまで「シトラスクリーナー」とか「オレンジスプレー」など、「オレンジオイル」が油分を分解することは経験上知っていましたが、あれは主にインラインスケートのベアリングの掃除などに使用したものでした。 が、これはどうも「衣類」の部分洗いに使うものらしいのです。で、なぜか「ひょっとしたら、これで白いダウンの油が洗えるかも知れないぞ」とひらめいてしまい、ダメもとで試してみることにしたのです。ついでに軽くこする用のブラシを購入し、帰宅しました。 洗面所で汚れた部分を水に浸し、オレンジクリーナーをこすり付けて泡立て、その上からブラシで汚れを削り出す、と言う感じで作業を進めると、みるみる内に汚れが流れて行くのです。それを水で洗い流してみると、驚いたことに、ほぼ油汚れが落ちていたのです。わずかに小さなうすい灰色のシミが残ってはいましたが、パッと見はまったく分かりません。 「これはいい!」と言うことで、それ以外の汚れや、襟の汗染みもこすり落とし、袖の毛糸の部分も真っ白にして・・、しかしながら、それを手洗いでゆすぐのは大変なので、もうすっかり水分に浸してしまった後だし、無謀か?とは想ったのですが、「エイヤッ!」とばかりに、洗濯機に突っ込んでしまったのです。 脱水の時にダウンジャケット

間違いだらけの・・

 ★今では漫画もイラストも、コンピュータで描きデータ納品することが当たり前で、納品もメールかダウンロードで先方に送るのが常識となってますが、これはまだ僕が、イラストボードに絵の具で描いていた頃の話しです。 その日は、出来上がったイラストを納品するために、都心の、とあるデザイン事務所に出かけていました。そこは皇居のお堀の近くで、ビル(マンション?)の7階でした。デザイナーに作品を手渡し、エレベーターで1階まで降りる途中のことです。 何階だったか忘れましたが、不意にエレベーターが止まり扉が開きました。乗り込んで来たのは、小太りで白髪まじりの初老の男性でした。見たことのある顔だったので、僕は反射的に、「あっ、こんにちは・・」と笑顔で挨拶してしまったのです。が、相手は怪訝そうな表情でこちらを覗き込み、それから低い声で「こんにちは」と返して来たのです。 その様子にこちらも不安になり、「顔は知ってるんだけど、ハテ、誰だったっけ?」と、背中を見ながらアレコレ考えている内に、「あっ!この人、自動車評論家の徳大寺有恒さんだ!」と想い出したのです。いろんなメディアで見ていたので、つい「顔見知り」だと思い込んでいたようです。 「しまった・・ マズかったかな?」と少しバツの悪い想いをしていたのですが、1階に到着し扉が開くと、「では、お先に」と、軽く会釈しながら外へ出て行かれたのでした。その自然な振る舞いのおかげで、後味の悪い想いをせずにすんだのです。 その「徳大寺有恒さん」が、11月7日に亡くなりました。訃報が流れた時、しばし言葉を失い、免許とりたてで車に夢中になっていた頃のことを想い出していました。 同氏の著書「間違いだらけの車選び」のシリーズがヒットしていた頃で、夢中で読みあさった記憶があります。徳大寺氏の「間違いだらけの車選び」と、三本和彦氏の「新車情報(TVK)」が、車に関する欠かせない情報源でした。 徳大寺氏の著書で一番印象に残っている言葉は、「群れて走るな!」と言う一節です。これは「間違いだらけ・・」だったのか、それとも他のエッセイ本だったのか、もう想い出すことは出来ませんが、これは今でも僕の運転の信条となっています。まあ一般道ではある程度仕方無いですが、高速などでは、極力他の車が見えないくらいの距離をおいて走るようにしています。 これは中々難しいのですが、いわゆる「金魚のフン

神宮ラストゲーム

★むかしむかしのお話しです。広島カープが創設26年目にして、ようやく初優勝を成し遂げた翌年、つまり1976年のこと・・ この年、神宮球場で行われるヤクルト×広島三連戦の、決まって三試合目に姿を現す二人の女子高生がいました。彼女たちは、紺色のブレザー姿のまま球場を訪れ、まだ芝生敷きだった外野席の一角に腰を下ろし、ヒザを抱え、どこかボンヤリとした雰囲気で、静かに野球を眺めていたのです。 彼女たちが、いつからどんな理由で姿を見せるようになったのかは分かりません。ただ、1976年のシーズンが終了するまで、それが間違いなく続いていたことだけは確かなのです。 当時、僕は美大受験(油絵)を目指す浪人生でした。現役、一浪目と失敗し、二浪目に突入していたのですが、その頃には、実はひどいスランプに陥っていたのです。 美大を目指すくらいなので、もちろん絵には自信が有りました。子供のころから写実的な描写が得意で、「絵の天才」などとチヤホヤされ、自分でもそう思い込んで育って来たました。が、そんな奴らは、世の中には数えきれないほどいたのです。 都心の美術研究所とは(美大予備校はこう呼ぶ)そんな「田舎の天才たち」が何百人と集まる場所でした。天才だったはずの僕は、いつしかその集団の中に埋もれ、すっかり「並みの人」になっていたのです。 毎月行われる油彩とデッサンのコンクールでも(いわゆる模擬試験?)何度描いても下位に低迷し、一位になる作品の何処がいいのかもさっぱり理解できない、そんな泥沼のような毎日が続いていました。 そんな時、ふとした思いつきで見つけた気晴らしが、神宮球場での野球見物でした。研究所が新宿に有ったこともあり、帰りに足を伸ばすにはちょうどいい距離だったのです。中学のころから熱烈な「広島ファン」だった僕は、ヤクルト×広島戦の予定を調べては出かけて行きました。 当時の「ヤクルト×広島戦」は、まるで人気の無いカードで、応援団のいる内野席はまだしも、外野席はいつもまばら、誰が何処にいるかもすぐに分かるほどでした。だから、制服姿の二人の女子高生を見つけることは、それほど難しいことではなかったのです。 当初は「あの子たち、また来てる・・」という程度の印象だったのですが、それが何度も続くとなると、やはり興味が湧いて来ます。いつしか神宮に来るたび、まずは外野席を見回し、彼女たちの居場所を探すようになっ

TOPEAK(トピーク)のライドケースを付けた

 ★このところ世の中は「iPhone6」の話題で持ち切りですが、僕のiPhoneはまだ6どころか5でもなく、4sのままなのです。じつは一度水没させて修理に持ち込み、別のものと交換することになったので、その分バッテリーの寿命が伸び、現在まで使い続けることになったのです。iPhoneの修理は基本的に全取っ替えとのことで、持ち込まれたヤツをオーバーホールして、別の修理時に交換品として出すらしいです。 で、iPhone6が出たら、4sはアップルのラインナップから外されるとのことで、今、ショップでは4s用のアクセサリー類が非常に安くなっておるのです。それに釣られて、ついついこれを買ってしまいました。ホントなら4000円くらいするやつですが、1000円ほどで(送料無料!)で購入することが出来ました。(写真は拡大できます) 「TOPEAK ライドケース」とは、スマホを自転車用ナビとして使用するためのホルダーです。もちろんこれまでも、いろんなiPhone用ホルダーを取っ替えひっかえ試して来たのですが、なかなか「これだ!」と想うものに行き当たらず、今に至っていたのです。 何がダメだったのかと言うと、自転車と言うのはかなりの振動があるので、まずは「絶対に落ちないもの」でなければなりません。ところが、落ちにくいものは得てして「外しにくいもの」であることが多いのです。 サイクリング中にトイレに行きたくなったり、コンビニに入るときなど、盗難に用心する必要があるので、外しにくものは実は不便でしょうがないのです。 そしてまた、iPhoneをケースに入れたままだと、ホルダーにハメられないものが多く、自転車に乗るたびにケースから出さねばならず、面倒だったりします。あとは、見た目がゴツくなりやすいこと。iPhone装着時はまだいいのですが、外したあとハンドルにホルダーだけが残ると、どうにも見た目が悪いのです。 そんないろんな条件を考慮して行って、最後に行き着いた製品がこの「TOPEAK ライドケース」でした。が、いかんせんこれにも欠点が有ったのです。 それは値段が高いと言うこと。確かにモノはいいが、これに4、5千円出すと言うのは、チト痛い‥、と想って迷っていたら、iPhoneモデルチェンジのため4s用がどんどん値下がりして来たことから、これは買い時だ!と言うことになったわけなのです。(赤い棒のようなも

天神様と稲妻

★私の母にまつわる怪異現象?について、これまでもいくつか書きました。その中でも一番印象に残る話しとしては、天神様と呼ばれる山の上の神社で起こった落雷の話しだったと想うのですが、その後、母から聞き直してみたところ、いくつか実際と異なる部分があると分かりました。幼いころ何度も聞かされ、しっかり覚えていると思い込んでいたのですが、細かい部分で記憶違いがあることが判明したのです。なので、それを訂正したものをもう一回アップしたいと想います。 私の母は雷を異常に怖がります。雷が鳴りはじめると部屋に閉じこもり、何もしなくなってしまうくらいなのです。もちろんそれには、そうなるだけの理由、今で言う「トラウマ」となる出来事がありました。 私の母は昭和一桁生まれで、秋田県大仙市(当時の大曲)の小さな村で育ちました。が、小さいながら、当時は子供たちのたくさんいる活気に満ちた所だったとのことです。その村の中心には、天神様と呼ばれる山が有り、二百段ほどの石段を登ると、頂上には神社が有って、境内は十数人の子供が走り回って遊べるだけの小さな広場になっていました。(私も子供の頃、里帰りする母に連れられ何度も登ったことが有ります) その日、母は遊び友達の女の子と二人、天神様に向かって階段をかけ昇っていました。冬は雪に閉ざされ登れません。これは夏の良く晴れた日の出来事なのです。以前書いた時は、この時の母は10歳以下と思い込んでいたのですが、どうやらもう少し年上の、12〜13歳くらいだったようです。 途中母は、その友だちにいたずら話を持ちかけられました。昔から村の大人たちに絶対に見てはいけないと言われている、天神様の御神体を見てしまおうと言うのです。私の母は、そんなおっかねえことはやめようと、しきりに説得したのですが、相手の女の子は聞く耳を持ちません。 頂上に着くと、すでに授業を終えた小学生から中学生くらいの子供たちが遊んでいました。その中には母の弟(私の叔父)もいて、一緒に遊んでいたそうです。つまりこれは、子供ながら複数の目撃者がいた現象だったと言うことなのです。 その友だちは、神社に着くなり、尻込みする母の手を引っ張って社の階段を上って行くのでした。そうして引き止める母の声も聞かず、ほこりにまみれた扉を開け、御神体が祭られているはずの、奥の戸を開けてしまったのです。・・が、そこには、古びた丸い鏡が置か

サッカー日本代表の背丈、その後・・

 ★先日、こちらのブログ 「なんか、サッカー日本代表って・・? 」を読んだ友人から、いろいろ意見を寄せられたのですが、まあ、そこにも書いたように、自分はサッカーについては全然くわしくないので、結論めいたものは何も答えられませんでした。 ただ「サッカーと言うのは野球などと違って、背が低くても通用するスポーツなのでは?」と意見については、やはり半信半疑だったのです。で、その根拠が知りたくて、たまに仕事の合間にネットなどを探して見るのですが、サッカー評論家や代表OBは、作戦や技術、精神面を批判するばかりで、「日本代表の体格」については指摘する人がほとんど無く、けっきょく素人の思い過ごしだったのか?と想っていたのです。 ところが、Yahoo!でこんなコラムが有るのを見つけました。 ◎ 元セレッソ大阪監督のレヴィー・クルピ氏が語る、 日本がW杯で実力を発揮できなかった最大の要因とJリーグへの提言 この記事がいつまでアップされているか分からないので、あえて引用しておきます(こんなに使っていいのか不明ですが‥‥) *Yahoo!ニュース 「レヴィー・クルピが語る、日本がW杯で実力を発揮できなかった最大の要因とJリーグへの提言」より 『現代のフットボールではサイド攻撃が非常に重要であり、またサイドを破られるとほぼ必ず大きなピンチを迎える。とりわけ、日本には高さと強さを備えたCBが少ないため、相手にサイドで起点を作られてクロスを入れられると、致命傷となることが多い』 『また、本来は高くて強いCBと、それほど大柄でなくてもいいがスピードのあるCBが同時に出場し、互いにカバーし合いながら守ることが必要だ。しかし、この試合で、日本はそのどちらの条件も満たすことができなかった』 『日本の場合、サイドバック、攻撃的MFには欧州でも通用する選手がいるが、CB、GK、ボランチ、CFでは非常に少ない。優秀なCB、GK、CFを育てるためには、将来大柄になる素質があるタレントを十代前半までにスカウトしてきて、かつてそのポジションで高いレベルでプレーした経験を持つ専門のコーチをあてがい、計画的に育成するしかないだろう』 『日本選手が持ち前のテクニックを発揮できなかった最大の理由は、W杯のインテンシティ(プレー強度)の高さにある。W杯では、選手たちがボールを自分のものにするため、すさまじい勢いでぶつかり合う

なんか、サッカー日本代表って・・?

★ブラジル・ワールドカップでは、残念ながら日本代表は予選リーグで敗退してしまいました。このところ日本のサッカー選手も、海外のクラブチームで活躍することが多くなり、そんなことも有って、今回はけっこう期待が大きかったのですが、結果はむしろ逆になってしまったようです。 まあ、ゲームの内容とか作戦とかについては、野球ほど詳しくは分からないので、ほとんどコメントすることは出来ませんが、見ていて、あることに気がついたんです。何処との対戦だったか、日本の攻撃で、サイドから中央へのパスが、ことごとく相手のヘディングによってインターセプトされてしまうシーンを見たときでした。 「もしや、日本のサッカー選手って、背が低くないか?」 そう想ったんです。もちろんどんなスポーツだって、日本選手の対格差がハンディになると言う話題は何度も言われて来たことでした。ですが、この時想ったのは、外国との比較ではなく、日本の他のスポーツとの比較だったんです。で、さっそくネットで検索してみたんです。するとYahoo!知恵袋のアーカイブでこんな発言が見つかりました。野球のWBCで日本代表が優勝した時のことのようです。 『 自分はサッカーファンですが、今回のWBC優勝には感動しました。で、WBC日本代表について関いろ調べてたら、衝撃的な事実を知りました。日本のサッカー代表選手って、世界的に見たとき背が低いですよね。皆170~175cmくらいですよね? 野球もどうせそうなんだろうなぁ、とか思いながらネットで調べたら衝撃‥‥ 日本の野球選手って「大男の集団」なんですよ 』 『 サッカー日本代表で一番の長身、中澤が187cmなんですが、WBC日本代表では、稲葉、田中マー君、内海が3人とも中澤とほぼ同じ身長なんです。小さいと思っていたイチロー、中島でさえも、それぞれ181cm、180cmです。おまけに日本サッカー界の未体験ゾーンといわれる190cm台も、岩熊が191cm、ダルビッシュが196cmなんです。平均身長は183.5cmらしいです。183.5cmってもう、サッカーのオーストラリア代表を超えてるんですよ! 』 あの頃、もう気づいていた人がいたんですね。では、今回はどうなんだろうと調べてみると、こんな記事が有りました。 『 *2014W杯サッカー日本代表の平均身長は177.86cm* 日本代表23人の平均身長は177

映画「ふしぎな岬の物語」の「岬」に行ったことがある

 ★今年の秋「ふしぎな岬の物語」と言う映画が公開されるそうです。原作は森沢昭夫氏の小説「虹の岬の喫茶店」。主演でもある吉永小百合さんが、監督と共に初めて企画にも参加されたんだそうです。 ◎原作小説「虹の岬の喫茶店」 (この記事アップ後、カナダの第38回モントリオール世界映画祭で、「ふしぎな岬の物語」は、最高賞のグランプリに次ぐ審査員特別グランプリと、エキュメニカル審査員賞を受賞しました。おめでとうございます) *その他の資料リンク ◎「房日新聞」喫茶店「岬」経営して35年 ◎「三浦半島デジカメ便り」音楽と珈琲の店「岬」(火事焼失前) ◎「三浦半島デジカメ便り」再建後の「岬」写真 (他人のブログリンクですみません) じつはこの映画に出て来る「岬」と言う喫茶店は、千葉県の東京湾側、明鐘岬に実在するのです。つまり実在する喫茶店と実在する人物をモデルに描かれた小説、その映画化と言うことになります。 そして過去に僕は(僕たちは)ブレード隊、つまりインラインスケート長距離走行チームとして、休憩のために、この「岬」を訪れているのです。二人連れで一回と、単独走行で一回の計二回。で、その時のことを僕が書いた走行記が二つあるので、紹介しておきたいと想うのです。 一つは1992年に二人連れで、四日かけて鴨川までの162.2kmを滑った、 「南房総に夏の終わりの夢を見た 」 二つめは1994年、途中の白浜127.4km地点でリタイアした単独走行、 「幻のBOSO100マイル」 走行期は現在サーバの関係で削除してあります。いつかの機会に「ブレード走行記」として再アップしたいと思ってますが、原作小説の作者、森沢氏が、初めて「岬」を訪れたのが2008年頃とのことですから、我々が行ったのはそれよりもずっと前、今からざっと20年ほど前の出来事ということになります。 「幻のBOSO100マイル」では、その年の8月に、突如35℃越えの酷暑日が何日も続きまして、無謀にもその炎天下を数十キロ滑って、熱中症と想われる症状に見舞われ、途中リタイアしてしまったのです。 いまにして想えば、あれが、温暖化の影響による「異常に暑い夏」の始まりだったと言う気がしてならないのですが、もちろんあの時は自分が「熱中症」にやられていると言うことさえ気付きませんでした。何しろ「温暖化」や「熱中症」という言葉さえ、まだ一般には浸透し

幻じゃない?広島カープが快進撃の理由?!

★これだけ調子がいいと、ホントは(好調が逃げて行きそうで)あまり口にしたくないのです。おまけに、いよいよカープが苦手な「セパ交流戦」が始まるので、ひょっとしてそこで失速するんじゃないか?と気が気ではないのですが、ともあれ、我が応援する広島カープが首位を走っております。 まあ、交流戦をうまく乗り切れば、あの、まさかの「優勝」の二文字も夢では無くなって来るので、そのガンバリに期待したいところです。聞けば、23年間していないとのことで、わたくし、カープファンですら「そんなになるのかい?」と想うほど、「遠い昔に見た夢」と言うことになってしまいました。 ですが、ここではカープがこれからどうなるかと言うことよりも、野村謙二郎監督の能力と言うことを語りたいと想うのです。僕は、野村氏が監督に就任したとき、「これで広島は確実に強くなるだろう」と確信しておりました。 なぜそう想ったかと言うと、星野ジャパンがメダルを取れなかった北京オリンピックの野球中継を見た時のことです。その試合で解説をしていたのが野村謙二郎氏で、その解説(と言うより予見?)の一つ一つの的中率が素晴らしく、洞察力の鋭さに驚き、感服したからなのであります。 で、個人的には、次のジャパンの監督を選ぶなら、ぜひ野村氏になって欲しいと想っていたのですが、監督経験が無いとか、若すぎるとか言う理由で候補にすら上がりませんでした。その代わり、でも無いでしょうが、カープの監督に就任することになり、いよいよ手腕を発揮することになったわけです。 ただ、ここまでに来るのに5年と、想ったよりは時間がかかってしまいました。通常、チーム再建は3年が目安と言われてますからね。しかしながら、毎年のように、エースと四番がFAで抜けて行くチーム事情を考えれば、良くやった方だと想います。 「そんなの、後からなら何とでも言えるよ」と想われるかも知れませんが、これが後追いではない証拠?に、当時書いたブログ記事があるので、それをリンクさせておきます。そんなに的外れではないと想うので、読んでみてください。 ◎ ブログGOB-MESSAEGE「星野ジャパン・・」 就任から数年間Bクラスに低迷していた時は、カープファンの中にも、野村監督を無能呼ばわりして「即刻辞任せよ!」の言葉がツイッター上にあふれたそうですが、そいつらよりも僕の方が、

消費税にまつわる悲しい(悔しい?)想い出

★ついに消費税8%となりましたが、「消費税」と聞くと、いつも思い出すエピソードがあるのです。これは、消費税と言うものが日本で初めて導入されたころのお話しです。 じつは、私が会社をやめフリーのイラストレーターを目指し始めたころと、消費税の初導入時期とはほぼ重なっていました。 消費税は始まったばかりだったし、私自身も世間的にもまだまだ未経験な部分が多く、制度への誤解による運営方法の間違いなど、色々あったように想います。・・とは言え、当時の消費税は税率3%で、所得三千万円以上の事業主が納めるものであり、まあ、自分とは無縁なものだとは想っていたのです。 ところがです。ある若い税理士に、「原稿料の請求をするとき、ちゃんと消費税も上乗せしていますか?」と、言われてビックリしたことがあったのです。 私は、「いや、とんでもない。そんな稼ぎ無いですから・・」と苦笑して、多少うろたえながら答えました。すると税理士は、「そうなんですよね。そう言う風に勘違いしてる人って、多いんですよね」と言うのです。 そのころ私は、豊島区の東長崎に住んでいました。池袋から西武線で一個目の「椎名町」が最寄り駅です。そこに数年住んで、その後、中野区や渋谷区に移り住んだのですが、その引っ越し先での生活から感じたのは、豊島区ってけっこう区民サービスが良かったなあ、と言う印象なのです。(もちろん全ての区や市町村のことは分かりませんが) たとえば、区の方から、自由業には必須の国民年金の説明会のお知らせが来て、年金の概要や支給申請の仕方など、懇切丁寧に教えてくれたり(その後、消えた年金問題が浮き彫りになりましたが)、確定申告についても、区から派遣されたと言う若い税理士が、わざわざ自宅まで訪ねて来て、無料で税金の説明から申告書の書き方まで教えてくれたです。 その時の流れで、税理士さんが、「 ちゃんと消費税も上乗せしていますか? 」と質問して来たわけなのです。私が唖然としていると、さらに説明を続けるのでした。   (↓ 重要) 「 消費税と言うのは、あくまで一個一個の商品にかかる税金であって、事業主にかかる税ではないのです。もしも、消費税のかかる商品とかからない商品が流通上に混在すると、税の公平性が失われます。なので、事業主が個人であるか企業であるかにかかわらず、あるいは、大規模である

旧友からの電話

★ある時、電話がかかって来るのです。出てみると友人のKからでした。 「今日、二人でまた飲みに行かないか。いつもの場所で待ってるから」 そう言うのです。彼とは中学からの親しい仲でした。大学を卒業して数年間は音信不通の時代もあったのですが、彼の結婚式をきっかけに再会、それからまたひんぱんに会うようになったのです。 電話を置くと、僕はいつもの場所へと向かいます。ところが妙なのです。待ち合わせの場所へと行こうとするのですが、その日に限って中々たどり着けないのです。 「おかしいな」と想いつつ、先へ進めば進むほど、なぜか見知らぬ場所に出くわして、道に迷ってしまうのです。僕は妙な胸騒ぎを覚え、やみくもに街中を探し歩くのですが、どうしても見つけることが出来ません。そしてとうとう、彼に会うことはなかったのです。 「いったい、どうなっちゃたんだ?」 そう想ったとたん、ハッと目が覚めました。・・夢だったのです。 彼には会えるはずがありません。彼は10年ほど前に病に倒れ、すでに亡くなっているからです。享年46歳だったと記憶しています。 この夢は、かつて彼の三回忌が近づいた頃に見たものでした。あの、遠くから聴こえて来るような、夢の中の電話の声が、いつまでも耳に残っていたのを覚えています。 彼とは中学時代に、その他の数人と「心霊研究」や「同人誌の出版」など、さまざまな風変わりなことを仕出かした仲でした。周囲から変人扱いされてましたが、むしろそれを楽しんでしまうような、そんなヤツらでした。 ところがです。リーダー格だったそのKが亡くなったあと、彼のお通夜にも来ていた仲間の一人、Tが、なんとその一ヶ月後に急死すると言う悲劇が起こり、さらに驚かされました。 もちろん同じ46歳です。聞いたところによると、自宅のパソコンに向かったまま、眠るように息絶えていたそうです。彼は若いころアパートの火災に合い、肺を火傷したことが原因で、決して体が強い方では無かったのですが、それでも「まさか!?」と想ったものです。 ・・で、じつは先日、我々の草野球チーム・ゴブリンズの、かつてのメンバーであったヤマグチ君が突然亡くなったと言う知らせがあったのです。その彼も享年46歳だったと聞いて、とても驚きまして、ほぼ同じ年齢で亡くなった中学時代の仲間二人のことを思い出した、と言うわけなの

ロト7のCMが面白いと評判です

★重役会議に呼ばれた妻夫木くんが、不安そうに「なんの話しでしょう・・」と言うと、隣を歩く上司の柳葉氏が、「心配するな。お前のことはオレが守る」と力強く語るのです。 ・・が、いざ会議室に入って、かつて柳葉氏が名刺と間違えて渡してしまったロトカードを見たとたん、「私ではありません。そんなものは今初めて見ました」と、平気な顔でしらばっくれるのです。「えっ!?」と驚き、呆然と立ち尽くす妻夫木くん・・ これを見たとたん、じつは、僕の身にホントに起こった、良く似た出来事を思い出していました。 * 僕は美大を卒業した1982年、日本初のCGプロダクションと言われたJ会社に入社しました。J社は当初、「テレビ用連続アニメをフルCGで制作する」を目標に立ち上げられました。ところが、今ならパソコンレベルで出来るような作業も、当時は、フルCGどころか毎回数秒のCGカットを入れるだけで精一杯、残りのほとんどのシーンは手描きアニメ頼みという状態でした。億単位で導入したDEC社の大型コンピュータ「VAX11-780」の演算速度が遅すぎたのです。 J社は赤字状態のまま1年、2年が過ぎ、ようやく誰もが、これは人の問題ではなくコンピュータそのものの限界なのだと気づき始めました。しかし社長をはじめ上層部はそうは考えていませんでした。あくまで現場スタッフの能力不足であると言い張り、マシンは24時間フル稼働、スタッフはコンピュータに合わせて夜昼なく働け、と言うことになりました。 僕らは、食事や休憩で集まるたびに危機感を話し合うようになりました。で、この状況を打開するには、誰かが、社長に現実を伝えなければならない。そうやって新しい方向性を模索しなければ、もはや倒産への道をまっしぐらに転げ落ちるしかない、今がその分かれ道なのだ、と言うことになりました。 そしていろいろ話し合ったあと、CM部門の部長T氏が、僕を呼んでこう言いました。「お前、理論武装しろ。それで、次の管理者会議で社長に現場のありのままを話すんだ。そうしないともう何も前に進まない」当時僕は現場のチーフとして管理者会議に出席していたのです。 「でも、そんなこと言って大丈夫っスかね?」と尋ねると、T氏は「もし社長がわめき出したら、オレがお前をバックアップする」と、T部長はあのギバちゃんのよ